第32話
夜の森は通常、何も見通せぬほど闇に包まれているものだが、その湖は開けた草原の中にあった。おまけに今日は都合良く満月の日。青白い光が草木と湖を照らし、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
一望した限りではアイネの姿はない。その静寂な空間には俺とそれを見下ろす月ばかりがあるだけだ。しかし、彼女がここにいることは既に確信している。この気配から察するに、彼女がいるのは恐らく──
「アイネ!」
俺は着の身着のままで湖へと飛び込んだ。捜索はあまりにあっけなく終わった。水中でありながらも、わずかな月光を吸った彼女の赤髪が艶やかな光を放っていたからである。
「──はぁっ! アイネ、大丈夫か!」
アイネを湖から救い出し、そう問いかけると、彼女はつまらなそうに告げる。
「余計なことをしよって……あと二時間もすれば我も仲間の元へと行けたはずじゃのに」
ふん、と吐き捨てるような声と共に彼女は自身の手首につけた鎖を湖へと投げ捨てた。焦っていたので周りが見えていなかったが、自分の身体を水中へと留めておく仕掛けがあったのだろう、
「なぜここが分かったのじゃ?」
拗ねたようにアイネが告げる。
「前に言ってただろ。もし自分が死ぬとしたらこんな風に穏やかな場所で死にたいって」
「なるほど。そんなことも言ったことがある気がするな。もう、忘れたが」
言うと彼女はぼうっと上を見上げし、空に浮かぶ大きな月を眺めていた。普段は大きく見える彼女の立ち姿だが、今ばかりは無性に儚げだ。
アイネの身体から伸びる長い影は、持ち主の孤独を示すかのようだった。魔人族たる血を示す真紅の髪はわずかな風に揺られているばかりで、そこに普段の彼女の持つ意志の強さはまるで伺えない。
まるで命のない、精巧な人形のようだった、魂と言うものがない、虚ろで、今にも失われてしまいそうな……。
そんな風になるのも当然だろう。彼女は今、この世界で一人ぼっちなのかも知れないという不安にさいなまれているのだから。
「どうしてあんなアホな真似をしたんだ。自殺なんて……」
「悪いが、放って置いてくれぬか?」
感情の読めない、この世に倦んだような声だった。
「無理言うな。こんな状況のお前を、このままにしてられるか」
「こんな状況、笑うしかないじゃろう? 必死で稼いだ金を人間なんぞにだまし取られた魔人族など、聞いたことがないわ」
「気に病むなよ。お前が仲間のために頑張ろうとしたっていうのは、本当に偉い事だと思うぞ」
「……それが全て無駄だったとしてもかのう?」
アイネが笑った。それはこの場においては明らかに場違いな表情だった。とても美しくて、俺の大嫌いな笑顔だ。
「なあエニシ。貴様のことだ、どうせ知っておるのだろう? 我の一族は、どうなったのだ?」
それは核心ともいえる問いだった。俺も今更、躊躇することなど出来ない。だからはっきりと告げる。
「ユーリが皇都から持ち帰った情報によるとだが。もう、この世のどこにも魔人族はいないらしい」
「は、ははは……っ」
またアイネは笑う。本当に美しくて、嫌いな笑顔だ。
「これでは本物の笑い話ではないか。そもそも我ら一族には幸福に生きる資格などなかったのだ、この身に流れる血のせいで」
彼女は自分の手のひらを、否、左手人差し指につけた『純血の聲』を満月で照らしながらそう言った。蒼く輝く魔人族の血、それはありとあらゆる癒しをもたらす薬。本来は無害なもの。だが、その無害なものを欲する者たちの手によって争いの種となったもの。
「もう、笑わなくても良いんだぞ。アイネ」
やりきれなくなった俺はそう口に出す。彼女は今、自警団に囲まれた時と同じちょっと困ったような笑顔を浮かべている。
「辛い目に遭ったんだろう。だったら自分のために泣いてやれよ。そんな風に笑って、誤魔化すのはやめろ」
「仕方がないのじゃ。我らはな、初めから生まれてきてはいけなかったのだ」
「そんなこと言うな。自分が生まれてきちゃいけないだなんて、そんなの──」
「──だったらどうせよと言うのじゃ!」
アイネの目に怒りの灯がともる。そしてボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。初めて目にした彼女の涙は、俺と同じ色をしていた。
「泣き叫んだとしても、我の同胞はもうこの世にはおらんのじゃぞ! こんな世界に生きる意味など、ないのだ」
貴様には分かるまい! と、俺の襟首を掴むアイネ。それで良い、さっきまでのお前と比べたら、ずっと生きてるって感じがする。
「貴様のように別の世界から来た人間なんかに……百年も生きてないような若造に分かられてたまるか! 我らがどんな歴史を辿ったかなど!」
