【第一巻】 第十二章「影」
烏丸鏡夜は動かなかった。
椅子に腰を預け、膝の上にVSSを乗せている。銃口は下を向いていた。戦闘態勢ではない。
凛はP226を鏡夜に向けたまま、部屋の入口に立っていた。距離は四メートル。この距離なら外さない。外すわけがない。
背後に瑠衣のシールドの気配。さらに後ろに紫苑。
「──待っていたの?」凛の声は自分でも驚くほど平坦だった。
「待っていた」鏡夜が答えた。声は低く、柔らかかった。怖ろしいほど穏やかな声。「上の二人に殿をさせて、私は残った。──あなたと話すために」
「話すこと? 銃声で語り合うのがお前たちのやり方だろう」
「それはあなたも同じでしょう」
凛の指がトリガーガードの上で震えた。その通りだ。銃を突きつけて「話そう」と言っている自分も、十分に滑稽だった。
「──沙耶のことを話せ」
鏡夜の目がわずかに動いた。沙耶の名前に反応した──そう、凛は確信した。
「橘沙耶。一年前、裁定戦中に9×39mm弾で射殺された。お前がやったんだな」
「──そう」
鏡夜の声に躊躇いはなかった。否定も、弁解も、言い訳もない。ただ事実の承認。
凛の奥歯が軋った。
「なぜだ」
鏡夜はVSSの銃身を撫でた。無意識の仕草のようだった。
「命令だった。──この銃で、あの距離から、心臓を撃てと。裁定戦の混乱の中で、事故に見せかけろと」
「誰の命令だ」
「月詠の上層。──名前は知らない。私たちに命令を出すのは、顔のない声だけ。通信越しの、変声された声」
「嘘をつくな。ここの指揮所には記録があった。お前たちは組織的に動いている」
「組織的──そうね。でも、私たちは歯車よ。回されるだけの。──沙耶を殺した理由は、私の判断じゃない」
瑠衣が背後で唸った。低い、獣のような声。
「理由を聞いてんだよ。命令した奴の理由を」
鏡夜が瑠衣を見た。──いや、瑠衣の持つベネリM4を見た。
「……橘沙耶は、鳴神区の裏の仕組みに気づいていた」
凛の心臓が跳ねた。
「沙耶が──何に気づいていた」
「学園自治特区制度の本質。この特区は『教育と治安維持の両立』なんかじゃない。政府と軍需企業が、実戦データを収集するための実験場──少女に銃を持たせて殺し合わせ、そのデータを兵器開発と輸出に利用している。裁定戦の勝敗データ、戦闘映像、負傷と致死のパターン。全てが回収されている」
部屋の空気が凍った。
紫苑が小さく息を吸った。紫苑自身も調査していた情報の、その先──核心。
凛は沙耶の手帳の言葉を思い出した。「この街は嘘でできている」──その意味が、今、はっきりと形を持った。
「それだけじゃない」鏡夜が続けた。「制圧弾──裁定戦で使用が義務付けられているサプレスラウンド。あれの開発元は政府直轄の軍事研究機関。制圧弾が『致死率を下げる特殊弾』だと思っている生徒が多いけど──実際には、被弾データを効率的に収集するための弾薬。殺さず無力化することで、生きた被験者からの反応データが取れる」
「……最低だ」瑠衣が呻いた。「あたしたち、モルモットかよ」
「そう。モルモット。──それが、この特区の本質」
「沙耶は──」鏡夜が続けた。「暁嶺学院の情報端末から管理局のサーバーにアクセスして、データ収集プロトコルの一部を発見した。戦闘映像がリアルタイムで外部サーバーに転送されていること。被弾した生徒の医療記録が、治療目的ではなく研究目的で分類されていること。そして、一部のデータが海外の企業に売却されていること」
「売却──」
「兵器メーカーよ。日本国内だけじゃない。海外にも流れている。少女の被弾データが──対人兵器の精度向上に使われている」
凛の手が震えた。沙耶が見つけたものの大きさが──今、初めて実感として凛の体を貫いた。
「沙耶がそれを知った時、どうしたか知っている?」鏡夜の声が静かに変わった。わずかに──ほんのわずかに、感情が滲んだ。「彼女は泣いていた。管理局のサーバーにアクセスした夜、寮の自室で──一人で泣いていた」
「なぜそれを知っている」
