第39話 責任を引き受ける者
灰の谷は、少し静かになった。
焚き火の数が減り、
人の声が、夜に溶けやすくなった。
それでも、空っぽではない。
必要な分だけ、人がいる。
それが、今の形だった。
俺は、いつも通り鍼を整えていた。
特別な儀式も、宣言もない。
ただ、いつも通り。
「……診てもらえますか」
声をかけてきたのは、年配の男だった。
民間人。
慢性的な腰の痛み。
緊急ではない。
だが、放っておけば悪化する。
俺は、視て、判断する。
「座って」
鍼を打つ。
深くは入れない。
楽になる分だけ。
「……助かります」
男は、そう言って立ち上がる。
その顔に、過剰な期待はない。
ただの安堵。
それでいい。
昼過ぎ、リリアが帳簿を持ってくる。
「……減りましたね」
「適正だ」
「人も、仕事も」
彼女は、小さく笑う。
「文句も、減りました」
「当然だ」
約束を減らしたのだから。
誰もが救われると思わなければ、
誰もが絶望しない。
冷たい言い方だ。
だが、続けるためには必要だった。
「……聖女に戻れ、と言われました」
リリアが、ぽつりと言う。
「どうする」
「戻りません」
即答だった。
「ここに、役割があります」
俺は、何も言わなかった。
それが、彼女の選択だ。
夕方、エルシアが現れた。
今日は、鎧を着ている。
将としての姿だ。
「……落ち着いたな」
「見ての通りだ」
「人は、減った」
「壊れにくくなった」
彼女は、短く頷く。
「魔族側でも、似た形を作った」
意外な言葉だった。
「簡単ではない」
「知ってる」
それでも、やった。
それだけで、十分だ。
「……あなたは、勝っていない」
エルシアが言う。
「戦争も、終わっていない」
「分かってる」
「それでも」
彼女は、俺を見る。
「世界は、少し変わった」
それは、将としての評価だった。
エルシアは、踵を返す。
「次に会う時は」
「また、壊れてからか」
「その時は」
一瞬、言葉を選ぶ。
「……頼む」
それだけ言って、去っていった。
夜。
焚き火の前で、俺は一人座る。
鍼は、揃っている。
手も、震えていない。
だが、完璧ではない。
今日も、診なかった人がいる。
明日も、選ばれない人がいる。
それでも。
ここは、嘘をつかない場所だ。
救えないことを、隠さない。
選ぶことから、逃げない。
治療師とは、
正しさを振りかざす者ではない。
全員を救えない現実の中で、
選び続ける責任を引き受ける者だ。
俺は、鍼をしまう。
明日も、ここにいる。
英雄にはならない。
救世主にもならない。
ただ――
壊れた者の前に、立ち続ける。
それが、俺の仕事だ。
――物語は、ここで一区切りだ。
だが、治療師の朝は、
明日も変わらず訪れる。
ここまで付き合ってくださり、本当にありがとうございました。
――ここまでが、第一部です。
彼は英雄になりませんでしたし、全員も救えませんでした。
それでも、壊れた者の前に立ち続けることだけは、やめませんでした。
その姿勢が次に試されるのは、
「治療」という言葉を持たない場所です。
続きも、お付き合いいただけましたら幸いです。




