【第二巻】 第二章「後任」
三月が近づいていた。
暁嶺学院の中庭に植えられた梅の木が、硬い蕾をほころばせ始めている。まだ寒い。吐く息は白く、朝の空気には冬の残り香が漂っている。それでも日は確実に伸びていて、放課後の訓練が終わる頃にはまだ薄明かりが残るようになっていた。
三月──卒業の月。
凛は穴蔵の三番レーンで、いつものように六時四十分から射撃訓練を行っていた。P226の銃声が地下に反響し、コンクリートの壁を震わせる。五マガジン目。最近は五マガジンに増やした。増やした理由を、凛はもう考えないことにしていた。
パン。パン。パン。
標的の胸部に集弾する。散布界は拳ひとつ分以内。悪くはない。だが凛は表情を変えなかった。
「凛、ちょっと」
千歳が四番レーンから顔を覗かせた。イヤーマフを片耳だけずらしている。
「今日の午後、全体集合がかかってる。風紀部隊全員。作戦室で」
「何の件だ」
「人事だって。氷室先輩が──」
千歳はそこで言葉を切り、わずかに表情を曇らせた。
「卒業式は来週末でしょ。総隊長の引き継ぎ、そろそろ正式に決めないといけないから」
凛はマガジンを抜き、スライドを引いて薬室を確認した。空。
「……そうか」
「そうか、じゃないよ。凛に関係あることだよ、多分」
「多分、な」
凛はP226をホルスターに収めた。
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午後三時。風紀部隊詰所二階の作戦室。
六分隊の隊長全員と、情報班・装備班・医療班の各班長。風紀部隊の幹部が一堂に会する場は、裁定戦や大規模作戦の時くらいだ。それが人事案件で招集されるということは──それだけ事態が紛糾しているということだった。
凛は第三分隊の席に着いた。作戦室の長机は分隊番号順に並んでおり、第三分隊は左側の三番目。隣に千歳が座り、その後ろに楓と瑠衣が控えている。
第一分隊の席には、東雲恭介がいた。
三年生。暁嶺学院風紀部隊第一分隊隊長。長身で、短く刈り上げた黒髪。制服の上に着たタクティカルベストには、実戦で使い込まれた傷がいくつもついている。暁嶺の六分隊の中で最大の隊員数を誇る第一分隊は、長年裁定戦の主力を担ってきた──前回の裁定戦で氷室が第三分隊を指名するまでは。
東雲の視線が、一瞬だけ凛の方に向けられた。凛は気づいたが、視線を合わせなかった。
作戦室の正面に、氷室雅が立った。
長い黒髪。銀縁の眼鏡。ロングコートの下、腰のホルスターにFN Five-seveNが収まっている。いつもと同じ姿。ただ──今日の氷室の佇まいには、どこか終わりの気配が漂っていた。
「皆、集まってくれてありがとう」
氷室の声が作戦室に響いた。静かだが、よく通る。
「単刀直入に言います。来週の卒業式をもって、私は暁嶺学院風紀部隊総隊長の職を退任します。これは既定の事項ですが、後任の選定が──正直に言えば、難航しています」
室内に微かな緊張が走った。全員が知っていたことだが、氷室が公式にそう口にしたことで、現実の重みが増した。
「通常であれば、総隊長は退任者の推薦と上層部の承認によって決定されます。私にも推薦の権限がある。──しかし今回、私の推薦と上層部の意向が、一致していません」
氷室はそこで一度言葉を切った。
凛は、自分の名前が出ることを予感していた。
「私が推薦したいのは、第三分隊隊長の御崎凛です」
室内がざわついた。ざわめきは大きくなかったが、それは全員がある程度予想していたからだろう。凛は表情を変えなかった。背筋をまっすぐにして、氷室の目を見返した。
「御崎は二年生ですが、前回の裁定戦で代表チームを率い、聖樹館との市街地戦で勝利を収めました。個人の戦闘力は暁嶺でも屈指。さらに月詠女子学園の不正を独力で暴き、鳴神区の治安回復に貢献した」
「──しかし」
蔵本教員が口を開いた。風紀部隊運営委員長。四十代の女性教員で、元自衛官。彼女は室内の誰よりも組織の規律を重んじる人間だった。
「御崎には、裁定戦における命令違反の処分歴がある。総隊長は風紀部隊六十名の命を預かる職です。命令違反の前科がある人物に、その職を任せられるかどうか──上層部としては、慎重にならざるを得ません」
