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たまき酒  作者: 猫正宗
14/14

13 初任給と牡蠣料理

 企画が通ったからには執筆である。


 茉莉から連絡をもらった私は、早速『グラスホッパーがぁる』2巻のプロローグを書き上げた。


 このプロローグは、田舎から出てくるみのりを空港で待つ貴子が、少しの待ち時間があるのを良い事に生ビールを飲んでしまうお話だ。


 書き上がった原稿を読み返してみる。


 我ながら中々美味しそうなビール描写が出来た、なんてつい自画自賛してしまう。


「さぁて。続きを書きますかぁ」


 腕捲りをしてノートパソコンに向き合った。


 次に書くエピソードはもう決まっていて、いのりの就職祝いと引っ越し祝いを兼ねて、割烹料亭に食べに行くお話である。


 書き出しはどうしようかなんて考えながらキーボードに指を添えた。


 その時――


 コンコンと自室のドアがノックされた。


「お姉ちゃん、ちょっといいかな?」


 ガチャリと扉が開かれ、いのりが顔を見せる。


 どうやら起き抜けらしく、まだパジャマ姿だ。


「あ、もうお仕事してたんだね。朝早くからお疲れ様です」


 作家により個人差はあるみたいだけれども、私は朝方の方が執筆が捗るタイプだ。


 特に起き抜けは一番頭がクリアで、すいすいと書ける。


 そういう訳で今日は早起きをして執筆していたのだけれども、集中していたせいでもういのりの起床時間になっていた事にも気が付かなかった。


「ごめんなさい。邪魔しちゃったかな? 後にした方がいい?」


「大丈夫よ。どうしたの?」


「えっとね。お姉ちゃんって今度の土曜日の夜は、予定空いてるかな?」


「土曜日……。ええ、空けようと思えば空けられるけど……」


「良かったぁ。じゃあ空けておいて!」


「それはいいけど、何かあるの?」


「えへへ。内緒! じゃあ朝ご飯作ってくるね」


 いのりがニコニコしながらドアを閉じようとして、はたと何かを思い出してから止まった。


「あっ、そうだ。これも聞いておかなきゃ。ねぇお姉ちゃん。今、何か食べたい物ってなぁい?」


「何よ急に」


「いいからいいから。教えて欲しいなぁ」


「うーん。そうねぇ……」


 考えてみる。


 今は5月の初週。


 この時期となると――


「あ、あれだ。牡蠣なんかいいわねぇ。今を逃すとまた冬まで食べられないし」


 真牡蠣の旬は十一月から四月頃で五月に入ると産卵が始まってしまう。


 排卵後の牡蠣は痩せてしまって味が落ちるのだけれども、逆に言えば産卵直前の牡蠣はその身にたっぷりの栄養を溜め込んでいて、実に濃厚で美味しいのである。


 つまり今は旬の真牡蠣を味わう最後のタイミングなのだ。


「うん、わかった! 牡蠣だね!」


 いのりはパタンとドアを閉めてから、フローリングにパタパタと足音を響かせながら立ち去っていった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 約束の土曜日になった。


