第9話 2K風呂トイレ別格安賃貸毛玉付き(後編)
「お嬢やん、何かいい夢でも見られましたか?」
ちゃぶ台に出されたトーストにマーガリンを塗っていれば、如何にも寝起きといった様子の着流し男は、何の脈絡もなくそう聞いてきた。
「何故?」
「いや、俺の勘違いかもしれないんですが……なんかこう、妙にツヤツヤして見えるって言いますか」
「自分ではわからないけれど、あなたの気のせいよ。多分」
目を閉じながらトーストを齧れば、サクリと軽い音が普段より大きく聞こえる。
正面に座るボツさんの表情は分からない。ただ、こちらの素っ気ない反応に、それ以上食い下がる気にはなれなかったらしく、はあ、という相槌ともため息ともとれる微妙な返事で、質問の内容を切り替えた。
「それから、うちの子狐ちゃんなんですけども。布団の中でクルンクルンに丸まったまま出て来ないんですが、こっちはなんかご存じだったりします?」
ボツさんが振り返った先は奥の和室。そこに見えるのは小山のように盛り上がった掛け布団と、ちょろりと覗いている尻尾の先端である。
「……ちょっと吸い過ぎたかしら」
「吸い?」
「なんでもないわ。きっと疲れていたのよ。それより、起きたら始めると言っていた準備というのは?」
首を傾げる彼を前に、薄めに淹れて貰った珈琲を小さく啜りつつ、できるだけ自然に話題を逸らす。鼻先に残る柔らかい感触について、反省と満足感はあるものの、敢えて言わない方がいいだろう。
知らぬ存ぜぬの雰囲気を貫けば、ボツさんもそこまで興味はなかったのか、あるいは単純に無理矢理つなげた話の方が重要だったのか。その場で軽く座りなおしつつ、トーストにマーガリンをザラりと塗った。
「ちょっとした工作って言いますか。ちょいと歩いたところに、それ用の小屋がありましてね」
「大雑把な話ね。何を作るのか知らないけど、この格好で昼間に出歩くのはどうなの?」
ふわりと持ち上げて見える袖は、薄桃色をした甚平型の患者衣である。
頑なにパジャマと言い張ればそう見えるかもしれないが、どちらにせよ外を歩き回る恰好ではないだろう。何より、自分が恥ずかしい。
さりとて、ひょろりと背の高い男性であるボツさんと、小学生かのように思える体躯のととさんとしか居ない中で、身に合った衣類一式を借りられるとは思えず、どうするつもりかと視線で問えば、彼は平然と口の端についたトーストの粉を拭って言った。
「あぁ、そこんとこはご心配なく。もうそろそろ着く頃だと――お、噂をすれば」
ボツさんが顔を向けた窓の向こう。聞こえてきたのはボボボボという低いエンジンの音だった。
薄い壁を貫いて徐々に大きくなったそれは、しかし程なくしてフッと聞こえなくなり、代わりに踵が階段を叩く音へ変わると、間もなく建付けの悪いらしい玄関扉が勢いよく開かれた。
「あーぁ、つっかれたぁ。おっさーん、とっと姉さーん。かーえったよーぅ」
「おぅ、おかえり。長いお勤めご苦労さん」
「な……っ!?」
どこか聞き覚えのある女性の声。咄嗟にそう感じたはずなのに、いざその姿が目の前に現れた時、私は思わずちゃぶ台に膝をぶつけながら後ずさっていた。
「ふ、古甲、さん!? なんで、ここに……!?」
革のライダースジャケットに身を包み、ヘルメットを片手にぶら下げた女。身につける物の雰囲気こそ異なれど、昨日の今日でその顔を見間違えるはずもない。
「これはこれは瑞穂ちゃん。昨日の夜以来、かな? 中々いい感じのビックリ顔だねぇ。ふふっ」
「ッ……これは、どういうことなの?」
にんまりと笑う女の顔に苛立ちを覚えたおかげで、少しだけ頭がまともに働いたのだろう。
あの施設の人間がこの場に居るというのに、平然と座っている男の方へ、私はゆらりと視線を向けた。
「まぁまぁ、そう睨まんでくださいよ。ちゃんとご説明しますから」
こんな反応も、きっと想定の範疇だったのだろう。ボツさんは力の抜けた雰囲気もそのままに、どっこいしょと言いながら古甲の横へ立った。
「この娘は泊牡丹。お嬢やんを役人連中から攫うに当たり、先行して施設へ潜り込ませてた身内ですよ」
彼の説明に、私の元ケア担当とやらはうんうんと頷いてみせる。
自分を囲む裏側で、果たしてどれほど策謀が巡らされているのか。また、それ程の価値が自分なんかにあるものなのか。色々と新しい疑問は浮かんでくるが、どれも今更のことだと振り払い、残った1つだけを口から吐いた。
「泊……古甲というのは偽名?」
