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【第一巻】 第九章「休戦」

 楓が狙撃されてから二日後。


 結月が通信ログの詳細解析を完了した。作戦室に集まった第三分隊のメンバーの前で、結月はスクリーンにデータを映し出した。


「まず、楓先輩を狙撃した際の通信ですが、裁定戦(アービトレーション)中に検出した第三者通信と同一の暗号体系です。ただし、発信源が微妙に異なります」


「どう違う」凛が訊いた。


裁定戦(アービトレーション)中の通信は黄昏エリアの方向から来ていました。でも楓先輩の狙撃時の通信は、暁嶺(ぎょうれい)の東側──つまり鳴神区(なるかみく)の外側に近い方向からです」


「外から侵入した?」


「可能性はあります。月詠(つくよみ)は黄昏エリアに閉じこもっているわけじゃなくて、鳴神区の外からもアクセスできる経路を持っている──ということかもしれません」


 凛は腕を組んだ。鳴神区は東京都西部の特別区だが、その周囲は一般的な住宅地と山林に囲まれている。外部からの侵入を完全に遮断するのは不可能だ。


「楓。お前が撃たれた方角と矛盾するか」


 楓は椅子の背もたれに体を預けた。左肩の傷が庇われるように、自然と姿勢が傾いている。


「いいえ。私が伏せた時、弾道は東北東からの角度でした。結月の解析と一致します」


「距離は」


「音と着弾の時間差から推測して──およそ四百メートル。7.62mmでその距離なら、ある程度の腕があれば当たる。私が動いていなければ」


 楓の声は淡々としていた。自分が狙われた事実を、射撃データのように処理している。


「もう一つ、重要な情報があります」結月がキーボードを叩いた。「紫苑さんのUSBメモリのデータと照合して、通信の暗号パターンを解析したところ──この暗号体系を運用している組織が、少なくとも二つの異なるコールサインを使い分けていることがわかりました」


「二つ?」


「一つは裁定戦(アービトレーション)の監視や偵察に使われるもの。もう一つは──」結月が声を落とした。「暗殺指令の伝達に使われると思われるもの。楓先輩の狙撃時の通信は、後者のコールサインでした」


 部屋が静まり返った。


「つまり、あの狙撃は偶発的なものじゃなく、組織的に命令されたもの──ということだ」凛が言った。


「はい」


 千歳が席を立った。窓のない部屋の壁に手をついて、天井を見上げた。


「……ねえ、凛ちゃん。あたしたち、相当やばいところに踏み込んでるよね」


「ああ」


「でも、退く気はないんでしょ」


「ない」


 千歳は振り返り、凛を見て──笑った。覚悟を決めた笑み。


「だよね。知ってた」


 楓が静かに手を挙げた。


「御崎先輩。──私は次の狙撃に備えて、相手の射撃パターンを分析しています。7.62mm使いのクセを、着弾痕から逆算できないかと」


「結果は」


「まだ途中です。ただ、楓先輩を狙った射手は発砲後の位置変更が遅い。つまり射撃後の離脱手順にやや難がある可能性があります。──次は外しません」


 結月がメモを取った。楓の分析を通信データと突き合わせるつもりだろう。この部屋にいる全員が、自分の役割を理解していた。


---


 昼食は食堂で取った。いつもの丸テーブル。千歳がカレーうどん、楓が鮭定食、結月がサンドイッチ、瑠衣がカツ丼。凛はきつねうどんを選んだ。


「凛ちゃん、最近うどんばっかだね」千歳が言った。


「うどんが安いからだ」


「お小遣い足りてないの?」


「足りてない」


 千歳が自分のカレーうどんの器を凛の方に押した。「あたしの一口あげようか?」


「いらない。辛い」


 楓が鮭の身を丁寧にほぐしながら言った。「食費が足りないなら、学院の生活支援窓口に相談されてはいかがですか。風紀部隊(ヴィジランテ)所属者には特別手当が出るはずですが」


「知ってる。手当の申請書類が面倒で出してない」


「出してください」楓が真顔で言った。


 結月が小さく笑った。瑠衣はカツ丼をかき込みながら何も言わなかったが、口の端がわずかに上がっていた。


 こんな時間が──いつまで続くのか。凛はうどんを啜りながら思った。いや、続けなければならない。この日常を守るために動いているのだから。


---


 その日の午後、凛は再び紫苑に連絡を取った。


 今度は千歳経由ではなく、前回紫苑が教えてくれた暗号化メッセージアプリを使った。テキストのみ、位置情報なし、自動消去機能つき。紫苑は聖樹館(せいじゅかん)の中でこうした手段を常用しているという。監視の目を潜り抜けるために。