「歴史なんて分かるもんかよ。お前の気持ちすらも分かんないのによ……! でもな、お前に死んでほしくないってことだけは間違いなく言える!」
「こんな世界で生きろと言うのか! それがどれほど残酷なことか、貴様は理解しているのか!?」
「ああ。この世界はお前もご存じの通り、くそったれだよ。酷い目にだってあうさ。それでも、生きていれば良いことだってあるに決まってる!」
「そんな綺麗事は貴様が強者であるから言えることじゃ! 強大な力を持っている故の傲慢でしかない!」
感情を爆発させているアイネは大きく拳を振りかぶった。彼女としてはいつも通り、効きもしない攻撃を俺に打ち込み、やり場のない怒りを少しでもどこかにぶつけてしまいたかったのだろう。
躊躇なく握られた拳は一秒も経たぬうちにこちらの腹部に叩き込まれ──
俺の身体を完膚なきまでに破壊した。
「なっ?」
一番驚いたのは他でもないアイネ自身だっただろう。『ただの一般人のように』腹部に風穴を開けられ、吹き飛んでいく俺の姿を彼女は茫然と見送るだけだ。
「ごふっ……」
あーあ。覚悟してたとはいえ、俺も動揺で言葉が出ない。
「どうして……だって貴様は!」
自分の犯した事の重大さに気づいたアイネは、顔を真っ青にしている。俺はそんな彼女の顔を見ながらさっきの女神との会話を思い出す。
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『俺の身体強化の内容を変えてもらいたいんだ』
『はぁん? あのアイネとかって小娘に追い付きたくって、ステータスアップしようって魂胆か? 上から見てたけどな、今のオマエの足でも余裕で──』
『違う。その逆を頼みたいんだ』
『……どういう意味だ?』
『俺の移動能力や気配探知スキルはそのままで、防御にかかわるステータスを全て普通の人間のレベルにまで落として欲しいんだ』
『ますますわからねえ。なんでそんなことをして欲しいんだ? アイネってやつぁ自暴自棄になってるんだろうがよ。奴の機嫌をちいっとでも損ねたらすぐ死んじまうくらいの弱っちい身体になっちまうんだぞ?』
『それで良い。むしろそれだから良いんだ。これから命を絶とうって人間と話しに行くんだ。こっちも命を賭けなきゃ話し合いの場にすら立つ資格がないと思わないか?』
『資格ぅ? それだけの為か? そんなちっぽけな理由の為に自分の命を捨てようって言うのか? こりゃとんでもねえ大馬鹿だな!』
『命を捨てる? 違う、俺はアイネと生きていくために、自分の命を天秤にかけたいってだけだ』
『アタシが奪ったステータスが二度と戻らないとしてもか? こんな一時の気の迷いで、オマエはいつ死ぬかも分からない弱者になっても構わないってことなんだな?』
『ああ、構わないさ。力のない弱者になることなんて、俺は一向に構わない。力を持っている悪人になるくらいだったら、俺は目の前の人間──アイネに寄り添ってやれる弱者でありたい』
『──ハッ! それがオマエなりの誠意ってやつか? はぁ、やっぱりオマエみたいな馬鹿は一度死んでみなきゃわかんねえみたいだな』
口ではそう言いつつも、どこか彼女は喜んでいるようだった。
『そう、だからこそオマエは……いや良い。せいぜい気張るんだな、この世界をちょっとでもマシにするために』
●
「答えるのじゃ! なぜこのような真似をした!」
「あー……一瞬意識が飛んでた」
アイネの声が聞こえたことで、俺は現実へと舞い戻った。状況は先ほど変わらず、どころか身体の血が抜けてく分、着々と俺の状況は悪化していた。
「馬鹿者! 我の前で死ぬ奴があるか……!」
視線を夜空から外すと、いつの間にか俺の元へと駆け寄っていたアイネが心配そうに俺を見下ろしていることに気づいた。
いや、そんな言葉では表せないほどに、彼女は取り乱していた。
「なぜ、どうしてだ! 普段の貴様ならビクともせぬ攻撃だったはずじゃ──ああ、血が、血が止まらない。やめろ、流れるな」
あのアイネが俺の為に涙を流してくれている。こんなに嬉しいことはないだろう。
俺を抱え上げようとしているアイネに尋ねた。
「──どうだ、これですこしはわかった、か」
「喋るな、医者に連れてゆくぞ!」
「めのまえで、たいせつなひとが、しのうとする、きもちを」
はっと、驚いたようにアイネは俺の顔を見据える。なんと悲しげで美しいんだろう。
「貴様、その為にこんな馬鹿な真似を?」
「か、かんちがいするな。おれは、ただ」
うわーだめだこりゃ。
はなしたいこと、あるのに、
ぜんぜん、ことばに、ならない。
おおきなつきがみえる。
うつくしい、な。
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