【第一巻】 第十章「命令と意志」
紫苑との会談から三日後。凛は氷室雅に呼び出された。
総隊長室は暁嶺学院本館の三階にある。重厚な木製ドアを開けると、窓際のデスクに氷室が座っていた。午後の光が背後から差し、表情に影を落としている。
「座って、御崎さん」
凛は促されるまま、デスクの向かいの椅子に腰を下ろした。氷室は書類を片づけ、両手を組んだ。
「──第三分隊の活動報告、受け取った。加えて、結月さんの通信ログ解析の結果も」
「はい」
「久瀬楓への狙撃。月詠女子学園の暗殺部隊の存在。聖樹館との非公式接触。──随分と派手に動いているわね」
凛は黙った。氷室の声は穏やかだったが、その裏に鉄の芯があった。
「報告が遅い、とは言わないわ。あなたの判断でここまで調査を進めたことは評価する。──でも」
氷室がデスクの引き出しからファイルを取り出した。書類には鳴神区管理局の公印が押されていた。
「この件について、私は上層部──暁嶺学院理事会と、鳴神区管理局に報告した」
凛の目が細くなった。
「上は何と」
「月詠女子学園に関する調査は管理局の管轄であり、各学園の風紀部隊が独断で行動することは認められない──というのが公式の回答よ」
「──つまり、何もしないということですか」
「そうは言っていないわ。管理局が独自に調査チームを編成するとのこと。──ただし、編成に時間がかかるでしょうね。一ヶ月か、二ヶ月か」
凛は椅子の背もたれに体を預けた。一ヶ月。その間に月詠がどう動くか。楓が撃たれた。次の標的は自分か、千歳か──あるいは、真相に近づいている紫苑か。
「管理局の調査チームの構成は」
「それについては開示されていないわ。内部人事だから」
「人事が不透明なチームに任せろ、と」
氷室の眉がわずかに動いた。
「あなたの言いたいことはわかる。でも御崎さん──不信感だけで組織を無視することは、ただの暴走よ」
「暴走でも、止まっているよりは真実に近い」
「──感情で動く兵士は、味方を危険に晒す。あなたが一番わかっているはずでしょう」
その言葉は凛の胸に刺さった。沙耶を失った日──凛は感情のまま走り出し、紫苑たちの銃口の前に飛び出した。千歳に引き戻されなければ、凛も死んでいたかもしれない。
「氷室総隊長。一ヶ月は待てません」
「わかっているわ」氷室は目を伏せた。「──だから、命令するの」
氷室が凛の目を真っ直ぐに見た。
「御崎凛。第三分隊隊長として命じる。月詠女子学園ならびに黄昏エリアに関するすべての独自調査活動を即時中止しなさい。聖樹館との非公式接触も禁止。管理局の調査チームが動くまで、通常任務に専念すること」
静かな部屋に、壁時計の秒針の音が響いた。
「──理由を聞いてもいいですか」
「理由は二つ。一つ、あなたたちは学生であり、暗殺部隊と戦うための訓練を受けていない。実弾で狙撃されたという事実が、それを証明している」
凛は反論しなかった。事実だったから。
「二つ。暁嶺学院の風紀部隊が他校の領域に踏み込めば、裁定戦のルールに違反する。学園間の秩序が崩壊すれば、特区制度そのものが危うくなる。──四百人の生徒の居場所を守ることが、私の責任よ」
「その四百人の中に、殺された橘沙耶も含まれていましたか」
空気が凍った。
氷室の表情が一瞬だけ揺らいだ。ほんの一瞬──しかし凛はそれを見逃さなかった。
「……沙耶さんのことは、私も忘れていない。だからこそ、正規の手続きで真実を明らかにしたい。個人の暴走では──犠牲が増えるだけ」
「正規の手続きで、沙耶の死は一年間『事故』のままでした。管理局の調査チームが真実を追うと、本当に思っていますか」
氷室は答えなかった。
凛は立ち上がった。
「命令は理解しました。──しかし、従えません」
「御崎さん」
「紫苑から得た情報では、月詠の資金の一部は管理局経由で流れている可能性がある。管理局の調査チームに任せるということは──犯人に捜査を任せるということです」
氷室が立ち上がった。デスク越しに凛と向き合う。二人の間に、見えない壁があった。
「命令違反には処分が伴う。風紀部隊からの除名。──それは、あなただけでなく、あなたの分隊全員に及ぶ可能性がある」
「承知しています」
「承知して──なお、行くの」
「はい」
氷室は長い間、凛を見つめた。その目には怒りだけではない──苦悩が、混じっていた。
「……私は、組織の長として止めなければならない。でも──」
氷室は視線を窓の外に向けた。暁嶺学院のグラウンド。放課後の練習をしている生徒たちが見える。
「──私個人としては、あなたの判断が正しいと思う。だから、最後に一つだけ言う」
氷室が振り返った。
「今夜の二十二時以降、本館の監視システムに三十分の定期メンテナンスが入る。武器庫の電子ロックも同時にリセットされる。──それだけよ」