「監視していたから。処理命令が出る前から、橘沙耶は監視対象だった。──私がスコープ越しに彼女を見ていたのは、あの日が初めてじゃない」
凛の血が逆流した。沙耶は知らないうちに、ずっと銃口を向けられていた。泣いている夜も、笑っている朝も。
「沙耶はその後、調査を続けた?」
「ええ。泣いた翌日から、もっと深く潜り始めた。──無鉄砲な子だった。助けを求めることもできたのに、一人で抱え込んだ。管理局に記録が検知されて──処理命令が出た」
「処理」
「そう。管理局が月詠に発注し、月詠が実行する。私が──実行した」
凛の手が震えていた。P226の銃口が微かに揺れた。
沙耶は正しかった。手帳に書いていた。「この街は嘘でできている」──嘘の正体は、これだった。少女を実験動物にする構造。それを知った沙耶は──消された。
「──お前は」凛の声が掠れた。「撃つ時、何を考えた」
鏡夜が凛を見た。感情のない目──いや、違う。その奥に、何かが揺れていた。
「……何も」
「嘘だ」
「何も考えなかった。考えてはいけなかった。考えたら──引き金を引けなくなるから」
鏡夜がVSSのストックを握りしめた。指が白くなるほど。
「でも──撃った後に、一つだけ思った。スコープ越しに見た彼女の顔を。倒れる瞬間の──」
鏡夜の声が途切れた。
「──彼女は、怒ってなかった。驚いてもいなかった。ただ──悲しそうだった。自分が死ぬことにじゃない。何かを──誰かを、残していくことに」
凛の目から涙が落ちた。自覚はなかった。ただ、視界が歪んだ。P226の照準がぼやけた。
沙耶。お前は最後に──私のことを考えてくれたのか。私や千歳を残していくことを──悲しんでくれたのか。
鏡夜の声が静かに続いた。
「私は月詠に拾われた。捨て子だった。名前もなかった。鏡に映る自分の影みたいだと言われて、鏡夜と名づけられた。──銃の撃ち方は三歳で覚えた。文字を覚えるより先に」
「同情を引こうとしてるのか」凛の声は硬かった。
「いいえ。事実を話しているだけ。──私には感情がなかった。教えられなかったから。嬉しいも、悲しいも、怒りも。全部、知らなかった。──橘沙耶を撃つまでは」
鏡夜がVSSのストックから手を離した。膝の上で指を組んだ。
「沙耶を撃った後、初めて──ここが痛んだ」鏡夜が胸に手を当てた。「何かわからなかった。肋骨でも折れたかと思った。──でも違った。これが『悲しみ』だと知ったのは、ずっと後のこと」
「……だから何だ。悲しくても、お前は引き金を引いた」
「そう。引いた。──だから私は、罰を受けるべきなのかもしれない」
「かもしれない──じゃない。受けるんだ」
「──お前を、殺したい」
凛は自分の声を聞いた。遠く聞こえた。
「そうでしょうね」鏡夜が言った。
「でも──殺して、沙耶が戻ってくるわけじゃない。それもわかってる」
「……わかっているなら、どうする?」
凛はP226を下ろさなかった。下ろせなかった。銃口は鏡夜の胸の中心を向いたまま。
「お前を管理局に突き出す。沙耶の死が事故じゃないと──証明するために。お前は証人だ」
「管理局に? 管理局が発注者よ。私を突き出しても、握りつぶされる」
「管理局じゃない。外だ。鳴神区の外──メディア、司法、政治家。特区制度の闇を、外の世界に晒す」
鏡夜がわずかに目を見開いた。
「──橘沙耶と同じことをするの。彼女が殺された理由と同じことを」
「沙耶は一人だった。──私には仲間がいる」
凛の背後で、瑠衣がシールドを鳴らした。紫苑が銃を構え直した。
鏡夜は凛を見つめた。長い沈黙。
「……あなたは、沙耶に似ている」
「似てない。──沙耶はもっと優しかった」
「優しかった。だから死んだ」
その言葉が凛の胸を抉った。
「──私を連れていくと言った。でも、今日は無理よ」
鏡夜が立ち上がった。凛のP226が鏡夜の動きを追う。
「動くな」
「──後ろ」
鏡夜が静かに言った瞬間、背後の壁の一部が──開いた。隠し通路。コンクリートの壁に偽装されたパネルが内側にスライドし、暗い空間が口を開けた。