氷室が頷いた。
「承知しています。上層部の懸念は理解できる。だからこそ、この場で全幹部に意見を聞きたい」
東雲が右手を挙げた。
「発言してもいいですか」
「どうぞ」
東雲は席から立ち上がった。凛より頭ひとつ分高い長身が、作戦室の蛍光灯を背にして影を落とす。
「氷室総隊長の推薦は、個人の戦闘力に偏重していると思います」
東雲の声は落ち着いていたが、底に硬いものがあった。
「総隊長に必要なのは、強さだけじゃない。六分隊を統括する管理能力、学院上層部との折衝、政府との連絡調整──組織運営の能力です。御崎は優れた戦闘員ですが、組織運営の実績がない。それに」
東雲の視線が凛に向けられた。今度は逸らさなかった。
「命令違反は、結果がどうであれ組織の信頼を損なう行為です。仮に御崎が総隊長になった場合、部隊員は『命令に背いても許される』という誤ったメッセージを受け取る。それは風紀部隊の根幹を揺るがす」
凛は黙って聞いていた。反論の余地がなかったからではない。東雲の言っていることが、正しかったからだ。
「東雲、あなたの推薦は」
氷室が訊いた。
「僭越ですが、第一分隊から後任を出すべきだと考えます。第一分隊は暁嶺の最大戦力であり、組織運営の経験も最も豊富です。──具体的には、第一分隊副隊長の藤宮を推薦します」
第一分隊の席で、一人の二年生が微かに背筋を伸ばした。藤宮朱音。凛は名前を知っているが、直接話したことはほとんどない。物静かで、事務処理能力に秀でた人物だという評判は聞いていた。
「藤宮は裁定戦の後方指揮を三度担当し、いずれも任務を完遂しています。命令違反の前科もない。組織を安定的に運営するなら、藤宮が適任です」
東雲はそう言い切って、席に座った。
室内に重い沈黙が落ちた。
第四分隊の隊長が手を挙げた。二年生の女子生徒で、凛とは同学年だ。
「あたしは氷室先輩の推薦に賛成します。正直、今の暁嶺に必要なのは安定じゃなくて突破力だと思う。月詠を潰したのは御崎だし、黄昏エリアの処理もまだ終わってない。これから何が起きるかわからない状況で、事務処理が上手い人じゃなくて、戦える人が上に立つべきです」
「突破力は認める。だが突破力だけで組織は回らない」
東雲が即座に返した。第四分隊の隊長が言葉を詰まらせた。
第二分隊の隊長は沈黙を守っている。第五分隊、第六分隊も同様だ。発言は第一と第四のみ。──この場の空気は、二つに割れていた。
凛は、自分から発言するつもりはなかった。推薦された側が自分を売り込むのは筋が違う。それに、東雲の指摘には一理あった。凛に組織運営の経験がないのは事実だ。命令違反の前科があるのも事実だ。
だが──。
「私からいいですか」
声を上げたのは、瑠衣だった。
凛は振り向いた。瑠衣は椅子の背にもたれかかり、腕を組んだまま、東雲を真っ直ぐに見ていた。
「瑠衣」凛が低い声で制した。
「いいじゃん、意見くらい言わせろよ」
瑠衣はそう言って、椅子から立ち上がった。第三分隊の突撃手。ミリタリージャケットのポケットに片手を突っ込んだまま、作戦室の全員を見渡す。
「あたしは蒼風の出身だ。知ってるだろ。蒼風がどうなったか──資金が尽きて、装備が古くなって、まともに戦えなくなった。政府からの支援は打ち切られ、管轄エリアは縮小された。それでも蒼風は潰れなかった。なぜだと思う」
誰も答えなかった。
「強い奴が上にいたからだ。安定的に組織を運営する奴じゃなく、背中を見せて先頭に立つ奴がいたから、あたしたちは最後まで戦えた。──組織を安定的に運営する? そんなのは平時の話だろ。今の鳴神区は平時じゃねえ。月詠が潰れて、勢力図がぐちゃぐちゃになって、どの学園がどう動くかわからない。こういう時に必要なのは──」
「鷹宮」
蔵本が遮った。
「あなたは分隊の一般隊員です。この会議での発言権は隊長にあります」
「──チッ」
瑠衣は舌打ちして座った。凛は瑠衣を見たが、瑠衣は視線を合わせなかった。拳を握ったまま、唇を噛んでいる。
沈黙が長引いた。氷室がそれを断ち切った。
