【第二巻】 第一章「命令違反の代償」
三学期の朝は、いつもと同じ匂いがした。
火薬の残り香と、コンクリートの冷たさ。暁嶺学院の地下二階、射撃訓練場──「穴蔵」。凛は三番レーンに立ち、SIG P226を構えていた。
午前六時四十分。始業一時間二十分前。
いつもより早い。以前は六時五十分には来ていたが、最近は四十分に来るようになった。十分早くなった理由を、凛は自分でもよくわかっていなかった。眠れないのか、眠りたくないのか。
息を吸い、止め、吐く。トリガーを引く。
パン。標的の胸部中央。
パン。パン。パン。四発連続で同じ箇所に集弾する。凛は表情を変えずにマガジンを抜いた。
二ヶ月前──月詠女子学園の黄昏エリアに単身で突入したあの日から、凛の射撃精度は上がっていた。恐怖を知ったからだ。実弾が飛び交う中を走り、鏡夜と対峙し、弾倉が尽きかけて格闘戦に移行した。あの時、一発の重みを本当に理解した。
だから今、一発も外せない。
「おはよ、凛。今日も早いねえ」
千歳が四番レーンに現れた。いつものハーフアップにまとめた茶髪、イヤーマフを首にかけた姿。ただ──その声のトーンが、わずかに慎重だった。
「おはよう」
「何マガジン目?」
「四マガジン目」
「……増えてない? 前は三マガジンだったのに」
凛はマガジンを交換した。新しいマガジンの重みが掌に馴染む。十五発。
「増やした」
「理由は?」
「月詠で弾が足りなかった。あの時、もう二マガジン分の練習量があれば、もっと正確に撃てた」
「凛は十分正確だったよ。鏡夜を制圧したじゃん」
「制圧したんじゃない。弾が尽きて格闘に移行しただけだ。あれは失敗だった」
千歳は何も言わなかった。言えなかったのだろう。凛の「失敗」の定義が、普通の人とは違うことを、千歳は知っている。
七時前に楓が来た。
小柄な体にライフルケースを背負い、いつもの無表情で「おはようございます」と呟く。銀色がかった黒髪のショートボブが蛍光灯に反射して、ほんのわずかに光った。
楓の左肩には、まだサポーターが巻かれていた。
二ヶ月前の裁定戦で月詠の狙撃を受けた傷。防弾制服の肩パッドが弾丸を弾いたが、衝撃で左肩に打撲と裂傷を負った。骨折はなかったものの、深い打撲は完治に時間がかかると診断された。二ヶ月が経った今、裂傷は塞がり痛みも引いている。だが医師は「まだ無理はするな」と言っていた。
「楓、腕の調子は」
「問題ありません。昨日の検査で、射撃訓練の再開許可が出ました」
楓はそう言いながら、ライフルケースを開いた。Remington M700を取り出し、ボルトを引き、薬室を確認する。いつもと変わらない、無駄のない動作。ただ──左腕の動きが、ほんの少しだけ遅かった。
凛はそれに気づいたが、何も言わなかった。楓は自分の腕の状態を誰よりも把握しているはずだ。そしてそれを隠そうとするような子ではない。
「五十メートル、調整から始めます」
「ああ」
楓が狙撃レーンに向かう背中を見ながら、凛はP226のスライドを引いた。
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一時間目は現代文。二時間目は世界史。三時間目は──。
「御崎凛。職員室に来なさい」
二時間目が終わった休み時間に、担任教師が教室に現れてそう告げた。凛は無言で席を立ち、千歳と目を合わせた。千歳が小さく首を振る。「わからない」という意味だ。
だが凛には、心当たりがあった。
職員室ではなく、その奥にある小会議室に通された。長机が一つ、パイプ椅子が六脚。壁には暁嶺学院の校訓が額縁に入って掲げられている。
部屋には三人がいた。
学院長の坂上。初老の男性で、温厚な顔立ちだが、目だけが冷たい。風紀部隊運営委員長の蔵本。四十代の女性教員で、元自衛官。そして──。
「座りなさい、御崎」
蔵本が言った。凛は最も手前のパイプ椅子に腰を下ろした。
三人目の人物が口を開いた。
「御崎凛。風紀部隊第三分隊隊長。昨学期末の裁定戦における職務報告書は、提出済みだね」
鳴神区学園自治管理局の職員──名札には「黒田」とあった。灰色のスーツに、無機質な眼鏡。政府の人間だ。
「はい」
「報告書の内容を確認した。裁定戦中、氷室総隊長の続行命令に反し、独断で戦線を離脱。月詠女子学園の管轄エリアに不法侵入し、武力衝突を起こした。結果として月詠の違法行為が明るみに出たが──過程における命令違反の事実は変わらない」