凛は氷室を見た。氷室は微かに笑い──そしてすぐに表情を消した。
「この会話は記録に残らない。そして私は、あなたを止めた。──いいわね」
「──了解しました」
凛は敬礼し、総隊長室を出た。
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作戦室に戻ると、四人が待っていた。
千歳がソファに足を投げ出し、楓が窓際に立ち、瑠衣が壁にもたれ、結月が端末に向かっている。凛が入ると、全員の視線が集まった。
「結果は?」千歳が訊いた。
「氷室総隊長から正式に活動中止命令が出た。月詠への調査も、黄昏エリアへの接近も、聖樹館との接触も──すべて禁止だ」
沈黙。
「──で?」瑠衣が壁から背を離した。「凛、お前が大人しく従うなら、あたしたちはここに集まってない」
「従わない」
凛は四人の顔を順に見た。
「これは命令違反だ。処分される。風紀部隊からの除名──最悪の場合、暁嶺学院からの退学もありうる。──だから、ここから先は任意だ。強制はしない。降りたい奴は降りろ」
千歳が最初に手を挙げた。ただし挙げたのは左手で──右手でソファの上のM4のハンドガードを叩いた。
「はいはい、あたし参加。──凛ちゃんさ、あたしがいつお前を一人で行かせたことがあるわけ?」
「千歳」
「幼馴染を舐めんなって話よ。──それに、沙耶のことはあたしだって忘れてない。あの子と最後にハンバーグ食べたの、あたしだからね」
千歳は笑ったが、目の奥は笑っていなかった。
楓が窓際から一歩前に出た。左肩の包帯が制服の下にわずかに膨らんでいる。
「凛隊長。──私は撃たれました」
「ああ」
「私が狙撃手として彼らに脅威だから、撃たれた。──つまり、私には彼らを止める力がある。その力を使わない理由がありません」
「肩は大丈夫か」
「初弾が当たったのは防弾制服の肩パッド部分です。骨と筋肉への損傷は軽微。狙撃姿勢に問題はありません。──私のライフルは、あの日から一度もケースから出していません。出す場所を待っていました」
凛は楓を見た。一年生。十六歳。家族を養うために銃を持つことを選んだ少女。──その目に迷いはなかった。
結月が端末から顔を上げた。
「あの──私は、戦闘要員としてはあまり役に立てないかもしれません。でも、通信傍受と電子戦支援なら──いえ、むしろそれが一番重要だと思います。月詠の通信を妨害できれば、『影』の連携を分断できる。私がいなければ、それはできません」
結月は言い終えてから、自分の大胆さに驚いたように両手で口を押さえた。
「──すみません、なんか偉そうに」
「偉そうなんかじゃないよ、結月ちゃん。事実だもん」千歳が笑った。
最後に瑠衣。
瑠衣はしばらく黙っていた。壁から離れ、凛の正面に立った。
「──凛。あたし、涼花に会ってきた」
全員の視線が瑠衣に集まった。
「雨宮涼花と接触したのか。──いつ」
「昨日の夜。蒼風の旧校舎近くで──あいつの方から連絡があった。あたしが探してるって噂が流れたらしい」
「それで」
瑠衣は目を閉じ、深く息を吐いた。
「涼花は──月詠に脅されてた。蒼風の残党の安全と引き換えに、情報を流すよう強要されてた。拒否すれば蒼風の後輩たちが消される、と」
「……それで協力していたのか」
「ああ。でも、涼花自身は月詠のやり方に反発してた。内部の情報を少しずつ溜め込んでた。──これ」
瑠衣がポケットからメモリーカードを取り出した。
「涼花が持ってた月詠の内部通信ログの一部。それと──黄昏エリアの内部構造の写真が何枚か入ってる。涼花は一度だけ、月詠の拠点に連れていかれたことがあるらしい」
「どんな場所だったと言っていた」
「古い校舎を改造した施設。窓は塞がれてて、中は薄暗い。あちこちに銃器が置いてあった。──それと、涼花が見た限り、月詠の戦闘員は全員十代の少女だったそうだ。大人は一人もいない」
「──大人がいない?」
「指揮官も、教官も。全部生徒だけで回してる。涼花は『あそこは学校じゃない、檻だ』って言ってた」
結月がすぐに手を伸ばした。
「結月、解析頼む」
「はい!」
凛は瑠衣を見た。
「涼花は無事か」
「今は蒼風の安全地帯に匿ってる。あたしの元仲間が二人、見張りについてくれてる。──しばらくは大丈夫だ」
「よくやった。瑠衣」
「褒めるなよ。遅すぎたくらいだ」
瑠衣は拳を握り、凛の目を見た。
「涼花は言ってた。『月詠の連中は、あの場所から逃げられない子を集めてる。逃げ場のない子は兵器になる』──あたしは蒼風から逃げた人間だ。でも、逃げたからこそ見えるものがある。あの場所から出られない子たちを──放っておけない」
「──ついてくるんだな」