「今日この場で結論は出しません。各分隊の意見を持ち帰って、三日以内に書面で提出してください。最終決定は卒業式の前日に行います」
氷室はそう言って、書類を畳んだ。
「──ただし。一つだけ言っておきます」
氷室の声のトーンが変わった。冷静さの中に、わずかな熱が混じった。
「総隊長という職は、最も強い人間がなるものではない。最も正しい人間がなるものでもない。──最も、覚悟がある人間がなるものです。それは、私が二年間この席に座って学んだ、唯一の確信です」
氷室の視線は、誰の上にも留まらなかった。全員に向けられ、全員を素通りした。
「以上。解散」
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作戦室を出た廊下は、夕日のオレンジ色に染まっていた。
凛は黙って歩いていた。千歳が隣に並び、楓が半歩後ろを歩き、瑠衣はさらにその後ろで、ポケットに両手を突っ込んだまま不機嫌そうに歩いている。
「東雲先輩、けっこう辛辣だったね」
千歳が凛の横顔を窺いながら言った。
「的確だった」
「凛は怒らないの?」
「怒る理由がない。東雲先輩の言っていることは正しい」
「でも──」
「千歳。私は総隊長になりたいと思ったことがない」
千歳が言葉を止めた。凛は前を向いたまま歩き続けた。
「氷室先輩が推薦してくれたのはありがたい。だが、私にその器があるかどうかは別の問題だ。六十人の命を預かる──そんな重さを、今の私が背負えるとは思えない」
「凛……」
「第三分隊の四人を守ることだけで、精一杯だ」
廊下の角を曲がった先に、分隊室があった。凛がドアを開けると、いつもの六畳の部屋。ロッカーが四つ、作戦テーブルが一つ、壁に鳴神区の地図。
瑠衣がドアを閉め、壁にもたれかかった。
「凛。さっきのあたしの発言、迷惑だったか」
「迷惑ではない。だが場をわきまえろ」
「わきまえた上で言ったつもりだ。──蔵本に止められたけどな」
「瑠衣の気持ちはわかる。だが、東雲先輩を敵に回す必要はない」
「敵? あいつが先に喧嘩売ってきたんだろ。凛の命令違反がどうとか──」
「事実を指摘しただけだ。東雲先輩は組織のことを考えている。それは間違っていない」
瑠衣は唇を噛んだ。反論したそうな顔をしていたが、凛の目を見て、ため息をついた。
「……わかったよ。でもあたしは納得してない」
楓がロッカーの前で、黙ってM700のケースを開いていた。いつもの手入れ。ボルトを引き、薬室を確認し、クリーニングロッドを通す。無駄のない動作。だが──左腕の動きが、やはり少し遅い。
「楓」凛が声をかけた。
「はい」
「腕、まだ痛むか」
「……少しだけ。射撃には支障ありません」
「無理はするな。完治まで、あと一ヶ月だ」
「了解です」
楓はそう答えて、ライフルの銃身を静かに磨き始めた。蛍光灯の光が、金属の表面を滑る。
千歳が作戦テーブルに肘をつき、頬杖をついた。
「ねえ凛。仮に──仮にだよ? 凛が総隊長になったら、第三分隊はどうなるの」
「なるとは言っていない」
「仮に、って言ったでしょ。仮定の話」
「…………」
凛は少し考えた。
「総隊長は各分隊の上位に立つ。特定の分隊に所属することはできない。──つまり、第三分隊の隊長は別の誰かが務めることになる」
「それ、やだなあ」
千歳の声は軽かったが、目は笑っていなかった。
「凛がいなくなったら、あたしが隊長? 無理無理。あたしは副隊長が性に合ってるの。横で支えるのは得意だけど、先頭に立つのは柄じゃない」
「千歳にはできる」
「凛にそう言われても、自信ないんだって。──ねえ楓、楓はどう思う?」
楓がクリーニングロッドを止めた。
「……先輩が、先輩のいるべき場所にいてくれれば、それでいいです」
「楓〜、それ答えになってないよ」
「なっています。先輩がどこにいても、私は先輩の命令に従います。それだけです」
瑠衣が鼻を鳴らした。
「楓は相変わらずブレねえな。──あたしは正直、凛が上に行くのは賛成だ。ただし」
瑠衣が壁から背を離し、凛の正面に立った。
「あたしらを捨てんなよ。総隊長になろうが何だろうが、第三分隊はあたしらの居場所だ。それだけは譲れねえ」
