【第二巻】 プロローグ「背中合わせの日々」
背中合わせに立つと、あいつの体温がわかった。
薄い制服越しに伝わる温度。痩せた肩甲骨の硬さ。息を吸い込む時にわずかに膨らむ背中。鷹宮瑠衣は、それを心地よいと感じていた。
二年前──中学三年の冬。
鳴神区東部、旧市街エリア。蒼風高等学校の管轄する──いや、かろうじて管轄と呼べる区域。崩れかけた商店街のアーケードの下で、瑠衣と凪沙は背中合わせに立っていた。
「──瑠衣、弾数は」
「ショットガンに四発。拳銃に六発。そっちは」
「スコーピオンのマガジンが半分。CZは満タン」
神代凪沙の声は、いつも平たかった。慌てているのか冷静なのか、声だけでは判別がつかない。だが瑠衣にはわかった。凪沙が息を浅く、速く吸っている。緊張している。当然だ。二人ともまだ中学三年。風紀部隊の正規隊員ですらない。それなのに、蒼風の管轄エリアを荒らす不法侵入者の排除に駆り出されている。
蒼風高等学校には、人が足りなかった。金も、装備も、何もかもが足りなかった。だから中等部の生徒まで借り出される。建前は「訓練の一環」。実態は、使い捨ての頭数合わせだ。
「来るよ、瑠衣」
凪沙の声に、瑠衣は反射的にベネリM4を構えた。
アーケードの奥から、四つの影が現れた。鳴神区外から流れ込んでくるチンピラ──武装した大人の男たち。学園自治特区の管轄外にいるはずの連中が、蒼風の弱体化を嗅ぎつけて旧市街に入り込んでくる。最近ではそれが日常になっていた。
聖樹館のエリアや暁嶺のエリアには来ない。風紀部隊がしっかりしているから。だが蒼風のエリアは違う。ここは鳴神区の治安の穴だった。
「あたしが前。瑠衣、援護」
「逆だろ。あたしが盾で前に出る」
「瑠衣はショットガンでしょ。近づきすぎたら味方に当たる」
「……チッ。わかった」
凪沙が飛び出した。
灰青のセーラー服が暗がりに溶ける。小柄な体が壁を蹴り、横に跳ぶ。右手のCZ 75が二発──乾いた音がアーケードに反響した。制圧弾が先頭の男の脚を打ち、よろめかせる。
間髪入れず、左手のVz.61スコーピオンが短い連射を吐いた。低い発射音が商店街に響き渡る。二人目の男がたまらず物陰に伏せた。
凪沙の動きは荒削りだったが、天性の勘があった。弾が飛んでくる場所に立たない。敵の死角に滑り込む。それを教わったわけではなく、体が知っている。
瑠衣はベネリを構え、凪沙が開けた射線に飛び込んできた三人目にショットガンを叩き込んだ。制圧弾のスラッグ弾が男の胸を打ち、二メートル吹っ飛ばす。
「ナイス、瑠衣!」
凪沙が叫んだ。笑っていた。こんな状況で、あいつは笑えるのだ。
残り一人が逃げようとするのを、凪沙が追いすがってCZの一発で足首を撃った。男が転倒し、地面に這いつくばる。
静寂が戻った。
アーケードの天井から差し込む月明かりの下で、凪沙が銃を下ろし、瑠衣を振り返った。
「──ね。あたしたちならやれるでしょ」
汗で額に張り付いた髪を掻き上げながら、凪沙は言った。灰青のセーラー服は泥と埃で汚れていたが、その目だけが妙に明るかった。
「蒼風は終わったなんて、誰が言った? まだあたしたちがいるじゃん」
「……お前、こんな状況でよくそんなこと言えるな」
「だって本当のことだもん。瑠衣がいて、あたしがいて。それだけで、ここは守れる」
瑠衣は何も言えなかった。
凪沙の言葉は、いつも真っ直ぐだった。真っ直ぐすぎて、時々眩しかった。蒼風が没落し、スポンサーが離れ、風紀部隊の先輩たちが次々と辞めていく中で──凪沙だけは「蒼風を立て直す」と本気で信じていた。
そしてその言葉は、瑠衣の中にある何かを支えていた。
「──ああ。そうだな」
瑠衣は短く答えた。凪沙がにかっと笑い、拳を突き出す。瑠衣もそれに応じて拳を合わせた。
「蒼風再興、第一歩。ね、瑠衣」
「大袈裟なんだよ、お前は」
「大袈裟くらいがちょうどいいの。夢は大きく」
