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右や左の国士様  作者: 隣之 芝生


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第58話 何もかもが終わったなら

「ねえ、帰って来てくれるんでしょ」


 4人が出ていった後の若葉さんの問いかけは誰に向けたものか分からない。

 仮に私に向けたものだとするなら、その期待には応えられない。


 意識の混濁、記憶の錯綜。

 推論通りならば全て無意味だ。


 私は嘘吐きだが、出来ないと分かっている約束をしたことはない。

 だから、呪いの言葉を吐かなければならない。


「もしも叶うならば、天竺への道程を辿る旅に出たいな」

「有難いお経を持ち帰って、みんなを幸せにしてくれるの?」


「西遊記のクライマックスは三蔵法師の妊娠だ。生物学的男性の身体で妊娠するという偉業を成し遂げている。当時の医療水準での帝王切開は死を意味するし、法師には経典を持ち帰るという至上命題があった。産むか、産まないか、その判断に苦しむ心境を思うと胸が痛む」


 善良な心根の持主の若葉さんは黙り込んでしまう。

 もう喋らせないための言説。

 私は最後まで卑怯だ。


「史実も残酷だ。隋から唐への移行期、英才として将来を嘱望された玄奘三蔵は仏教による動乱の世の終息を志し、原典を求めて推定3万kmとも言われる天竺への旅に出た。唐は鎖国政策を敷いていたから、国禁を破った玄奘は無事に生きて帰っても死罪を言い渡される覚悟の旅路だった。そして辿り着いた天竺は夢見た極楽浄土などでは無かった。最先端の哲学であり科学であるはずの仏教は、ヒンドゥー教に駆逐され、権力者に保護されて細々と伝えられる貴族や富豪の趣味となっていた。それでも玄奘は原典を学び、大般若教を中核とする千三百巻余りの経典を持ち帰り、その翻訳に生涯を捧げた」


「死刑にはならなかったの?」


 女の直感というやつだろうか。これ以上、私に語らせてはならじと話の腰を折りに来た。

 話を遮られたことへの不満を表明する仕草でダイスを放り投げる。

 出目は12。


「旅路で知り得た周辺諸国の地理政情を報告書にして献上することを条件に、玄奘は経典の翻訳に取り組むことを許された。六百巻に及ぶ大般若経を要約した般若真教の説くところを僕の偏見を通じて解釈すればこうだ。『この世のすべては、形を変え、移り替わってゆくだけで、有って無いのと同じ。こだわっても辛くなるだけだから諦めよう。何もかも無意味だと思えば楽になる』」


 ポケットから、もう一つのダイスを取り出す。


「なんという皮肉だろう。自分の命さえ擲つ覚悟で手に入れた真理は『執着を捨てよ』だ。本気で言っているのかと正気を疑うよ。だって矛盾しているだろう。執着を捨てることに執着しているんだから」


「待って、アタシ、まだ返事をしてないわ」


 ダイスを振ろうとする私に若葉さんは触れることが出来ない。

 もう大丈夫だよ、若葉さん。

 2回目の出目も12だから。


「僕は最初から居なかった。偽物は消えて、この世界の時間は巻き戻り、有情無情の区別なく、あるべき姿を取り戻す」


 視界は色彩を失い、私はモノトーンの世界で焚火を前に座っている。


『ケケケケ』


 聞き慣れた笑い声。

 吐いた嘘のとおり私が消えてしまう恐れがないわけではなかったが、きっと来ると思っていた。

だって私なら、そうする。痛々しいナルシストを揶揄いに来る。


『相変わらずの独り善がりだな。他人の気持ちなんて、これっぽっちも気にしない。大事なのは自分の虚栄心だけ。俺のことなんか忘れて、どうぞ幸せになってくださいってか。我ながら、むず痒くなるなあ。格好つけて、逃げてるだけって分かってるのによう』


 私の手が震えている。

 私の手も震えている。


『まずは飲もうぜ。こんなに震えてちゃあ、ダイスを振れないだろう』


 超越的存在との対峙は現実逃避から始まった。

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