「……捨てない」
凛の声は静かだった。小さかった。だがその一言には、嘘がなかった。
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翌日の放課後。
凛は風紀部隊詰所の二階、総隊長室の前に立っていた。
ドアをノックする。
「入りなさい」
氷室の声。凛はドアを開けた。
総隊長室は作戦室より一回り小さい。デスクが一つ、椅子が二脚。壁には歴代総隊長の名札が並んでいる。氷室は窓際に立ち、鳴神区の街並みを眺めていた。
夕暮れの光が、氷室の横顔を照らしている。銀縁の眼鏡がオレンジ色に光った。
「座りなさい」
凛はデスクの前の椅子に座った。氷室は窓に背を向け、凛の向かいに座った。
「昨日の会議の件。──あなたの考えを聞きたい」
「私の考え、ですか」
「ええ。あなたは何も発言しなかった。推薦された当事者が何も言わないのは、謙虚なのか、無関心なのか。どちらかしら」
「……どちらでもありません。東雲先輩の指摘が正しいと思ったから、反論する必要がなかっただけです」
「正しい、と思ったの?」
「はい。私には組織運営の経験がない。命令違反の前科がある。──これは事実です」
氷室がわずかに目を細めた。
「あなたは自分に厳しいわね。それは長所でもあり、欠点でもある」
「欠点、ですか」
「自分を過小評価する人間は、いざという時に『自分には無理だ』と逃げる可能性がある。──凛。あなたは逃げるタイプ?」
「……逃げません」
「そう。それが、私があなたを推薦した本当の理由よ」
氷室はデスクの引き出しから、一枚の書類を取り出した。暁嶺学院の紋章が入った公式文書。
「これは私が上層部に提出した推薦書の控えよ。読みなさい」
凛は書類を受け取った。
推薦理由の欄に、氷室の筆跡で記されていた。
『御崎凛は、命令違反の前科を持つ。それは事実であり、免責する意図はない。しかし彼女が命令に背いた理由は、仲間の命を守るためであった。指揮系統の重要性と仲間の命、その二つを天秤にかけた時、彼女は迷いなく仲間を選んだ。──総隊長に必要な資質は何か。私はこの二年間、ずっと考えてきた。判断力、指揮能力、政治的交渉力──すべて必要だ。だが最も必要なのは、部下の命を背負う覚悟である。御崎凛には、それがある。彼女に欠けているのは経験であり、経験は時間が与える。しかし覚悟は、時間では手に入らない』
凛は書類をデスクに戻した。
「…………」
「どう? 褒めすぎかしら」
「褒めすぎです」
「でしょうね。上層部にもそう言われたわ」
氷室が苦笑した。凛が見たことのない、どこか疲れたような笑み。
「凛。正直に言えば、今の段階では上層部を説得するのは難しい。藤宮朱音の方が──数字の上では、無難な選択だ。実績は安定しているし、人望もある。何より、傷がない」
「では──」
「だが、私はあなたに総隊長になってほしい。個人的な感情ではなく、暁嶺の未来を考えた上での判断よ。鳴神区の情勢は安定していない。月詠の跡地をめぐって、これから何が起きるかわからない。そんな時に必要なのは、安定ではなく──」
「──覚悟」
凛が引き継いだ。氷室が微かに頷いた。
「ええ。ただし、覚悟だけでは上は動かない」
氷室は眼鏡を外し、レンズを布で拭いた。その仕草が妙に人間的で、凛は少し戸惑った。氷室は常に完璧で、隙がない人間だと思っていた。だが今、目の前にいるのは──卒業を控えた、一人の三年生だった。
「凛。お前が証明するしかない。言葉ではなく、行動で。命令の範囲内で結果を出し、信頼を取り戻す。──できるか」
凛は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、静かな部屋に響いた。
「やります」
「ああ。期待している」
氷室が眼鏡をかけ直した。いつもの知的な冷静さが戻る。だが、その目の奥にほんの一瞬だけ、温かいものが見えた気がした。
「それと──もう一つ」
「はい」
「卒業する前に、一つだけ聞いておきたいことがある。あなたは去年の裁定戦の後、沙耶の死の真相を追っていたわね」
凛の体が、微かに硬くなった。
