第60話 選ぶ役を、渡す
境界まで、エルシアが歩いてきた。
見送りではない、と彼女は言った。
「途中まで、歩く練習だ」
「そうか」
嘘だ。
だが、指摘しない。
黒い土が、灰に変わっていく。
半日、ほとんど話さなかった。
旗が見えたところで、俺は足を止めた。
「エルシア」
「なんだ」
「一つ、頼みがある」
彼女は、こちらを見た。
金色の瞳が、少し細くなる。
「頼む、は私の台詞だ」
「今回は、俺だ」
俺は、荷を下ろした。
下ろして、彼女に向き直る。
「窪地の順番を、決めてくれ」
沈黙。
風が、灰を舞わせた。
「……私は、治せない」
「知ってる」
「鍼も打てない」
「打てなくていい」
「打つ順番を、決める役だ」
エルシアは、動かない。
「あの技は、渡せない」
俺は、続けた。
「感覚の技術だ。教えて渡るものじゃない」
それは、ずっと前から分かっている。
俺と同じ視え方をする人間がいれば、できる。
いなければ、できない。
だから、俺は誰にも教えなかった。
「だが」
俺は、そこで一度、息を吸った。
「誰を先にするかを決める役は、渡せる」
エルシアの目が、動いた。
「……それは」
「いちばん、きついところだ」
俺は、正直に言う。
「治す手より、選ぶ役の方が人を壊す」
あの谷で、俺の手が震えた。
あれは、鍼を打ちすぎたからじゃない。
選びすぎたからだ。
「なぜ、私だ」
エルシアが聞いた。
「切ったことがあるからだ」
彼女の肩が、わずかに動いた。
「三人を切って、眠れなかった奴だからだ」
沈黙が、長かった。
「……ひどい理由だ」
「ああ」
「切れる者ではなく、切って眠れない者を選ぶのか」
「そうだ」
俺は、頷いた。
「眠れる奴に、渡したくない」
「では、あなたはどうだ」
エルシアが聞いた。
「眠れているのか」
俺は、答えるまでに間が空いた。
「……眠れてる日もある」
「正直だな」
「嘘をつくと、後で困る」
彼女は、少しだけ笑った。
「その言い方は、誰かに移されたな」
俺は、老兵の顔を思い出す。
移されたのは、こっちの方だ。
エルシアは、灰の地面を見た。
それから、旗を見た。
白い布に、一本の線。
あの印は、彼女とここで決めたものだ。
「一つ、条件がある」
彼女が言った。
「言え」
「理由は、説明しない」
――俺の言葉だった。
彼女は、それを持っていた。
「それでいい」
「恨まれるぞ」
「恨まれる」
俺は、笑った。
「二人で分ければ、半分だ」
「……計算が下手だな」
エルシアも、笑った。
鎧のない肩が、少しだけ揺れた。
俺は、荷を背負い直す。
「三月後に、来る」
「診に、か」
「診に来る」
「治療師として」
「それ以外に、来る理由がない」
彼女は、頷いた。
それから、旗の手前で立ち止まった。
こちら側へは、来ない。
「行け」
――技は、一人のものだ。
だが、責任は、分けられる。
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