凛は黙っていた。
わかっていた。月詠の闇を暴いたことは評価された。だが「命令に背いた」という事実は消えない。風紀部隊は軍隊ではないが、指揮系統の無視は組織の根幹を揺るがす。
「処分は以下の通りだ」
黒田が書類を読み上げた。
「第一。御崎凛に対し、風紀部隊運営規定第十七条に基づく『厳重注意』を発令する。第二。第三分隊への裁定戦参加資格を、当面の間停止する。第三。第三分隊の管轄区域巡回任務を、通常の半分に削減する」
凛の指が、膝の上でわずかに握られた。
「──任務削減、ですか」
「そうだ。第三分隊は当面、日常巡回と訓練のみに従事してもらう。裁定戦の代表選出からも外す」
蔵本が補足した。
「御崎、あなたの実力は評価している。だが組織として、命令違反を見過ごすわけにはいかない。これは罰ではなく、信頼回復のための措置だと理解しなさい」
「信頼回復の期間は」
「未定。あなたの行動次第だ」
凛は一瞬だけ目を伏せた。そして顔を上げた。
「──了解しました」
反論はしなかった。反論しても意味がないことは、わかっていた。月詠を潰したことで鳴神区の治安は改善された。だがそれは「結果が良かっただけ」であり、命令違反のプロセスを正当化するものではない。
凛は会議室を出て、廊下を歩いた。足音が静かに響く。
──半分か。
巡回任務が半分になれば、第三分隊の存在感は薄まる。任務配分は各分隊の評価に直結する。評価が下がれば、装備の優先度も下がる。弾薬の支給数も減る。
それが「代償」だった。
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昼休み。食堂。
凛はカレーの皿を持って、いつもの席に着いた。千歳がチキンカツ定食を持って向かいに座り、楓がきつねうどんを持って隣に来た。
瑠衣はまだ来ていなかった。
「──で、何て言われたの」
千歳が箸を止めて訊いた。凛は一口カレーを食べてから答えた。
「厳重注意。裁定戦の参加資格停止。巡回任務を半分に削減」
「半分?」千歳が目を見開いた。「それ、かなり重くない?」
「妥当だと思う。命令違反は事実だ」
「でも、結果的にあたしたちは──」
「結果は関係ない。プロセスの問題だ」
凛がそう言い切ると、千歳は口を閉じた。凛の言っていることが正しいことは、千歳にもわかっていた。ただ、納得できるかどうかは別だ。
楓が小さな声で言った。
「……先輩。それは、私のせいでもあります」
「楓のせいじゃない」
「私が月詠に撃たれなければ、先輩たちは裁定戦を離脱する必要がなかった。私が──」
「楓」
凛の声は静かだったが、有無を言わせない響きがあった。
「お前が撃たれたのは、月詠の違法行為の結果だ。お前に責任はない。それに、あの選択は私がした。分隊全員がついてきてくれたが、責任は私にある」
楓は箸を止め、うどんの器を見つめていた。唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。代わりに、小さく頷いた。
「──すみません」
「謝らなくていい」
瑠衣が食堂に入ってきた。チキン南蛮の大盛りとライス大盛りを盆に載せ、ドスドスと足音を立てて席に着く。
「遅ぇ遅ぇ。ウェイトルームが混んでてよ──って、なんだこの空気」
「凛が処分された」千歳が簡潔に説明した。「巡回任務が半分」
「はあ?」
瑠衣が箸を止めた。
「半分だと? ふざけんな。あたしらが月詠を潰したから、鳴神区の治安が良くなってんだろうが。それで任務削減って、どういう了見だ」
「瑠衣、声が大きい」
「大きくて結構。おかしいだろ、どう考えても」
瑠衣の怒りは、凛や千歳とは違う方向に向いていた。瑠衣にとって「組織の論理」は、蒼風時代から嫌というほど味わってきたものだ。弱い学園は切り捨てられ、強い学園は優遇される。同じ構造が、暁嶺の中にもある。
「瑠衣。私は受け入れた。これは妥当な処分だ」
「妥当じゃねえよ。凛が命令に背いたのは、楓を──仲間を守るためだろ。それを罰するってのは」
「組織はそうやって成り立ってる。指揮系統を無視して良い結果が出たからといって、それを認めたら、次に同じことをした人間が良い結果を出す保証はない」
瑠衣は黙った。凛の理屈は正しい。正しいが──。
「……クソッ」
瑠衣はチキン南蛮を一口で半分食べた。