「嘘ついててごめんねぇ。紛れ込むのに名前を隠すのは大事ってだけで、瑞穂ちゃんを騙そうなんて思ってなかったんだよぉ?」
「べ、別に責めてるわけじゃ――」
「そ? それならよかった。あ、今度からウチのことは、牡丹って呼んでくれればいいし」
先回りするかのようにそう言った古甲改め牡丹は、こちらへ向けて軽く腰を折ると、ケア担当という仕事をしていた時と変わらない、優しげな笑みを向けてくる。
ただ、そこには昨日と異なる物も見えたが。
「……もしかして、あなたも妖怪、だったりする?」
ピシリ、と。一瞬で硬直した彼女の笑顔には、斜めに亀裂が走ったようにさえ思えた。
「ん゛ん゛ん゛ッ!? な、なななな何々どしたのかな急にぃ? 妖怪なんて、空想の世界の生物、でしょぉ?」
半身捻りながら大きく距離をとる牡丹。やはり妖怪と言うのは、その正体を悟られてはならないのだろうか。
しかし残念ながら、私の視線から逃れられるほどこの部屋は広くなく、忙しなく動く獣耳も、山なりに膨らむ2本の尻尾も、その特徴的なサビ柄模様まで私にはクッキリ見えていた。ふっくらフサフサなととさんとは、見た目から異なる毛並みだが、これはこれで悪くない。とても悪くない。
私がジッと観察していることに、彼女は尻尾を隠すようにしながら表情を引き攣らせるが、まさか襖の奥から背中を突かれるとは思わなかったことだろう。
「その話なら、もう今朝したから」
掛け布団を引きずりながら現れた半眼と三角の耳に、牡丹は余程驚いたらしい。その場でビョッと真っすぐに跳び上がった。
「ちょお!? と、とと姉!? アンタ何普通に化け術解いてんのさ!? 瑞穂ちゃんは普通の人間で――ふぎゃァいッ!?」
我ながら、水の流れるような動きだったと思う。
僅かでも視線が離れればこちらのものと、スルスル牡丹へ歩み寄り、茶色と黄色と黒が不思議に入り混じる2本の尻尾を、それぞれしっかり掴まえていた。
「毛足が短いからかしら。ととさんとは手触りがまた違うけれど――うん。あなたも、いい毛並みを持っているわね」
「んにゃああああ!? ま、待って待って離して!? それから普通に分析せんで!? てか、なんで見えてんの!? なんで触れんの!?」
鳥肌が立つ、というのはきっとこういう感じなのだろう。ぞわぞわと流れていく毛並みをうっとり眺めていれば、震える尻尾の先端にぺぺぺぺぺとフワフワなビンタを貰い、手の中から逃げられてしまった。
これでも大いに、それはそれは大いに褒めたつもりなのだが、持ち主としてはそれどころでないらしい。部屋の対角へ転がるように逃げた牡丹は、両の尻尾を股の内から通して胸に抱き、慌てた様子でぺろりぺろりと舐めながら、怯えた目をこちらへ向けているではないか。
ちょっと面白い。微かにでもそう思ってしまった私は、もしかしたら性格が悪いのかもしれない。
「お嬢やん、今度はどの辺から見え始めてました?」
「え?」
突然投げかけられた質問に振り返れば、声の主はちゃぶ台の向こうに座ったまま、両手を袂に隠したいつもの格好で、同じくいつも通りのヘラリとした表情をこちらへ向けている。
ただ、何となくの問いかけ、と言う風にも思えず、私は言われたままに頭を捻った。
「えっと……名前を聞いた辺りからぼんやりと、かしら」
「ってこたぁ、その名前って部分に、お嬢やんが何らか特別足りうる切っ掛けがあるのかも知れませんねぇ」
ボツさんは何かを掴んだようだが、切っ掛けとだけ言われた所でピンと来るはずもない。
そもそも、ただ名前を知っただけで何かが変化すると言うのは、どうにも不自然な気がする。
しかし、何故を投げ返そうとしたところで、より切迫した声に、私の疑問は押しのけられた。
「ちょいオッサン! 1人で納得してないで、ウチにも説明してよぉ! 結構死活問題なんだぞコレぇ!」
「ったく、子猫ちゃんは相変わらず喧しいなァ。ちったぁ落ち着きなさいって」
「誰が子猫か! もう20年は生きてるっての!」
袂にしがみ付いた所を軽くあしらわれ、それが不服だったのか、牡丹はシャーと威嚇の声を出す。
なるほど子猫、あるいは猫。そして二股に分かれた尻尾と来れば。
「もしかして、猫又?」
「正解。妖怪としては、私と一緒でまだまだ若いけどね」
いつの間に隣へ腰を下ろしていたのか、チビチビと牛乳を啜るととさんは、私の推理に対して小さく両手で丸を作ってくれる。