その奥から──銃声。
消音された二発が、凛の足元のコンクリートを抉った。威嚇射撃。凛が反射的に身を伏せる。瑠衣がシールドを前に出す。紫苑が壁に身を隠す。
隠し通路の奥に、二つの影。月詠の制服。先ほど講堂から逃げた二人が、ここに回り込んでいた。
「鏡夜さん! こちらへ!」
鏡夜がVSSを肩に担ぎ、隠し通路に向かって走った。
「待て──!」凛が叫んだ。P226を向けた。撃てる。今なら撃てる。背中が見えている。
指がトリガーにかかった。
──撃てなかった。
鏡夜が走りながら振り返った。一瞬だけ。
「御崎凛。──次に会う時は、銃で決着をつけましょう。それが──私とあなたの、話し合い方だから」
鏡夜が隠し通路に消えた。パネルが閉じる。金属の嵌合音。
凛はP226を握りしめたまま、閉じた壁を見つめた。
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瑠衣がシールドを下ろした。
「──逃がしたな」
「ああ」
「撃てたのに」
「ああ」
「……なんで撃たなかった」
凛は答えなかった。答えが自分でもわからなかった。──嘘だ。わかっている。鏡夜の背中に、沙耶の影が見えたから。同じ構造に囚われた少女。逃げ場のない檻の中で、銃を持たされている。
紫苑が壁を調べていた。
「隠し通路は内側からロックされている。追跡は困難ね。──地下の構造がわからない以上、深追いは危険」
「わかってる」凛が言った。
通信機が鳴った。千歳の声。
『凛ちゃん! 十二分経過。状況は?』
「──生きてる。三人とも。鏡夜と接触したが、逃げられた。これから戻る」
『了解。こっちは安全。──急いで。楓ちゃんから報告、東側に車両の動きがあるって。増援の可能性あり』
「急ぐ」
三人は地下通路を走って戻った。階段を駆け上がり、講堂に出る。千歳と鶴見が待っていた。安曇が搬入口側で警戒を続けている。
「証拠品は確保した。鏡夜と接触──沙耶の死の真相を聞いた。詳しくは後で話す。今は撤退する」
千歳は凛の顔を一目見て、何も聞かなかった。凛の目が赤いことにも、頬に涙の跡があることにも触れなかった。ただ頷いて、M4A1のセーフティを確認した。
「了解。──帰ろう、凛ちゃん」
八人が来た道を逆に辿った。講堂を出て、旧校舎の廊下を駆け抜ける。さっきの戦闘の痕跡──壁の弾痕、散らばった薬莢、フラッシュバンの焼け焦げ。
旧校舎の裏口から外に出ると、夜の冷気が頬を打った。結月が端末を確認した。
「月詠の通信が活発化しています。──でも方向は南側。こちらの撤退ルートとは反対方向です」
「今のうちだ。急げ」
北壁。監視カメラ。今度はカメラの周期を確認する余裕もなく、全員が一斉に斜面を駆け上がった。暗がりの中、足元の枯れ葉を蹴散らしながら。隠密行動の余裕はない。速度を優先した。
楓が狙撃位置から合流した。スコープカバーを付け直しながら、凛の隣に並ぶ。
「増援は来ませんでした。車両は黄昏エリアの南側で停止し、そのまま引き返しました」
「警戒態勢に入っただけか。──助かった」
「──凛隊長。鏡夜と会ったんですね」
「ああ」
楓は凛の顔を見て──何も言わなかった。楓も、千歳と同じだった。聞くべき時を知っている。
山道を降りる。八人の足音と、夜の虫の声だけが響いた。東の空が微かに白んでいる。
廃バス停で、紫苑たちと別れた。
「紫苑。──ありがとう」
「感謝はいい。──鏡夜に逃げられたことは残念だけど、証拠品は十分。講堂の指揮所のデータは大きいわ」
「次はどう動く」
「この情報を聖樹館の上層部に突きつける。──動かざるを得なくなるはず」
「こちらも同じだ。氷室に見せれば──管理局を迂回する方法を考えてくれるはずだ」
紫苑が頷いた。鶴見と安曇が紫苑の後ろに立つ。
「御崎さん」紫苑が言った。「鏡夜は──あなたに会いに来ると思う。彼女はあなたに何かを見ている。自分が失ったものを」
「わかってる」
「──気をつけて」
紫苑たちが闇の中に消えた。