 夕方、私はいのりに連れられていきつけの居酒屋である『八重山』に赴く。


「いのり」


「どうしたの?」


「いえ、珍しいなって思ってさ。あんたから私を外飲みに誘ってくれたのって、これが初めてじゃない?」


「そういえばそうかも」


「どういう風の吹き回し?」


「それはねぇ……。着いてからのお楽しみだよ!」


 いつものように赤提灯を横目にしながらのれんを潜る。


 ガラガラと引き戸をスライドさせて店内に入ると、カウンターで仕込みをしていた店長の新城さんが迎えてくれた。


「……らっしゃい。予約席座んな」


「お邪魔しまーす。って予約席?」


 何の事だろうか。


 首を捻りながら店内を見回すと、四名席に二人分の来客準備がされていて、『予約席』と書かれたプレートが置かれていた。


「あれ? いのり、もしかして予約してたの? 何でまた」


 この店は普段満席になる事なんて無いから、別に飛び込みで十分なのに……。


 考えていると、店長が席に何かをドンと置いた。


「あっ、あれって……⁉︎」


 牡蠣だ。


 スチールの半斗缶に溢れんばかりに盛られた殻付きの真牡蠣が、テーブルに置かれている。


 そう言えば少し前にいのりに食べたいものを尋ねられて、牡蠣と答えた事を思い出す。


「今日はわたしにお勘定任せてね。実は……」


 いのりが話しだす。


「わたし昨日が初任給の振り込み日だったんだ。それでお姉ちゃんに感謝を伝えたくて、お店を予約してたの」


「いのり……」


 そうだったのか。


 何だかじんわりと胸が暖かくなっていく。


「黙ってたのは驚かせたかったから! お姉ちゃん、いつもありがとう! ……えへへ。驚いてくれたかなぁ?」


 私は上目遣いで見つめてきたいのりの頭に、ぽんっと手を置いた。


「うん、驚いた。……ほんとにあんたは、良い子に育っちゃって」


 さわさわと髪を撫でると、いのりが嬉しそうなら顔でギュッと目を瞑った。


 ◇


 テーブルに座って牡蠣料理を眺める。


 クラッシュアイスの上に並べられた生牡蠣に、牡蠣の香草パン粉焼きに、牡蠣のガーリックバターソテーに、牡蠣フライ。


 バケツの牡蠣はガンガン焼きにするらしい。


 正に牡蠣料理のオンパレードだ。


「お姉ちゃん、食べて食べて」


 いのりが嬉しそうに勧めてくる。


「ええ、いただくわ。んー、どれも美味しそうねぇ」


 私はまず最初に生牡蠣を、殻ごと手に取って眺めた。


 暖色の照明を反射してキラキラと輝く生牡蠣は、まるまると肥えていてまだ産卵前の旨味をギュッと溜め込んだ状態だと一目でわかる。


 添えられていたレモンを搾り、数滴果汁を落としてから殻に口を添える。


 そのまま吸い込むと、ちゅるんっと牡蠣が口内に滑り込んできた。


 レモンの酸味が頬の内側を刺激する。


 磯の風味が鼻腔を抜けていき、海水による程よい塩気が舌に広がっていく。


 咀嚼するとぷるんとした牡蠣の身が奥歯に押し潰され、中からまるで濃厚でクリーミィな旨味が湧き出してきた。


 口の中いっぱいに膨らんでいく味わいに満足しながら、ごくんと飲み込む。


「ああ……。美味し……」


 久しぶりに味わう生牡蠣。


 これは堪らない。


「お姉ちゃん、これこれ」


 いのりがガーリックバターソテーを勧めてきた。


「えへへ。こっちも美味しいよ」


 促されて食べてみる。


 食感はぐにぐにしていて、牡蠣の旨味に醤油とバターとガーリックが調和した美味しい料理だ。


 サクサクした衣の牡蠣フライも、中はまだ揚げたての熱々で、口に放り込んむとついハフハフと息を吐いてしまう。


 どの料理も素晴らしい。


「……酒だ。ここ置いとくぞ」


 店長さんがやってきて、日本酒の一升瓶を置いた。


 私はラベルを眺めて唸る。


「あっ、『田酒(でんしゅ)』じゃない。これ良いお酒よねぇ」


「嬢ちゃん頼まれてた酒だ。銘柄はこっちで選ばせてもらった」


 なるほどそうだったのか。


 しかしさすが店長の新城さん。


 お酒選びにセンスがある。


 この田酒の特別純米酒は青森の日本酒で、ずっしりと腰の座った米の旨味とさっぱりした飲み口を併せ持つ稀有なお酒だ。


 普段飲みに適したリーズナブルさも相まって、東北では広く愛飲されている。


 田酒の旨味なら牡蠣の旨味にも負けないだろう。


「それと、今からガンガン焼きするから、ちょっとテーブルの真ん中を空けてくれ」


「あ、はい」


 いのりと一緒にお皿を移動させてスペースを作る。


 するとそこに店長がカセットコンロを置いて、蓋をした反斗缶を乗せてから火を点けた。


「五分もすりゃあ出来上がる。そしたらこれで牡蠣の蓋を開けながら食べな」


 軍手とオイスターナイフを置いて、店長はカウンターへと戻っていった。


「お姉ちゃん。これってガンガン焼きって言うの?」