先日思うままにモフりまくったこともあり、私はどう謝ればいいものかと悩んでいたのだが、彼女は小さな見た目にそぐわず大人だったらしい。困惑気味な私の様子を見るや、少し呆れたようにも見える微笑を浮かべ、太い尻尾でトントンと背中を叩いてくれた。
気持ちが少し暖かくなる。性懲りもなく、尻尾を全身で掴まえてモフりたくなるくらいには。
ただ、伸ばしそうになる手を必死に堪えていれば、こちらを見ていた牡丹はどこか素っ頓狂な声を出した。
「あ、あれれぇ? これもしかして、騒いでるウチの方が本気でおかしい感じの奴?」
「さぁっすが、子猫ちゃんは聡いねぇ。んじゃ、ご理解頂けたところで、仕事の報告を最後までやりきっちまって頂戴」
さぁどうぞ、と掌を差し出したボツさんに、牡丹は薄緑に輝く吊り目が、三日月形にスっと細めまる。
多分、この悪寒は本能だろう。口元に笑みを浮かべた彼女は、2本の尻尾をゆーらゆーらと揺すりながら、彼の真正面にしゃがみ込むと、骨張って見える大きな掌を、支えるように両手で掴まえた。
「ふふん。ぼーつーさーん? もーっぺん子猫って呼んでくれたらぁ、ウチあーんまり嬉しくて、このおてて引っこ抜いちゃうかも」
初めて聞いた、妖怪らしく思える言葉。その声は思った以上に明るく、また冷たかった。
私に背を向ける形であり、牡丹がどんな顔でそう迫ったかは分からない。ただ、口の端を大きく引き攣らせたボツさんが小刻みに頷きまくっているあたり、単なる脅し文句という訳でもないのだろう。
胡散臭く見える着流し男に、誠意があるかはともかくとして、短毛サビ柄の猫又女性は一応納得したらしい。彼の手を解放すると、ブツブツ言いながらこちらを振り返った。
「ったく、いつまでも子ども扱いしてぇ――はい、瑞穂ちゃん」
そう言ってやや雑に差し出されたのは、中々に大きな紙袋だった。バイクの後ろに括られていたからか、格子状にシワが寄っていて、あまり綺麗には見えない。
ただ、その中身を覗けば、自分宛という意味がよく分かった。
「これ、私の……?」
猫型ちりめんの根付キーホルダーがついた、まだ新しいスクールバッグ。ようやく馴染んできた黒いブレザーとチェック柄のスカート。その他小物類も含め、禁域災害に巻き込まれたあの日、自分が身につけていた物たちで間違いない。
「一体、どこにあったの?」
「施設の保管庫だよ。禁域災害対策本部の連中が回収してたみたいでさ。とりあえず、それっぽいの一揃え持ってきたんだけど、足りる?」
「え、ええ、ありがとう」
生きていただけで喜ぶべき状態だったとはいえ、いつまでも奇跡だけを喜んではいられず、むしろ生きていたからこそ、後々必要となる面倒な手続きについて考えねばならないのだ。
その点、学生証やスマホも無事だったことは非常に喜ばしい。
ただ、スマホのバッテリーが空になるには十分すぎる時間が過ぎたらしく、手にしたソレは画面は黒を映すのみ。ならばと、学生鞄から充電器を引っ張り出そうとして、紙袋をガサガサ揺らしていれば。
「お嬢やん、ちょいとお待ちを。こいつは強制とか命令じゃなく、あくまでお願いなんですが――」
視界の片隅に現れた掌に、鞄を漁る手を止めて顔を上げる。
ボツさんにとって、言いにくい、と感じる事なのだろうか。彼は伸ばしていた手を膝の上へ戻すと、何やら非常に申し訳なさそうな様子で、口を小さくへの字に曲げた。
「今時ぁソイツがお大事なのは重々承知してます。ただ、事の一切に片が付くまで、どうか火を入れないよう頼めやしませんかね」
「何かあるの?」
「何かあるかも知れないし、何もないかもしれない。未来を絶対と言いきれないからこそ、リスクは減らしといたほうが無難って奴でね。少なくとも、お嬢やんがただの女子高生に戻れるまでは」
手元に視線を落とす。
施設の人間には呼び水や生贄と呼ばれていた以上、自分の安否が家族や友人に伝わっているとは思えない。だからこそ、本当ならすぐにでも連絡を入れるべきなのだろう。
だが、私は小さく息を吐いてから、物言わぬ黒い板切れと化しているスマホを、静かに紙袋の底へ戻した。
「……わかったわ」
多くの人に心配をかけることにおいて、この選択が正しいとは思えない。
それでも、ボツさんがリスクだというのなら、それは避けるべきなのだろう。ただでさえ、今の私は流れに身を委ねるしかない立場なのだから。
あるいは、単なる思考放棄だったかもしれない。私が素直に応じたことに対し、ボツさんはどこかホッとした様子だったが。
「ご協力に感謝致します。そんでは、話のキリもいいところですし、ボチボチ始めましょうかね」