 待ち合わせは前回と同じカフェ──ではなく、朝凪エリアの端にある古い図書館。一般市民向けの公共施設だが、平日の午後は人がほとんどいない。


 凛が指定した時刻に図書館の閲覧室に入ると、紫苑はすでに席についていた。白いカーディガンに黒いスカート──前回と同じ私服。右腕の包帯は取れていた。


 紫苑の隣に、もう一人いた。


 凛は足を止めた。


「──瑠衣先輩?」


 鷹宮瑠衣(たかみや るい)が、紫苑の隣の席に座っていた。腕を組み、仏頂面で。


「瑠衣、なぜここに」


「あたしが呼んだんじゃない。白百合が呼んだんだ」


 紫苑が軽く頭を下げた。


「申し訳ない。事前に御崎さんに伝えるべきだった。──でも、鷹宮さんに聞いてもらいたい話があったの」


 凛は紫苑を見、瑠衣を見た。瑠衣の表情は硬い。何かを予感しているような顔。


「……話を聞こう」


 凛は向かいの席に座った。図書館の閲覧室は静かだった。木製の本棚が並び、午後の光が高い窓から差し込んでいる。


「まず──」凛は紫苑に向かって言った。「楓が実弾で狙撃された。二日前だ」


 紫苑の目が細くなった。


「──詳しく」


 凛は状況を説明した。射撃訓練場への狙撃。実弾。7.62mm口径。消音ではない。結月の解析で月詠の通信体系と一致。


 紫苑は聞き終えると、長い沈黙の後に口を開いた。


「予想より早かった。──彼女たちが動いたということは、あなたたちが脅威と判断されたということ」


「楓を狙った理由は、狙撃手としての排除だと推測している」


「おそらくそう。月詠にとって、自分たちと同じ土俵で戦える長距離狙撃手は最大の脅威。──久瀬楓(くぜ かえで)が生き残ったことは、月詠にとっても誤算のはず」


 凛は頷いた。「本題に入る。──紫苑、月詠の『影』についてもっと詳しく知りたい。構成人数、装備、行動パターン。何でもいい」


「私が知っている範囲で話す」紫苑は手を組んだ。「『影』の正確な人数は不明。でも、私の調査では少なくとも四名から六名の実働部隊が確認されている。全員が狙撃または暗殺に特化した訓練を受けていて、消音火器を主に使用する」


「主要メンバーは」


「確認できているのは二名。一人は烏丸鏡夜(からすま きょうや)──VSSの使い手。もう一人は──名前は不明だけど、7.62mm口径のセミオートスナイパーライフルを使う射手。おそらく楓を狙ったのはこちら」


「烏丸鏡夜は実行犯のリーダー格?」


「そう推測している。鏡夜は『影』の中でも特別扱いされている節がある。他のメンバーが偵察や威嚇射撃を担当するのに対し、鏡夜は──最も重要な標的だけを受け持つ」


 沙耶を撃ったのが鏡夜。凛はその事実を改めて胸に刻んだ。


「もう一つ聞きたい。月詠は黄昏エリアに拠点を構えている。──あんな場所を維持するには金がいる。武器も弾薬も。月詠のスポンサーは誰だ」


 紫苑の表情がわずかに曇った。


「──それが、この件の一番深い闇。月詠女子学園は表向き、どの企業ともスポンサー契約を結んでいない。でも、私の調査では──特区制度を管轄する政府側の一部が、月詠に間接的に資金を流している痕跡がある」


 凛は眉をひそめた。「政府が? 自分たちが作った特区制度の中で、暗殺部隊に金を流している──?」


「直接的な証拠はない。でも、月詠が使っている暗号通信機材は民間では手に入らない軍事グレードのもの。それに、鳴神区の周辺で月詠のメンバーが活動しても、警察が介入した記録が一度もない」


「泳がせている、と」


「少なくとも──見て見ぬふりをしている人間がいる。特区制度が『成功している』という建前を守るために、内部の不都合な真実を処理する必要がある。月詠の『影』は、その処理屋として利用されている可能性がある」