「当たり前だ。シールドで前を張る。いつも通りにな」
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二十一時。作戦室。
結月が涼花のメモリーカードのデータと紫苑の地図を突き合わせた結果をスクリーンに映した。
「紫苑さんの地図と涼花さんの写真を重ねることで、黄昏エリアの内部構造がかなり明確になりました」
スクリーンには黄昏エリアの立体的な地図が表示されていた。丘陵の上に建つ古い校舎群。その周囲に張り巡らされた監視カメラと有線センサーの推定位置。
「メインの建物は三棟。北側の旧校舎が生活区画、中央の講堂が指揮所、南側の倉庫群が武器庫と思われます。──そして、紫苑さんが指摘した北側の山道。涼花さんの写真にも、この道の出口らしき場所が写っています。監視カメラは一台だけ。しかも──」
「死角があるのか」凛が訊いた。
「はい。地形の関係でカメラの視野角が狭い。北北西から接近すれば、約二十メートルの区間で死角が生まれます」
「二十メートルか。一人ずつ通るなら十分だ」
「問題は通過後です。旧校舎の裏手に出るんですが、ここに人感センサーがある可能性が高い。写真に配線らしきものが写っていました」
「センサーの無力化は?」
「通信系に侵入できれば、誤作動を装って一時的に無効化できるかもしれません。──ただし、私が現場にいる必要があります。遠隔では反応速度が足りない」
凛は結月を見た。結月は端末を抱きしめるようにして、凛の目を見返した。怯えはあったが──引く気はなかった。
「わかった。結月、現場に来い。ただしお前は戦闘には加わるな。後方で電子戦支援に専念しろ」
「了解です」
凛はスクリーンに向き直った。
「作戦方針を確認する。──明日の〇二〇〇時、暁嶺北門を出発。〇三〇〇時に紫苑と合流。〇三三〇時、黄昏エリア北側山道から侵入開始。目標は──」
凛は地図の中央を指した。
「月詠の『影』の拠点と推定される講堂。ここに踏み込み、烏丸鏡夜を捕捉する。沙耶の件の証拠を確保する。──殺害は目的じゃない。あくまで証拠と身柄だ」
「聖樹館の三人の配置は?」千歳が訊いた。
「紫苑と打ち合わせ済みだ。白薔薇の二人が西側からの陽動を担当する。紫苑自身は北側ルートで我々と合流する」
「八人で暗殺部隊の本拠地に突っ込むのか……」千歳が天井を見上げた。「まあ、もっと無茶なことはしたことあるか。──ないわ。初めてだわ、この規模の無茶は」
「嫌なら降りろ」
「だーかーらー、降りないって!」
凛は全員を見た。千歳、楓、瑠衣、結月。
「──頼む」
四つの頷きが返ってきた。
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二十二時十分。本館の監視システムがメンテナンスに入った。
凛は一人、武器庫に向かった。電子ロックが解除されている。氷室が言った通りだった。
武器庫の中は静かで、金属と油の匂いがした。壁に並ぶ銃器のラック。弾薬の棚。凛は必要なものを手際よくバッグに詰めた。予備のマガジン。9mm弾のボックス。スモークグレネード二発。通信機のバッテリー。
凛は最後に、自分のSIG P226を手に取った。スライドを引き、薬室を確認する。空。マガジンを挿入。スライドリリース。金属の小気味よい音。
──一年前。この銃を握って、何もできなかった。沙耶が倒れた時、この銃は凛の手の中で──ただの金属の塊だった。
今は違う。
凛はP226をホルスターに収めた。
サブウェポンのMP5Kも確認した。折り畳みストックの動作。セレクターの切り替え。マガジンの挿抜。問題なし。凛はMP5Kをバッグの中に収めた。
武器庫を出ると、廊下の暗がりに人影があった。
氷室雅。
二人は無言で向き合った。
「──見回りよ」氷室が言った。「何も見ていないわ」
「ありがとうございます」
「感謝は要らない。──生きて帰りなさい。五人全員で。それが、あなたが私にできる唯一の報告よ」
「了解しました」
氷室が踵を返した。その背中が廊下の闇に溶けていく。
凛は自室に戻り、ベッドの上にバッグを置いた。時計は二十二時四十五分。出発まで三時間余り。眠れるとは思わなかった。
凛は枕元から沙耶の手帳を取り出した。
何百回も開いたページ。沙耶の丸い文字。
「銃は嘘をつかない。でも、人は嘘をつく。この街は嘘でできている。──それでも、守りたいものがある」
凛は手帳を閉じた。胸に押し当てた。
──沙耶。明日、お前の真実を取り戻しに行く。
凛は目を閉じた。暗闇の中で、微かに銃油の匂いがした。
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