「そうよ。元は漁師さんなんかが浜辺でする豪快な料理法だったみたいね」


「ほぇー。そうなんだ」


 ガンガン焼きの手順は簡単だ。


 牡蠣を詰め込んだスチル缶に酒を振り掛け、蒸気穴を空けた蓋をして強火のコンロにかけるだけ。


 至ってシンプルなのに、これが他の調理法にも負けていないのだから、料理というものは不思議だ。


 そうこうしている間にもスチル缶の穴から蒸気が抜けて、ガンガン焼きが蒸しあがった。


 軍手をした手で牡蠣を取り出し、牡蠣の蓋の内側んスライドさせる様にオイスターナイフを差し込んで貝柱を断ち切る。


 パカッと口を開けた牡蠣からホクホクの湯気があがり、酒気まじりになった磯の香りが漂ってきた。


「それじゃあ、いただきます」


 ふっくらと蒸しあがった大振りの牡蠣の身を、パクリとひと口で頬張る。


 途端に口の中が熱さに襲われた。


「あっ、(あっふ)い……! はふっ、はふっ」


 火傷しそうだ。


 いや、実際少し口内の上側の皮が捲れてしまった様な気がするけど、そんな事よりも今は牡蠣だ。


 このガンガン焼きで蒸し焼きにされた牡蠣の何と美味しいこと!


 噛むごとに身の内側から凝縮された牡蠣の旨みがジュワッと滲み出し、口いっぱいに広がっていく。


 余計な味付けなんて一切ない簡素な調理法ゆえに、素材となった牡蠣そのものの味わいが際立ち、旨さが膨れあがっていく。


「ふふふ。お姉ちゃん、美味しそうに食べてる。何か嬉しいなぁ。はい、お酒も」


 いのりがグラスに田酒を注いで差し出してきた。


 私はそれを受け取り、そして思う。


 極上の肴を堪能しながら、可愛い妹にお酌をしてもらう……。


 もしかしてこれが天国だろうか。


「ありがと、いのり」


 グラスを受け取って鼻先に近づけた。


 フルーティな吟醸香がほのかに漂ってくる。


 華やかな香りのお酒も良いものだけれども、普段飲みするお酒ならこれくらい控えめな香りのものが適しているのかも知れない。


 ぐいっと煽る。


 透き通ったお酒がサラサラと口内に流れ込んでくる。


 舌先に感じる微かな甘みと、ずっしりコクのある米の旨さ。


「んく、んく、んく……」


 極めて雑味の少ない風味を楽しみながらごくりと飲み干すと、後味は驚くほどさっぱりしている。


「はぁぁ……。美味しいわねぇ」


「お姉ちゃん、もう一杯どう?」


「いただくわ」


 空いたグラスを差し出すと、いのりが一升瓶からお酒を注いでくれた。


「ありがと。じゃあ今度はあんたの番ね。ほら、グラス出しなさい」


「わたしは自分で入れるからいいよぉ。今日はお姉ちゃんに日頃の感謝を伝える日なんだから」


「ふふふ。ありがと。でももう十分気持ちは伝わったわよ。それに二人で一緒に飲みたいのよ。だってその方が美味しいじゃない」


 改めてグラスを出すように促す。


「……うん。そっか。そうだよね!」


 私はいのりにもお酒注いで、美味しい肴を分け合い、二人一緒に楽しんだ。


 ◇


 たくさん飲み食いをして満足した私たちは、少し落ち着いて会話を楽しんでいた。


「いのりはもう仕事には慣れた?」


「うーん。どうかなぁ。業務はまだまだわかんない事だらけかなぁ」


「そうなんだ?」


「うん。今はまだ開発に必要なプログラミング言語の習得とか、プラットフォームの仕様把握とかで、まだ実際の開発には携われていないんだけど、それでも毎日ちんぷんかんぷんな事ばっかりで……」


「へぇ。私はコンピューターの事とかよく分かんないけど、あんたも大変そうねぇ」


「大変だよぉ」


「そう言えば聞いてなかったわね。あんたは何でIT業界に入ったの?」


「んー、分かんない。何となくだよ、何となく。ただ都会で暮らしてみたいって気持ちは少しあったから、それでこっちで手当たり次第求人に応募したら、今の会社に採用されたんだぁ」


「ふーん。そっかぁ」


 まぁそんなものかも知れないな。


 世の中、明確なビジョンを持って働いている人間ばかりではないのだ。


 そしてそれは別に悪い事ではないと思う。


 各々に生活があって、何となくで働いている内にやりたい事を見つけたりする場合なんかもある。


「人間関係の方は? 神楽坂くんについては知ってるけど、他の人とも仲良くやれている?」


「うんっ。それはばっちりだよ!」


「そっか。ね、どんな人がいるのか聞かせなさいよ。かっこいい男性とかいるんじゃない? あ、神楽坂以外でよ?」


「う、うーん……。それはいるかなぁ? 同期に紺野くんって男の人がいるんだけど、この人は無口でスマホでゲームばかりしてるんだぁ」


「へぇ、おかしな人ねぇ」


「でも女の人なら良く話す人が何人もいるよ。例えば経理の先輩の智子さん! この人は名字が『阿保』さん何だけど、それを凄い嫌がってて絶対に名字では呼ばせてくれないの」


