第41話 灰の谷の灯り
第一部のあと、灰の谷の一日です。ここから第二部が始まります。
朝、谷に小さな足音がした。
水桶を抱えた少女だ。
年は、十にも満たない。
腹に古い傷の痕がある。
いつか、谷の影で拾った子だった。
魔族に襲われ、逃げる途中で王国の矢に当たった。
どちらの敵でもなく、どちらの味方でもない傷。
あの時、俺は「助かるか分からない」と言った。
今、その子は、水をこぼしながら歩いている。
「……治療師さま」
少女が、俺を見つけて駆けてくる。
「父さんが、腰が痛いって」
「分かった」
それだけで、用件は済む。
大げさな感謝も、英雄譚もいらない。
ただ、痛い人がいて、診る。
それが、ここの作法だ。
少女の父は、相変わらず働きすぎていた。
俺は、深くは打たない。
楽になる分だけ。
「……助かります」
男は、そう言って立ち上がる。
過剰な期待のない、ただの安堵。
それでいい。
昼、リリアが帳簿を持ってきた。
「あの子、走れるようになりましたね」
「無理はさせるな」
「言ってます。聞きませんけど」
彼女は、小さく笑う。
昔のような、張りつめた笑い方ではない。
俺は、何も言わずに鍼を片付ける。
救えた子が、水を汲んでいる。
その一方で。
今日も、診なかった人がいる。
明日も、選ばれない人がいる。
それは、変わらない。
全員は救えない。
その現実を、灰の谷は隠さない。
だから、ここの灯りは小さい。
大きく燃やせば、すぐに尽きると知っているから。
必要な分だけ。
続けられる分だけ。
夜、焚き火の前で鍼を整える。
ふと、魔族の将のことを思い出した。
最後に会ったとき、彼女は言った。
「次に会う時は……頼む」
戦争は、終わっていない。
世界は、まだ何も解決していない。
それでも――
いつか壊れた誰かが、この谷を訪ねてくるなら。
その時は、また鍼を取るだけだ。
俺は、英雄にはならない。
救世主にもならない。
ただ、灯りを絶やさず、ここにいる。
それが、治療師の仕事だ。
明日も、谷に小さな足音がする。
――翌朝。
谷に立っていたのは、患者ではなかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
次話から、第二部が始まります。
舞台は境界の向こう側。治療という言葉を持たない土地です。
彼はやはり英雄になりませんし、全員を救いません。
それでも、壊れた者の前に立ち続けます。