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暁嶺学院に戻ったのは午前五時過ぎだった。東の空が藍からオレンジへ変わっていく。鳥の声がし始めていた。日常が戻ってくる音。
作戦室に五人が入った。楓がドアを閉め、瑠衣がシールドを壁に立てかけた。千歳がコーヒーメーカーのスイッチを入れた。結月は端末を開き、紫苑から共有された証拠データの整理を始めた。
凛は椅子に座り、ジャケットの内ポケットから沙耶の写真を取り出した。
沙耶の顔。笑っていない。暁嶺の制服を着て、正面を向いた証明写真。裏のメモ──「処理済。9×39mm。実行:K」。
凛は写真を裏返して伏せた。
「──全員に報告する」
凛は、鏡夜から聞いた全てを話した。特区制度の裏の仕組み。データ収集のための実験場。沙耶がそれに気づいたこと。処理命令。そして──鏡夜自身の境遇。
話し終えた時、部屋は沈黙に包まれていた。コーヒーメーカーがぽこぽこと音を立てている。
結月が最初に口を開いた。声が震えていた。
「私たちの──戦闘データが、兵器開発に使われている──? あの裁定戦で、私たちが撃たれたデータが──?」
「ああ」
「──そんなの、知らなかった。知らなかったです。私、暁嶺に入った時、ここなら安全だって──通信技術を学べるって──」
結月が端末を握りしめて、うつむいた。
千歳がコーヒーをマグカップに注いで持ってきた。凛と、結月と、自分の分。
「はい、結月ちゃん。砂糖多めにしといたよ」
「……ありがとうございます」
楓が窓際に立ち、腕を組んだ。
「私は──知っていたかもしれません」
全員が楓を見た。
「知っていた?」凛が訊いた。
「正確には、薄々感じていました。私の家は貧しくて──暁嶺のスカウトが来た時、母が泣いていました。嬉しくて泣いたんじゃない。娘を売るような気持ちだったんだと──今ならわかります」
楓の声は淡々としていた。感情を排した、報告のような口調。でも凛は知っていた。楓のこの口調は、感情を抑えている時のものだ。
「でも、私に他の選択肢はなかった。今もない。──だから、この構造を壊す側に回れるなら、私はそうしたい」
瑠衣が壁を拳で叩いた。軽く。でも音は硬かった。
「蒼風もそうだったってことか。金がなくなって崩壊した──んじゃなくて、最初から使い捨てだったんだ。用が済んだら切り捨て。涼花が月詠に脅されてたのも──全部、この構造の中の出来事だ」
「ああ」
「──ふざけんな」
瑠衣の声は低かったが、激昂していなかった。もっと深い場所からの怒りだった。
千歳がコーヒーを啜り、天井を見上げた。
「ねえ、凛ちゃん。あたしたち──世界を変えなきゃいけないの?」
「わからない。──でも、沙耶が見つけた真実を、このまま埋もれさせるわけにはいかない」
「……だよね」千歳が笑った。疲れた笑顔。でも、折れてはいなかった。「──あたし、世界を変えるとか大層なことは考えられないけどさ。凛ちゃんが行くなら、どこまでも付き合うよ。それだけは決まってる」
凛は千歳を見た。幼馴染。沙耶と三人で、中学時代に同じ教室で弁当を食べていた。あの頃は銃なんて知らなかった。
「ありがとう、千歳」
「礼なんていいって。──それより、次の一手は?」
凛は沙耶の手帳を握りしめた。
「それでも、守りたいものがある」
沙耶が守りたかったもの。それは──人を殺さなくて済む世界だったのかもしれない。この特区という檻から、少女たちを解放すること。鏡夜のような少女が、三歳で銃を握らなくて済む世界。
「次は──鏡夜と決着をつける。そして、全ての証拠を──外に出す」
凛は窓の外を見た。東の空が白んでいた。長い夜が終わろうとしている。
──でも、まだ終わっていない。鏡夜は生きている。沙耶の真実は、まだ世界に届いていない。
「次は──終わらせる」
凛は呟いた。コーヒーは、冷めかけていた。
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