幕間 ミアの場合1
その日は始まりから、良い日になる兆候があった。
まず朝の目覚ましが鳴る前に、すっきり起きることができた。いつもより1時間も早く、だ。お陰でその分、その日の講義の予習に充てられたのはとても有難い。
早起きできたお陰で、熱々の珈琲をゆっくり味わって飲む時間があった。寝坊した日には珈琲を入れている暇もないから、時間をかけてドリップした珈琲はちょっぴり特別感がする。
天気も良好で、ブラウス一枚で丁度いい気温。特別な予定はないけれど、折角だし今日はお気に入りのワンピースを着ていこうかな、と思案する。
一通り支度を終えて再び階下に降りると、大家さんのミセス・シュミットがキッチンから出てくるところだった。
「あらミアさん、おはようございます。今日はどこかにお出かけかしら?ピンクのワンピースが素敵ね」
「おはようございます、シュミットさん。いえ、特別な用事はないんですが、何だか今日は良いことがありそうなので、折角だからお洒落しようかと思って」
「それは良いわね。とても似合っていますよ。気を付けていっていらっしゃいな」
「ありがとうございます!行ってきます!」
上品なミセス・シュミットの笑みに見送られ、家を後にする。
私の住んでいるシェアハウスは、ルプレヒト大学法学部のキャンパスから徒歩10分圏内にある、好立地な物件だ。しかもシェアメイトは全員女性。残念ながら同じ大学の学生さんはいないが、バスルームとかを知らない男性と共用しなくて済むのは助かる。大学は女性が少ないから、女子学生の一人暮らしに適したシェアハウスもそう多くはない。お父さんの伝手でここを見つけられたのはラッキーだ。
講義開始まで時間に余裕があったから、途中のカフェに寄って珈琲とライベクーヘンをテイクアウト。揚げたての生地にアップルソースの甘味が美味しい。え、珈琲は出る前に飲んだばっかりでしょって?いえいえ、朝のはおはようの珈琲で、これは講義中の思考機能活性化用。全く別物なんです。別って言ったら別なんだもん。
教室に着くと、まだ早い時間だからか人は疎らだった。その中に友人を見つけて声をかける。
「おはよう!今日も早いねえ」
「おう、おはよう。君はいつもより早いな」
「そう、今日は1時間も早起きできちゃって!」
「へえ、良かったじゃないか。おかげで朝から貴重な食糧確保できたみたいだな」
「ちょっと?人のことをジャングルサバイバーみたいに言わないでくれる?」
「え、違ったのか。僕はてっきりそうだと…」
「年頃の乙女に向かって恥を知りなさい」
どん、と荷物を置いて座ると、友人が肩をすくめる。
友人からの扱いは大体こんな感じだ。まだ入学して間もない頃、学部の先輩たちが開いてくれた新入生の歓迎パーティーで、屈強な男子学生たちと肉の争奪戦をしたのが元凶だと思われる。育ち盛りにとってタンパク質の摂取は貴重なのだ。あの時はお酒も入っていたから、欲望にとても忠実に行動してしまった。
結果ついた渾名が「法学部のイェーガー」。狩人ですよ、狩人。しかも学部まで代表してしまっている。お陰様で、私を女性として認識する知人は学内でほぼ全滅した。さようなら、乙女の私。
折角可愛いワンピースを着てメイクもちょっと頑張ったのに、注目されるのは手に持っている食べ物とは…と悲しい思いに浸っているうちに、教室は学生で賑わってきた。
土曜朝一の授業は、近代技術史。その名の通り、近代における技術革命を中心テーマにした講義だ。産業革命によって新しく制定された法律とかもあるし、学んでおいて損はない。土曜の朝に早起きしなきゃいけないというデメリットはあるけれど、それがなければもう少し履修者が増えるんじゃないだろうか。
いつもなら眠気の残る頭を珈琲で覚醒させるのだけれど、今日は早起きした効果か脳がきちんと活動している。よし、良い調子。