 凛は沙耶のことを考えた。沙耶は手帳に書いていた。「この街は嘘でできている」──沙耶はこの構造に気づいていたのか。だから消されたのか。


 瑠衣が低い声で呻いた。


「つまり、あたしたちが守ってる特区は──政府が少女を使い捨てるための実験場で、月詠はそのゴミ処理を請け負ってるってことか」


「──極端な表現だけど、大きくは外れていない」紫苑が言った。


 閲覧室の静寂が重くなった。窓から差す光だけが変わらず穏やかだった。


「──ここからが、鷹宮さんに関係する話」


 紫苑が瑠衣に視線を向けた。瑠衣の表情が固くなった。


「月詠の『影』が鳴神区内で自由に動けるのは、協力者がいるからよ。鳴神区の地理に詳しく、各学園の防衛体制の穴を知っている人間。──その協力者は、蒼風高等学校そうふうこうとうがっこうの中にいる」


 瑠衣が息を呑んだ。


「蒼風は資金難で崩壊寸前。生徒の一部は、生活費を稼ぐために闇の仕事に手を出している。武器の密売、情報の売買──そして、月詠への情報提供」


「──誰だ」瑠衣の声は低く、震えていた。


「名前まではわからない。でも、蒼風の風紀部隊(ヴィジランテ)の元メンバーで、現在は非公式に月詠と連絡を取っている人間がいる。その人物が、暁嶺や聖樹館の防衛体制の情報を月詠に流していると私は見ている」


 瑠衣は拳を握りしめた。蒼風高等学校──瑠衣がかつて所属していた学園。衰退に見切りをつけて暁嶺に転入したが、蒼風に残った元仲間との繋がりはまだある。


「瑠衣先輩。蒼風の元仲間で、最近連絡が取れなくなった人はいるか」


 凛の問いに、瑠衣は数秒黙った。


「──いる。一人。雨宮涼花。あたしと同学年で、風紀部隊(ヴィジランテ)の斥候だった。三ヶ月前から、連絡しても返事が来なくなった。蒼風の他の奴に聞いても『最近見ない』って言うだけで」


「その人物が月詠との接点かもしれない」紫苑が言った。


 瑠衣の顔に複雑な感情が浮かんだ。怒り。悲しみ。そして──自責。


「あたしが蒼風を出なければ──涼花は」


「やめろ、瑠衣」凛が低い声で言った。「お前が蒼風を出たことと、雨宮涼花が月詠に協力していることは、別の問題だ」


「でも──!」


「別の問題だ」凛は繰り返した。「──ただし、雨宮涼花に接触できれば、月詠の内部情報を得られるかもしれない。瑠衣、お前は涼花と話ができるか」


 瑠衣は唇を噛んだ。しばらく黙った後、低い声で言った。


「……やってみる。あいつが月詠に利用されてるなら──連れ戻す」


 紫苑が凛を見た。


「もう一つ。月詠の黄昏エリアについて、いくつか情報がある」


 紫苑は手帳を取り出し、手書きの地図を見せた。黄昏エリアの概略図。建物の配置、主要道路、監視カメラの推定位置。


「これは私が半年かけて集めた情報。断片的だけど、黄昏エリアの入口付近の防衛構造はある程度わかっている」


 凛は地図を見た。黄昏エリアは丘陵地帯にあり、アクセスルートが限られている。メインの道路は一本。他は山道か獣道。監視カメラが要所に配置され、侵入者を早期に検知する体制が敷かれている。


「正面からの突入は自殺行為ね。でも、北側の山道──ここ」紫苑が地図の一点を指した。「この道は月詠の監視網に穴がある可能性がある。カメラの死角と地形の関係で」


「可能性、か」


「確証はない。だからこそ──偵察が必要。でも、偵察するにも人手が足りない」


 紫苑は凛の目を見た。


「暁嶺と聖樹館が手を組めば──月詠に対抗できる」


 凛は腕を組んだ。敵同士だった二校が共闘する。前代未聞の事態だ。政治的にも、学園間の慣例としても、ありえない選択肢。


「紫苑。聖樹館の上層部は動かないんだろう」


「動かない。でも──私個人として動くことはできる。白薔薇(しろばら)の隊員の中に、私と同じ考えの者が二人いる。非公式に──あくまで非公式に、三人で協力できる」


 三人。聖樹館から三人。暁嶺から五人。合計八人。


 月詠の暗殺部隊に対して、八人。


「……少ないな」


「少ない。でも、ゼロよりはいい」


 凛は紫苑の地図をもう一度見た。北側の山道。カメラの死角。突入するとしたら、少人数で一気に。大規模な作戦行動は人目を引く。八人という数は──少ないが、隠密行動には適している。


