第52話 俺は、もうやっていた
その夜、俺は眠れなかった。
窪地の外で、火だけ見ていた。
断った。
それは、間違っていない。
間違っていないのに、何かが噛み合わない。
(……なぜだ)
俺は、灰の谷を思い出す。
白い旗の下で、王国兵と魔族が同じ列に並んだ。
俺は、順番だけを決めた。
誰の側にも立たなかった。
あれは、正しかったはずだ。
だが。
あの谷で治った魔族は、どこへ行った。
俺は、指を折る。
名前は、覚えていない。
顔は、覚えている。
肩を裂かれた兵。
脚を潰された兵。
目をやられた若いの。
治った。
治って、それから――
(……戻っていない)
一人も、だ。
戦場に、一人も戻っていない。
俺は、それを知っていた。
知っていて、数えなかった。
エルシアは、数えていた。
第三の報告として、彼女は言った。
戻らなかった者が、三名。
あれは、彼女の陣の話ではない。
俺が治した者の話だ。
俺の技が、彼女の戦力を削った記録だ。
火が、小さくなった。
俺は、木を足さない。
足す気に、なれなかった。
ヴェインは、新しいことを頼んだのではない。
俺が、灰の谷で二年近くやってきたことを、
名前をつけて、数えて、
「もっとやれ」と言っただけだ。
俺は、兵器にはならない。
そう言い続けた。
言い続けながら、
(……もう、やっていた)
膝の上で、手が震えた。
これは、判断疲れの震えではない。
別の種類の震えだ。
俺は、王都の会議で言った言葉を思い出す。
――俺は、兵器にはならない。
あのとき、リリアが隣で頷いた。
カナンなら、笑って背中を叩いただろう。
立派な言葉だった。
立派な言葉は、行いを点検しない。
言った本人が、いちばん安心する。
「眠らないのか」
声がした。
顔を上げると、エルシアが立っていた。
鎧は、着ていない。
初めて見る格好だった。
「……座れよ」
「立っている方が楽だ」
それは、嘘だ。
視れば分かる。
だが、指摘しなかった。
彼女は、火の向こうに立ったままだった。
「断ったな」
「ああ」
「賢い」
「賢くない」
「気づいてなかっただけだ」
エルシアは、しばらく黙っていた。
「……いつ、気づいた」
「さっきだ」
「遅い」
「ああ」
「私は、最初から知っていた」
彼女は、火を見ている。
「あなたに治された兵は、戻らない」
「知っていて、俺を呼んだのか」
「呼んでいない」
「……そうだった」
俺は、少し笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
「エルシア」
「なんだ」
「なぜ、止めなかった」
彼女は、答えなかった。
長い沈黙だった。
「戻らなかった三人は」
「私の下で、いちばん長かった連中だ」
風が、火を横に倒した。
「戻らない、と聞いたとき」
彼女は、言葉を選んでいる。
「……安心した」
俺は、彼女を見る。
「将として、失格だ」
彼女は、そう続けた。
「だから、切った」
俺は、何も言えない。
彼女は、背を向けた。
「あなたは、まだ何も選んでいない」
――やらなかったんじゃない。
気づいて、いなかっただけだ。
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