「月詠の件で、沙耶を撃った実弾の出所は判明した。だが、それで終わったわけではないでしょう」
「…………」
「実弾が裁定戦に紛れ込むのは、月詠だけの問題ではない。制圧弾と実弾の管理は政府の管轄──つまり、もっと上の構造が関わっている可能性がある。あなたもそう考えているはずよ」
凛は少し黙った。そして、頷いた。
「……はい。まだ、終わっていないと思っています」
「そう。──私も同じ考えよ。卒業後も、できる範囲で情報は流します。暁嶺のOGネットワークは、それなりに使えるから」
「ありがとうございます」
「感謝は要らない。あなたが暁嶺を守ってくれれば、それでいい」
氷室は窓の外に目を向けた。灰色がかった夕暮れの空。鳴神区の空はいつも煙っている。
「……この街の空は、いつも曇ってるわね」
「はい」
「でも、たまに晴れる。──あなたが総隊長になる頃には、少し晴れるといいわね」
凛はその言葉に、何も返せなかった。
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分隊室に戻ると、千歳と楓が待っていた。瑠衣はウェイトルームにいるらしい。
「どうだった?」千歳が身を乗り出した。
「氷室先輩と話した。──推薦の理由を聞いた」
「で?」
「覚悟があるから、だそうだ」
「覚悟……」千歳が首を傾げた。「うん、それは確かにそうだけど。もっとこう、具体的な理由はないの? 戦闘力がトップとか、統率力があるとか」
「それは東雲先輩の方が上だと思う。少なくとも、組織運営では」
「凛ってさあ、ほんと自己評価低いよね。──楓、何か言ってあげてよ」
楓はM700のスコープを覗き込みながら、ぽつりと言った。
「先輩は、強いです」
「だからそれだけじゃ──」
「強いだけじゃなくて。先輩は、弱い人のことがわかる人です。──それが、総隊長に必要なことだと、私は思います」
千歳が目を丸くした。楓がこれほど長い感想を言うのは珍しい。楓はすぐにスコープに顔を戻して、「以上です」と呟いた。
凛はロッカーの前でP226のホルスターを外しながら、楓の言葉を反芻していた。
──弱い人のことがわかる。
そうだろうか。凛は自分が「弱い人のことがわかる」とは思えなかった。沙耶を守れなかった。訓練場で楓が撃たれた時も、間に合わなかった。わかっているのは「弱い」ということだけだ。自分が。
ドアが開き、瑠衣が入ってきた。タオルを首にかけ、汗を拭きながら。
「おう、凛。氷室先輩の部屋行ってたんだろ? 千歳から聞いた」
「ああ」
「で──どうすんの。総隊長、やんの?」
瑠衣の問いは直球だった。凛は一瞬だけ間を置いてから、答えた。
「わからない。やるとも、やらないとも言えない。上が決めることだ」
「上じゃなくて、凛がどうしたいかを聞いてんだ」
「…………」
凛は窓の外を見た。もう暗い。鳴神区の街灯がぽつぽつと灯り始めている。朝凪エリアの向こうに、黄昏エリアの暗がりが広がっている。月詠がいなくなった、空白の街。
「──もう少し、考える」
「はいはい。凛は考える前に何か腹に入れとけ。考える時は血糖値上げないとな」
「……さっきカレーを食べたばかりだろ」
「育ち盛りなんだよ。おら行くぞ、買い出しだ。夜風にも当たりてえし」
「……勝手に行け」
「凛もどうせ何か食うだろ。パンか? それともまたカレーパンか?」
千歳が笑った。楓がM700をケースにしまい、黙って立ち上がった。
四人で分隊室を出る。夜の校舎を歩く足音が四つ、重なる。
凛は歩きながら、氷室の言葉を思い出していた。
──お前が証明するしかない。言葉ではなく、行動で。
行動で証明する。それは凛にとって、最も理解しやすい言葉だった。言葉は嘘をつく。感情は揺れる。だが弾は──弾だけは、嘘をつかない。
問題は、何を証明するかだ。
命令に従える人間であること? 組織を運営できる人間であること? ──それとも。
凛はまだ、答えが出なかった。
だが、探す気はあった。
夜風の中で、四人で歩きながら。
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