そうして講義を終えたら、急いで荷物をまとめて次の教室へ移動する。次の教室は少し離れた建物にあるから、遅れないように注意しなければいけない。
法学部のキャンパスは帝都ベアリィンのほぼ一地区分の敷地があるから、移動は基本的に自転車だ。これでもうちの大学では移動しやすい方。
実を言えば、ルプレヒト大学の本拠地はここではなく、帝都から鉄道で30分程の大学園都市、ルプレヒト市なのだ。ルプレヒト大学は国内で最も歴史を持つ大学だけど、最初から総合大学だった訳ではない。もともと医学の高等研究所として創設されたのが始まりで、そこから研究都市として街全体で栄えて、学部が増設されていったのが沿革だ。
だから医学部や自然科学部、工学部など理系のキャンパスは全部ルプレヒト市にある。というか、街全体に各キャンパスが散在していると言った方が正しい。医学部に行った友人は、実験室の移動に市内鉄道を利用しなきゃいけないとぼやいていた。
それと比べれば、帝都ベアリィンの一地区にキャンパスがある法学部や、社会科学部は移動が楽だ。帝都内の地下鉄は学割定期も買えるから、お洒落なカフェや映画劇場、ブティック等が集まるノイシュダッド区にも気軽に行ける。同区には今流行りのカバレットもオープンしていて、文化人を自称する人々は、こぞって夜を明かしに行く。ルプレヒト市にも歓楽街はあるけれど、やっぱり首都の文化最先端地区というのは若者にとって憧れなのだ。
実際同じルプレヒト大学の生徒でも、ベアリィンキャンパスに通う学生の方が都会的で垢抜けた雰囲気をしている。もちろん医学部や自然科学部、工学部の学生でもかっこいい人はいるし、ついでに実家もしっかりしている場合がほとんど。特に医学部生なんて図抜けて頭は良いし、親戚一同医者ですっていうエリート家系が多いのは言わずもがな。そういう意味では医学部生も女性からの人気は高くて、私の友人も彼女がいない時期はないという、異性関係における完全無双状態にある。
だがやはり一般女性からの圧倒的人気度を誇るのは、法学部生や社会科学部生だ。頭もルックスも最高峰、女性から見れば一度は付き合ってみたい、あわよくばそのまま結婚したい、そんな理想像がそこには存在するのである。
え?ルプレヒト大学の女子学生の場合はどうなのかって?
…それは、私が現在ボーイフレンド絶賛募集中であることをお伝えすれば、実状をお察しいただけますでしょうか。
少なくとも男子学生みたいに入れ食い状態であれば、この求人広告が半年以上掲載されっぱなしという現状はあり得ないはずですよね。ね、男性のみなさん。
さて、そんな哀しい現実からはちょっと目を逸らそう。折角今日は良いことがありそうだし、2コマ目の後はレストランでお昼にしようかな。その後ブティックに寄っても良い。うんうん、考えたら楽しくなってきた。
そんな調子で乗り越えた2つ目の講義の後、出された課題の資料を探そうと国立図書館に立ち寄った。
今回のレポートテーマは、「1694年に我が国とテュッレーニア都市連合との間に締結されたイャイ条約について、我が国と当該国のパワーバランスにおける重要性を、その性質の歴史的変遷を鑑みて考察せよ」。
国際関係論の先生は、定期考査とは別に普段からレポート課題を出す。課題に取り組むのにはそれなり量の文献が必要だから、講義を取る学生たちは常に資料を求めて図書館を彷徨うことになる。大学図書館も質は高いけれど、何せ蔵書数が限られているから人気書籍は万年貸出中だ。だから法学部の生徒は大体、定期的にこの国立図書館にお世話になる。「ルプレヒト大学の法学部生と出会いたかったら、国立図書館の2階席へ」というのは、帝都でよく言われるジョークの一つだ。
そんな国立図書館で、私は今日一番の良いことがあった。
なんと、大学生活初の同性のお友達ができたのです!