あの夜、月明かりの下で交わした拳の感触を、瑠衣は今でも覚えている。
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あの日々は、確かに本物だった。
凪沙と二人で旧市街を駆け回った日々。装備はボロボロで、弾薬は常に不足していて、まともな防弾制服すら一着しかなかった。それでも瑠衣は、あの時間が嫌いではなかった。
背中を預けられる相手がいた。それだけで、銃を持つ理由になった。
だが、限界は来る。
蒼風高等学校の生徒数は減り続けた。風紀部隊は二十名を切り、管轄エリアは年々縮小していく。不法侵入者は増え、校舎の修繕費すら捻出できない。政府からの支援は聖樹館や暁嶺に優先され、蒼風には回ってこない。
弱い学園はさらに弱くなる。強い学園はさらに強くなる。それが鳴神区の構造だった。
瑠衣にはわかっていた。このままでは、蒼風は潰れる。
だから──逃げた。
高等部に上がるタイミングで、暁嶺学院への転入試験を受けた。凪沙には何も言わなかった。言えなかった。結果が出てから伝えれば、凪沙も理解してくれると思った。
甘かった。
瑠衣が転入を告げた日、凪沙は笑わなかった。
いつもの明るい目が、凍りついていた。
「──へえ。暁嶺に行くんだ」
凪沙の声は、あの平たい声だった。感情が読めない、あの声。
「凪沙、聞いてくれ。蒼風にいても──」
「いても何? 未来がないから? 先がないから?」
「……そうだ。あたしは──このままじゃ、お前と一緒に沈むだけだと思った」
「沈む、ね」
凪沙が繰り返した。その唇が、わずかに歪んだ。
「あたしたちなら蒼風を変えられるって、瑠衣も言ってたよね」
「あれは──」
「拳、合わせたよね。蒼風再興、第一歩って」
「凪沙」
「嘘だったんだ」
その一言が、瑠衣の胸を貫いた。制圧弾なんかより、ずっと深く。
「嘘じゃない。あたしは──」
「もういいよ」
凪沙は背を向けた。灰青のセーラー服の背中が、小さかった。
「行きなよ、暁嶺に。強い学校で、強い装備で、強い仲間と戦えばいい。──あたしは、ここに残る」
凪沙は振り返らなかった。
瑠衣は手を伸ばしかけて、止めた。何を言えばいいのかわからなかった。「一緒に暁嶺に来い」と言えばよかったのかもしれない。だが、凪沙が蒼風を捨てられないことは、瑠衣が誰よりも知っていた。
あいつにとって蒼風は、守るべき場所そのものだから。
だから、瑠衣は黙って踵を返した。
背中合わせの温もりが消えた日だった。
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二ヶ月前。
月詠女子学園の解体を、瑠衣はニュースで知った。暁嶺学院の食堂のテレビに映る、政府の記者会見。「特区制度の健全化に向けた措置」と、背広の男が淡々と読み上げていた。
凛たちが命懸けで暴いた真実が、たったそれだけの言葉で処理されていた。
そして、月詠の消滅で空白となった黄昏エリアをめぐって、鳴神区の勢力図が動き始めた──という報告を風紀部隊の情報班から受けた時、瑠衣の脳裏に浮かんだのは、凪沙の顔だった。
蒼風が動くかもしれない。
いや、凪沙なら──動く。
瑠衣のベネリM4は、今日もきれいに手入れされている。セミオートショットガンの滑らかなアクションは快調で、防弾シールドも新品同様だ。暁嶺の装備は充実している。弾薬の心配はないし、防弾制服の性能も高い。
蒼風にいた頃とは、何もかもが違う。
瑠衣は食堂の窓から、東の空を見た。旧市街エリアがある方角。凪沙がいる方角。
──あたしは、お前を見捨てたんだろうか。
答えは出ない。転入してから、もうすぐ二年が過ぎようとしている。そして今、三年生の春が来ようとしている。
灰色の空の下で、何かが始まろうとしていた。
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