第59話 選ぶ
翌朝、窪地に人が立っていた。
昼だ。
昼に来た者は、これまで一人もいなかった。
老兵だった。
膝を、引きずっている。
前より、悪い。
「治療師」
「座れよ」
「立っている」
この土地の人間は、みんなそう言う。
「聞いた」
老兵が言った。
「行くんだろう」
「ああ」
「いつだ」
「今日だ」
老兵は、頷いた。
驚かなかった。
「私の膝は」
彼は、そこで少し笑った。
「まだ、理由がない」
俺も、少し笑った。
この人は、こういう人だ。
「治療師」
「ああ」
「あんたがいなくなったら」
彼は、窪地を見た。
天幕が、四つ。
旗はない。
「ここは、どうなる」
俺は、答えられない。
答えられないまま、正直に言った。
「消えるかもしれない」
「そうか」
「残るかもしれない」
「どっちだ」
「分からない」
老兵は、また笑った。
肩だけで笑う、あの笑い方だった。
「正直だな」
「嘘をつくと、後で困る」
「二度目だ、それは」
昼の光の中で、窪地は小さく見えた。
「一つ、置いていく」
俺は、荷から布を出した。
白い布だ。
灰の谷で使っているものと、同じ。
「線を、引け」
「線」
「一本でいい」
老兵は、布を受け取った。
受け取ってから、こちらを見た。
「これは、何だ」
「印だ」
「何の」
「ここでは、戦わないという印だ」
老兵は、しばらく布を見ていた。
「……立てろ、とは言わないんだな」
「言わない」
「立てるかどうかは、あんたたちが決める」
俺は、荷を背負う。
鍼。
布。
替えの外套。
来たときと、同じだ。
何も増えていない。
「一つ、言っておく」
俺は、老兵に言った。
「なんだ」
「俺は、この場所を守りに来たんじゃない」
老兵は、黙って聞いている。
「俺は、ここに残らない」
「知っている」
「だから、これは俺の場所じゃない」
言葉にすると、はっきりした。
灰の谷は、俺の場所だ。
俺が作って、俺が閉じた。
だが、ここは違う。
ここは、エルシアが作った。
夜に来る者たちが、隠れながら続けてきた。
俺は、六日ここに座っていただけだ。
守る資格が、ない。
「行け」
老兵が言った。
「あんたには、帰る場所があるんだろう」
俺は、頷いた。
――選んだ。
灰の谷を、取る。
この土地の四十六人でも、
夜の六人でも、
まだ理由を持たない膝でもなく。
リリアを、取る。
理由は、言わない。
説明を始めれば、それは天秤になる。
天秤に載せた時点で、
載らなかった側は数字になる。
俺は、あの日、そう決めた。
――優先順位は、俺が決める。理由は、説明しない。
自分で作った決まりだ。
自分にも、適用する。
窪地を出るとき、俺は一度だけ振り返った。
天幕が、四つ。
誰もいない。
夜になれば、誰かが来るだろう。
来ても、診る者はいない。
俺は、それを知っていて背を向ける。
――取りこぼしたものは、数えない。
覚えているだけだ。
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