「紫苑。お前のところの二人は、どんな戦力だ」


「一人はアサルトライフル使い。もう一人は近接戦が得意なショットガン使い。どちらも白薔薇の正規隊員で、腕は確かよ」


「名前は」


「この場では伏せさせて。──実際に合流する時に紹介する」


 凛は頷いた。互いの情報を必要以上に出さない。それでいい。信頼ではなく、利害の一致で繋がる関係。


「作戦の方針だけ擦り合わせよう」凛が言った。「目標は月詠の『影』の拠点確認と──可能であれば烏丸鏡夜の捕捉。殲滅が目的じゃない、証拠の確保だ」


「同意する。証拠があれば、聖樹館の上層部も動かざるを得なくなる。──暁嶺も同じでしょう」


「ああ。上が動けば、個人の暴走じゃなくなる」


 凛は言いながら、自分の言葉の矛盾に気づいていた。上が動くのを待てないから、こうして非公式に動いている。──それでも、建前は必要だ。暴走で終わらせないために。


 凛は紫苑を見た。裁定戦(アービトレーション)で銃を向け合った相手。今は同じテーブルについている。


「──わかった。協力する」


 紫苑がわずかに微笑んだ。


「ありがとう。──でも、条件がある」


「なんだ」


「暁嶺と聖樹館の共闘は、あくまで月詠に対するものだけ。この件が終わったら、私たちはまた敵に戻る」


「当然だ」


「あと──私を信用してくれとは言わない。でも、疑いながらでもいいから、背中を預けてほしい。戦場で」


 凛は紫苑の目を見た。紫色の瞳。冷たく、透明で──その奥に、凛と同じ炎を宿している。


「──背中は預ける。ただし、弾丸の一発でも裏切りが見えたら容赦しない」


「望むところよ」


 瑠衣が横で鼻を鳴らした。


「……随分と物騒な友情だな、お前ら」


「友情じゃない」凛と紫苑が同時に言った。


 瑠衣が呆れたように笑った。


---


 図書館を出た後、凛と瑠衣は並んで暁嶺学院に向かって歩いた。


 夕暮れの街。西の空がオレンジ色に染まり、街灯が一つずつ灯り始めている。


「瑠衣」


「なんだ」


「雨宮涼花のこと。──辛いか」


 瑠衣はしばらく黙って歩いた。


「辛いっていうか──ムカつく。あいつは頭のいい奴だった。斥候として優秀で、判断力もあった。そんな奴が月詠なんかに利用されてるなんて──」


「蒼風を見捨てたと思われてるかもしれない。お前のことを」


「……だろうな」


 瑠衣は立ち止まり、ガードレールに寄りかかった。夕陽が瑠衣の横顔を赤く染めている。


「蒼風を出る時、涼花に言われたんだ。『あんただけ逃げるんだ』って。──あたしは言い返せなかった。だって事実だったから」


「逃げたんじゃない。生き残るための選択だ」


「それをあの時の涼花に言ったところで、響くわけないだろ。残された側にとっちゃ、理由なんてどうでもいい。去ったって事実だけが残る」


 凛は何も言わなかった。瑠衣の言葉に反論する材料を、凛は持っていなかった。


「──でも、だから行くんだ。涼花に何を言われても。殴られても。あいつが月詠に利用されてるなら──それを止められるのは、あいつの顔を見て話せる人間だけだ」


「それでも接触するか」


「する。──あいつを見捨てたのがあたしなら、連れ戻すのもあたしの仕事だ」


 凛は瑠衣の横顔を見た。瑠衣は前を向いたまま歩いていた。その表情は厳しかったが、弱さは見えなかった。


「──頼む」


「任せとけ」


 二人は暁嶺学院の門をくぐった。校舎の窓に灯りが点いている。千歳と楓と結月が待っている。


 凛は思った。ここが自分の場所だ。この五人が──自分の居場所。


 沙耶。お前もそう思っていたのか。この場所を──守りたいと思っていたのか。


 沙耶の手帳の最後のページの言葉が、凛の胸に響いた。


 「それでも、守りたいものがある」


 ──ああ。わかるよ、沙耶。今なら。


---

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