「えー? 別におかしな名字じゃないのにねぇ?」


「だよねー。あと同期入社の女の人で、鳴瀬さんっているんだけど、この人は田舎に彼を残して上京してきたらしくて、いっつも会いたい会いたいって言って、仕事中もよく上の空なんだぁ」


「上の空ってダメじゃない」


「ふふっ。だから良く上司の人に怒られてるの」


「何それ、おっかしい」


 ちびちびとグラスを傾け、牡蠣を摘む。


 こんな風にいのりとお酒を酌み交わしながら姉妹の会話に花を咲かせられることに、幸せを感じる。


 と、その時――


 ガラガラっと音を鳴らし、少し立て付けの悪くなった店の戸が開かれた。


「邪魔するよぉ」


 見慣れた三人組が顔を見せる。


 常連の長野さんと平田さんと松倉さんだ。


「お! 環ちゃん来てるじゃないの!」


「ホントだ、ホントだ!」


「うひょー、今日はラッキーだねぇ!」


 彼らは店に入ってくるなり早速私の姿を認め、笑顔で手を振りながら近寄ってくる。


 そして目敏くいのりの姿を認めた。


「あ! も、もしかして、あんたが噂の妹にちゃんかい?」


「ひゃあ⁉︎ こりゃあ別嬪さんだねぇ!」


「おじさん達と一緒に飲もうよ! こっちこっち!」


「え? あ、あの、わたし……」


 いのりが面食らっている。


「さぁさ、一緒に飲もう。奥の座敷がいいかな?」


「い、いえ、今日はお姉ちゃんと二人で……」


 いのりがやんわり断ろうとするのと同時に、三人組の後ろに店長がやってきた。


 おじさん達の後ろで仁王立ちをしている。


「……おう。他の客に迷惑掛けるつもりなら、店から叩き出すぞ」


「や、やだなぁ。あたしら別に迷惑なんて……。なぁ?」


「そ、そうだよ? ちょっと一緒に飲もうと誘っただけじゃないか」


 汗を掻きながら言い訳をする常連三人組を、店長さんがジロリと睨みつけた。


「ひぃっ⁉︎」


 おじさん達がすくみ上がる。


「わ、わかった! わかったよぉ」


 三人組はすごすごと店の奥へと姿を消した。


「……すまねぇな。ごゆっくり」


 店長の新城さんも、カウンターの中へと引き返していく。


 その姿を目で追いながら、いのりが胸に掌を当てた。


「……ふわぁぁ。びっくりしたぁ」


「ホントにねぇ。悪い人達ではないんだけど」


「お姉ちゃんの知り合いさん?」


「このお店の常連さんたちよ。たまぁに一緒に飲む事があるのよ。何だかんだで楽しい人達ではあるから、今度紹介してあげるわ」


 居酒屋での新しい出会いも、それはそれで良いものである。


 いのりさえ良ければ、その気持ちを知ってもらいたい。


「へぇ。そうなんだぁ。楽しみにしてるね。あ、でも今日は一緒に飲んであげなくて良かったのかなぁ?」


「平気よ、平気。だって今日は私たち姉妹二人だけの飲み会なんだもの。あの人達とはまた今度」


「うん、そうだね!」


 私たちは改めてグラスにお酒を注ぎ合い、乾杯をした。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 店を出た私たちは、ゆっくりと夜道を歩いていた。


「ね、お姉ちゃん」


「どうしたの?」


「夜風が気持ちいいし、少し遠回りしてから帰ろうよ」


「そうね」


 いのりが少し歩調を速めて、前に歩き出す。


 その背中を眺めながら、私はこの子が家に転がり込んできてからのひと月ちょっとに想いを馳せる。


 ……楽しい毎日だった。


 これからもいのりとの日々を過ごしていける私は幸せ者だ。


 いのりが足を止め、その場で振り返る。


 目があった。


「どうしたの、お姉ちゃん。何だか楽しそう」


 そう言ういのりの方こそ、幸せそうに微笑んでいる。


「……なんでもないわよ」


「ええー。ホントかなぁ?」


 私は可愛いこの妹に、どう応えたものか少し考えてから改めて口を開いた。


「ね、いのり」


「ん?」


「これからも、よろしくね」


おしまい。


お読み頂きありがとうございました。

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