第40話 閑話 診てもらえますか ――聖女リリア
※本編完結後の番外編(閑話)です。聖女リリアの視点から、灰の谷での日々を描きます。
灰の谷の朝は、祈りで始まらない。
水を汲む音。
薪の爆ぜる音。
誰かが咳をして、誰かがそれを気にかける。
ただ、それだけ。
聖女として暮らした王都の朝は、こうではなかった。
目を覚ますと、もう誰かが祈っていた。
私にではなく、私を通して、その向こうにいる「光」に。
私は、光の通り道だった。
窓のようなものだ。
誰も、窓そのものの調子なんて気にかけない。
「リリア様」
帳簿を抱えた女が、私を呼ぶ。
もう「聖女様」とは呼ばれない。
ここでは、ただのリリアだ。
それが、いい。
「在庫、また減ってます」
「……分かってる」
私は、笑って受け取る。
昔の私なら、この程度の不足にも体が軋んだ。
感情と、魔力が、直結していた。
不安を感じれば循環が乱れ、乱れれば、また不安になる。
誰も、その悪循環を解いてはくれなかった。
――解けるなどと、思ってもいなかった。
あの男に会うまでは。
「最近、寝てないだろ」
初めて会った日。
彼は、私の顔を見るなり、そう言った。
聖女に向かって。
護衛が剣に手をかけても、彼は引かなかった。
「胸が苦しくなることがある。息が浅くて、魔法を使った後に、手が震える」
全部、当たっていた。
誰にも言えなかったことだ。
言えば、「聖女が弱音を吐いた」と、世界が揺らぐから。
だから私は、ずっと黙って、窓のふりをしていた。
彼だけが、窓ではなく、私の体を視た。
光の量ではなく、流れの歪みを。
役割ではなく、ただの一人を。
「……診てもらえますか」
あの時、私はそう言った。
聖女が、治療を乞う。
常識外れだと、周りは凍りついた。
でも、私は知ってしまった。
縋られるだけの人生に、
縋っていい相手が、一人だけいるということを。
昼過ぎ、王都から使いが来た。
聖女に戻れ、と。
光が足りない、と。
私は、帳簿から顔を上げずに答えた。
「戻りません」
即答だった。
使いは、何か言いたげに口を開いて――結局、何も言えずに帰っていった。
夕方、彼が鍼を整えているのが見えた。
特別な儀式も、宣言もない。
ただ、いつも通り。
私は、近づかない。
近づけば、また循環が跳ねるのが、自分でも分かるから。
でも、それは昔のような乱れではない。
壊れる揺れではなく、
ただ、少し、温かくなるだけの揺れだ。
私は、それを「不調」とは呼ばないことにした。
彼なら、きっと、こう言う。
「それは、治すものじゃない」
――たぶん、その通りなのだろう。
灰の谷の夜は、祈りで終わらない。
ただ、明日も誰かが、誰かを気にかける。
その輪の隅に、私の席が一つ、ある。
窓ではなく、人として。
それで、十分だった。
リリア視点の閑話でした。