凛はカレーを食べ続けた。いつもと同じ味。沙耶が好きだったカレー。温かくて、少し辛くて、どこか懐かしい。
──でも、少しだけ、味が薄く感じた。
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放課後。
訓練は通常通り行われた。だが、以前は週に四回あった実戦形式の合同訓練が、今週から週に二回に減らされていた。訓練の質を上げろという指示もない。ただ「減らされた」のだ。
瑠衣は第二訓練棟の入口で壁に寄りかかり、腕を組んでいた。
「暇だな」
「訓練の回数が減ったからね。自主訓練でカバーするしかない」
千歳がM4のクリーニングロッドを動かしながら言った。
「自主訓練じゃ、連携の練習はできねえだろ。四人でのフォーメーションは、実際に動かないと鈍る」
「……それは、そうだけど」
楓は監視塔の上で、スコープの調整を黙々と続けていた。左肩のサポーターが夕日に白く浮かぶ。
凛は訓練棟の屋上にいた。フェンス越しに鳴神区の街並みを見下ろす。南に暁嶺の管轄する朝凪エリア。西に月詠がいた──今は空白地帯となった黄昏エリア。東に蒼風の旧市街エリア。北に黒羽工科学園の鋼町エリア。
鳴神区の勢力図は、月詠の消滅で大きく動いていた。
黄昏エリアは現在、どの学園の管轄にも属さない空白地帯になっている。政府はまだ再配分の方針を示していない。各学園が水面下で駆け引きをしているのは明白だった。
凛のインカムが鳴った。
『御崎。氷室だ。今、話せるか』
氷室雅。暁嶺学院風紀部隊総隊長。三年生。
「はい」
『処分のこと、聞いた。──すまない。私の力が及ばなかった』
「氷室先輩が謝ることではありません」
『いや。お前を裁定戦に送り出したのは私だ。そして、お前が命令に背いた時──私は止めなかった。止められなかった。その責任は、私にもある』
凛は少し黙った。
氷室は──止めなかった。あの時、インカムで「戦線に戻れ」と命じたが、凛がそれを無視した時、氷室は追加の命令を出さなかった。それは暗黙の了承だったのか、それとも──。
「先輩。なぜ、止めなかったんですか」
「…………」
長い沈黙。
『お前に、期待していたからだ』
氷室の声は、いつもの知的な冷静さの中に、わずかな苦みが混じっていた。
『結果として、お前は月詠の闘を暴いた。だが、それは結果論だ。お前が正しかったのではなく、運が良かっただけかもしれない。──凛。私は今年で卒業する。総隊長の席が空く。お前が適任だと、私は思っている』
「……え」
『だが今のお前では、上が認めない。命令違反の前科がある人間に、六十名の風紀部隊を任せるわけにはいかないと。──それが現実だ』
凛は屋上のフェンスを握った。金属の冷たさが指に伝わる。
「どうすればいいんですか」
『お前が証明するしかない。言葉ではなく、行動で。命令の範囲内で結果を出し、信頼を取り戻す。──できるか』
「……やります」
『ああ。期待している──今度は、期待の仕方を間違えないようにする』
通信が切れた。
凛はインカムを外し、夕暮れの空を見上げた。灰色がかったオレンジの空。鳴神区の空はいつも煙っている。
──総隊長。
考えたこともなかった。凛にとって戦う理由は、沙耶の真相を追うことと、仲間を守ることだった。組織を率いるという発想は、凛の中にはなかった。
だが氷室がいなくなれば、誰かがその役を担わなければならない。暁嶺学院の風紀部隊六十名。その全員の命を預かる重さ。
凛は右手を見た。P226の感触が染み付いた掌。
この手で守れるのは、せいぜい数人だ。第三分隊の三人──千歳、楓、瑠衣。それだけでも精一杯なのに。
「凛」
屋上の扉が開き、千歳が顔を出した。
「夕飯、食べに行こう。今日は食堂、ハンバーグだって」
「……カレーは」
「カレーもあるよ。いつも通り」
千歳が手を差し伸べた。凛はその手を見て、少し間を置いてから歩き出した。千歳の手は取らなかったが、隣に並んで歩いた。
階段を降りながら、千歳が言った。
「ねえ凛。処分のこと、気にしてるでしょ」
「気にしていない」
「嘘。凛が嘘つくと、声が平たくなるの、知ってる」
「…………」
「いいよ、気にしなくて。──あたしたちは変わらない。任務が半分でも、訓練が減っても、第三分隊は第三分隊だから」
千歳の声は明るかったが、その奥にある真剣さを、凛は感じ取っていた。
「……ああ」