…いや、こう言うと、何だか私の人生で同性の友達ができたためしがない、みたいに聞こえるから少し訂正しよう。正確に言うと、「大学の研究内容を語り合える同性の友人ができた」。うん、これが正しい。
帝国は女性の社会進出を歓迎し始めたとはいえ、まだ女性エリート層の育成は始まったばかり。高等研究機関における女性人口というのは、未だ1割を切ると言われている。
実際私の在籍するルプレヒト大学法学部でも、約350人いる学生のうち女性は10人にも満たない。そして少ないからといって、女性同士で固まるということも全くない。そもそもディプローム試験に何年で合格するかによって、在学年数は変わるのだ。8年程在学する人もいれば、最短3年で卒業していく人もいる。そんな中で女性の友人を求めるのは、かなり厳しいものがある。
私が卒業したギムナジウムでも、大学まで進学する同性の友人はほとんどいなかった。数少ない女友達も、それぞれ地方の大学へ進学してしまったため、気軽に会える距離ではない。偶に電話や手紙で近況報告するくらいだ。
帝都で就職した友人もいるが、彼女たちも大抵忙しいので会う回数は限られる。特に魔法工業の企業は事業拡大に雇用が追いつかず人手不足状態だから、従業員は残業手当を強制的に付与されて限界まで勤務しているようだ。そんな彼女たちに、吞気に学問の話などする気にはなれない。
それとは対照的に爵位を持つ家の友人は、親の決めた縁談に従って卒業と同時に家庭に入った子もいる。そういう子たちは社交界入りをして、完全に奥様業に専念している。それはそれで貴族夫人たちのお付き合いがあるから、学生の私が気軽に誘える機会はなくなってしまった。
そんな訳で同性の話し相手があまりいない私は、ちょっとした孤独を覚えていた。同じ学部の友人は良くしてくれるし、大学でも学友には恵まれていると思っている。でもやっぱり、街中で友達同士で歩いている女の子たちを見かけると、少々寂しさを感じるのだ。
しかし今日の私はとことんツイていた。
足を運んだ国立図書館で、歳の近い女性と出会ったのだ。
実は最初見かけた時、一瞬声をかけるのをためらった。それくらい彼女の雰囲気は、一般人らしからぬ感じだったのだ。端的に言えば、「え?もしかして映画女優?!」とか思ってしまったのである。我ながらなんてミーハーだろう。でもそのくらい、彼女は美人だった。とりあえず、私が見たことのある女の人の中で3本の指に入るくらい美人なのは確かだ。
そんな一瞬の躊躇も、欲望の前にはあっさりと崩れ落ちた。そう、女友達を獲得するという、大いなる欲望である。
そもそも国立図書館を利用するのは、帝都に在住する一部の知識層がほとんどだ。私たちルプレヒト大学の大学生もそうだが、学者や政財界の有識者等も来訪する。一様に言えるのが、利用者はみな学識高い人間だということ。しかし残念なことに、そこに占める女性の割合は極端に少ない。
そんな中、図書館で新聞のアーカイブを読みながらメモを取る女性というのは、滅多にお目にかかれないのだ。しかしその日の私は、大変運に恵まれていたのか邂逅することができた。
逆に考えれば、今日この瞬間以外に、彼女と私の運命が重なることなどないかもしれない。そう思ったら、何が何でも声を掛けねばという気合が入る。
大丈夫。今日はお気に入りのワンピースも着て、お化粧もしっかりしている。身だしなみはちゃんとしているはず。学生さんですか?ってにこやかに話しかければ、変な人とは思われないだろう。さあ、行くんだ法学部のイェーガー!
「あの…もしかしてルプレヒト大学の学生さんでしょうか?」
ちょっと声が震えた。でも、しっかり顔を上げて話しかけることはできた。
女性が顔をこちらに向ける。…うん、やっぱり美人だ。真正面からまともに見ると、何だか圧すら感じる。
一瞬怯みそうになるが、ここで諦める訳にはいかない。そう念じて相手の反応を待った。
「いえ、私はただふらりと立ち寄っただけでして」
残念、同じ大学の人ではなかった。いやでも、私は諦めない。何とか会話を続けようと思って、言葉を重ねる。
「あ、そうなんですね!この時期国立図書館には課題をやりにくる学生さんが多いので、てっきり同期の方かと…」
すると彼女は“同期”という単語を拾って、会話を続けてくれた。
「ああ、というと貴女はルプレヒト大学の学生さんで?」
「はい!ルプレヒト大学法学部に在籍しています!」
ほう、と関心を持ったような反応が返ってくる。
彼女の真っ直ぐこちらを見てくる視線は、ちゃんと私に興味を示してくれている証拠だ。よかった、冷たい反応されたらどうしようかと思った。私のメンタルはまだ保たれている。
それから彼女は、私の話に優しく合わせてくれた。そればかりか、なんと私の課題を一緒に議論してくれた上に、お話し相手になりましょうと言ってくれたのだ!
お話し相手。時事話題から学問的な話、カルチャーに至るまで気軽に話せる相手。つまりそれって、友人ってことですよね?
私の求めていた女友達が、今手に入ろうとしている!
興奮で完全に冷静さを失った私とは対照的に、彼女は非常に落ち着いた穏やかな笑顔で挨拶してくれた。
「では既に、私たちは友人ですね。改めまして、私、ヴェラ・ヴィトゲンシュタインと申します、宜しく」
彼女、ヴェラさんは、その後お昼も一緒にしてくれた。女友達と一緒にランチなんて、何年ぶりだろう…と感涙を堪えつつ、色々とお話しをする。
会話をしていても、彼女はとても頭の切れる人だとわかる。話し方に知性を感じるし、切り返しも鋭い。「暫く帝都を離れていたから、すっかり田舎者ですよ」なんて言っていたが、身のこなしもそこらの帝都人よりスマートで、すごく洗練された雰囲気だ。
「はあ…素敵な友達ができて、何て良い日なんだろう」
「ああ、さっきのヴェラさん?超美人だよな!もしかして若手女優とか?ミア、どこで知り合ったんだよ」
私が独り呟いていると、隣に座っていたフロルが合いの手を入れてきた。
「ふふふ、それがね、何とさっき寄った国立図書館で知り合ったの!」
「ええ、あんな人が国立図書館に?!超目立ってただろう、それ」
「うんもう、そりゃね。でも女友達が欲しかった私は、勇気を振り絞って声をかけたのです!」
「すごいな、僕だったらただのナンパと思って相手にしてもらえなさそうだ。そうか、ミアは外見だけは可憐な少女に見えるし、急に声かけても怪しまれないのか…見た目って大事なんだな」
「だけ、ですって?…フロル、発言には気を付けないと、輪切りにスライスして、私の帝国憲法全書の栞にされるわよ」
「だから、そういう発言がもうアウトなんだって…」
フロルと喧々諤々言い合っていると、周囲の友人から「ミアに食われるぞー!」と笑い声があがる。
彼らと話すといっつもこんな調子だ。年頃の女性扱いなんてされない。
でも逆に言うと、変に遠慮もされないし、彼らなりに対等に接してくれている姿勢が見えるのが安心。もし私が彼らに、いつもカフェやバーでレディを口説くときみたいな話し方をされたら、大学の同期に対して馬鹿にしているのかと憤慨するところだ。
さて、ご飯も食べ終わったし、そろそろ出るとしよう。今日の午後は講義は入っていないから、ショッピングに行くのもありだ。
最近お洒落をするような用事もなかったし、家にあったシーズン遅れのワードローブたちはこの前処分してしまった。折角同性の友達もできたし、今後街へお出かけする機会も増えるかもしれない。
ファッション誌を買って、久しぶりにカフェで最新の流行をチェックするのもありかもしれない。
やっぱり今日はとっても良い日だ!
そう思いながら書店に向かう私の足取りは、いつもより大分弾んでいたのだった。