食堂に向かう廊下で、楓と瑠衣が合流した。楓は制服の上にタクティカルベストを着たまま──左肩のサポーターが見えないように、ベストで隠していた。瑠衣はミリタリージャケットのポケットに手を突っ込み、大股で歩いている。
四人で食堂に入る。凛はカレーを、千歳はハンバーグを、楓はうどんを、瑠衣はハンバーグカレーの大盛りを取った。
「ハンバーグカレーって何だよ」千歳が瑠衣の皿を見て呆れた。
「ハンバーグの日にカレーがあるなら、合わせるのが正義だろ」
「それ正義じゃなくてただの暴食じゃ……」
「おう。瑠衣正義だ」
楓がうどんをすすりながら、わずかに口角を上げた。笑った──のかもしれない。楓の表情の変化は微細で、付き合いの長い千歳でも見逃すことがある。
凛はカレーを口に運んだ。
温かい。少し辛い。どこか懐かしい。
──さっきは味が薄く感じた。でも今は、ちゃんと味がする。
四人でいると、味がする。
凛はその感覚を言葉にしなかったが、スプーンを動かす手が少しだけ早くなった。
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夕食後、分隊室に戻った。
暁嶺学院の風紀部隊には、各分隊に専用の小部屋が割り当てられている。第三分隊の部屋は、風紀部隊棟の二階、廊下の突き当たり。六畳ほどの広さに、ロッカーが四つ、作戦テーブルが一つ、壁には鳴神区の地図が貼られている。
凛は作戦テーブルの上に、鳴神区の勢力図を広げた。
南部の朝凪エリア──暁嶺学院。
中央の常磐エリア──聖樹館女学院。
北部の鋼町エリア──黒羽工科学園。
東部の旧市街エリア──蒼風高等学校。
西部の黄昏エリア──元・月詠女子学園。現在は空白地帯。
「黄昏エリアの再配分、まだ決まってないんだよね」
千歳がテーブルに肘をつきながら言った。
「ああ。政府は慎重にやるつもりらしい。各学園の管轄能力を再評価してから決めると」
「それ、実質的には『一番強い学園に渡す』ってことでしょ」
「聖樹館が有力候補だろうな。規模と装備で他を圧倒してる」
瑠衣が地図の東部を指差した。
「蒼風はどうなんだ。旧市街エリアだって、もう維持できてねえだろ。黄昏エリアどころじゃない」
瑠衣の声に、わずかな苦さが混じった。蒼風──瑠衣の元の学校。
「蒼風は……管轄縮小の勧告を受けてる。旧市街エリアの西半分は事実上放棄されてるって聞いた」
「……そうか」
瑠衣はそれ以上何も言わなかった。楓がロッカーからM700のクリーニングキットを取り出し、黙々とライフルの手入れを始めた。
凛は地図を見つめた。
月詠が消えた鳴神区。一見、平穏が戻ったように見える。だが水面下では、各学園がそれぞれの思惑で動いている。聖樹館は黄昏エリアの獲得を狙い、黒羽は技術力を武器に存在感を高めようとし、蒼風は──。
蒼風がどう動くか。それが、凛には読めなかった。
没落校に何ができる──普通はそう考える。だが凛は、瑠衣の戦い方を知っている。蒼風で鍛えられた瑠衣の戦闘力は、暁嶺の中でもトップクラスだ。蒼風には「個」の力がある。足りないのは装備と資金であって、人間の質ではない。
もし蒼風に、誰かが装備と資金を提供したら──。
「凛、難しい顔してる」
千歳が言った。
「いつものことだろ」瑠衣が笑った。
「いつものこと、ではある。でもいつもより難しい顔」
凛はテーブルの地図を折り畳んだ。
「……明日から、できる範囲で情報収集をする。黄昏エリアの状況と、各学園の動向。巡回任務は減ったが、情報収集は任務の範囲内だ」
「了解。あたしが情報班に顔出してくるよ」千歳が立ち上がった。
「あたしは旧市街寄りの巡回コースを回る。蒼風の動きは、現場で見るのが一番早い」
瑠衣がそう言って、ジャケットのジッパーを上げた。
「楓は」
「……狙撃位置の再確認を行います。朝凪エリア内の高所ポイントのリストを更新しておきます」
「頼む」
凛は分隊室のドアに手をかけた。
──巡回任務は半分に減った。裁定戦への参加も停止された。だが、情報を集めることはできる。次に何が起きるか予測し、備えることはできる。
受け身でいるつもりはなかった。
凛はP226のホルスターに手を触れた。腰に収まる拳銃の重みが、いつも通りそこにあった。
──弾は、嘘をつかない。
だから、凛も嘘をつかない。処分は受け入れた。だが、諦めたわけじゃない。
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