第8話 2K風呂トイレ別格安賃貸毛玉付き(前編)
ほんのり景色が明るくなる夜明け前。
私の体を揺すっていた小さな車は、高速道路から田んぼに囲まれた田舎道へ下り、僅かな建物が集まったような場所へ入ると、細路地の奥でようやく止まった。
「やーれやれ、ようやっと帰ってこれましたねぇ。いつつ、肩首腰にキてるなァ」
見た目以上にジジ臭いセリフを吐きながら、体を捻り肩を回すボツさんに続いて車を降りる。
足元は砂利の駐車場。その奥に建っていたのは、外壁の煤けた古いアパートだった。
「……ここに住んでるの?」
「半年くらいはここで寝起きしてますが、基本根無し草なんでね。常に仮住まいみたいなモンですよ」
半年とは随分短い気がする。自称誘拐犯、もとい禁域異界の専門家という仕事は、各地を転々としなければならないのだろうか。
ひょこひょこ歩く着流しと、子どものように小さく見える背中を追って、外に飛び出している急な階段を上る。波板が外側に張られた手すりを掴むのは、何となくやめておいた。
軋む外廊下を奥へ進めば、見えてくるのは郵便受けがテープで塞がれた扉ばかり。どうやら、住んでいる人はほとんどいないらしい。
ようやく2人が足を止めたのは、扉を数えて5つ目。外廊下の行き止まりが迫る最奥の部屋だった。
「あ、ちょいと離れてくれます? 玄関の建付けが悪いもん、でし、てッ!」
ボツさんはそう言うと、丸いドアノブを両手で掴み、ついでに片足を壁に当てて、木目調の扉を力一杯引っ張った。
ガンガンガン、と金槌で叩くような音が鳴ること数回。扉は少しずつ動き、最後の1回でようやく大きく口を開ける。
「ふぃー……ささ、どうぞどうぞ。ちょいと散らかってますが」
軽く額を拭った着流し男は、にこやかにこちらを招いてくる。一方の私はと言えば、微妙な表情を返すことしかできなかった。
(この扉、私の力で開くの? というか、部屋の中は大丈夫なのかしら)
たとえ鍵がかかっていなくても、一度入れば出られなくなるのでは、という危機感。
そして建物の古ぼけた外見も相まって、内側も耐えられない程に古く汚く、下手をすればゴミ屋敷のようになっているのでは、という不安。
多分、一緒に居るのがボツさん1人だけだったなら、私はもっと入ることを躊躇ったと思う。ととさんが先にちょこちょこと玄関扉を潜ったのを見て、それならとこっそり覚悟を決めたのだから。
「お邪魔、します……」
そっと玄関へ足を踏み入れる。窓から差し込む光だけで、キッチンの置かれた板の間の部屋は薄暗かったが、少なくとも足の踏み場がないとか、靴を脱ぐのを躊躇うような汚さは見当たらず、ホッと胸を撫でおろす。
キィキィと軋む床を歩いて奥へ。部屋を隔てる古そうなガラス戸を越えれば、次に現れたのはちゃぶ台の置かれた和室だった。
どうやら生活の中心になっているらしく、先の板の間よりは雑多に物が置かれているように見える。ただ、そこに想像していたような不潔さは全く感じない。それどころか、不思議と落ち着けそうな雰囲気に、私の口からはポロリと本音が零れ落ちた。
「思ったより、普通なのね」
「怖いものみたさで聞いてみたいんですが、一体どんな想像してたんです?」
後ろからぬっと覗いてくる狐顔から、全力で視線を反らす。元々動きの悪い表情筋が緊張しているのがよくわかった。
正直に言えるはずがないだろう。なんとなく、汚部屋に住んでいそうだと思ったなんて。
「なんでもないわ。それより、これからどうするんですか?」
我ながら、話題の逸らし方が露骨過ぎるとは思ったが、ボツさんは特に気にした様子もなく、顎を撫でながら、ふむ、と小さく頷いた。
「んでは、軽ぅーく説明しときましょうかね。とと、悪いんだけども、茶かなんか淹れてくれるかい。俺の分は、できれば濃いめで」
「はーい」
窓を開けて回っていたととさんは、文句の1つも言わずにパタパタと板の間へ戻っていく。
部屋が綺麗なのは、彼女のおかげなのではないか。また失礼にもそんなことを考えていれば、ボツさんはどうぞと私に座布団を勧め、自身はちゃぶ台を挟んで真向いの位置へどっかと腰を下ろした。
何かの癖なのか。彼はコン、と火の入らないキセルで机を叩く。
「さて、解決の道筋についてですが、車ン中で申し上げた通り、禁域存在ってのは人間世界の理に溺れてる連中だ。故に、連中を元居た世界へ返しちまうこと、いわゆるオクリができりゃあ、手っ取り早く片がつく上苦労も小くて済む」
「できれば、ということは、何か問題があるの?」
「へぇ。これがなんとも、無形に類する連中ってのは、元いた世界がさっぱり分からんのですよ。例えるなら、名前も住所も書かれてない失せ物を、持ち主に返そうとしてる感じ、とでも申しあげりゃよろしいか」
至極厄介であるらしく、ボツさんは口をへの字に曲げ、ポリポリと耳の裏を掻く。
元居た世界だとか送り返すだとか言われても、私にはそれがどういう理屈に基づいているのかはサッパリ分からない。ただ、彼の言った例えからイメージを導くとすれば。
「余程の奇跡が起きないと無理、ってこと」
「まさしく仰る通り――てな訳でだ。ちと荒っぽくなりますが、今回は封殺って方法を取ろうかと考えてます」
「それは?」
またも言葉からは想像のつかない方法に、私は首を傾げれば、コンとキセルが机にぶつかって鳴る。
「ザックリに言うなれば、何世紀って単位で封印しちまおうって話です。そうすりゃ、少なくとも俺らが死ぬまでは確実に安泰、でしょう?」
「封印……殺してしまうわけじゃないのね」
「物騒なこと仰いますねぇ。まぁ、お気持ちは分からんでもないですが」
ムクガミが殺せる存在かどうかはともかく、敢えて封印という中途半端な方法を取る理由とは何か。
それが気になって零れた言葉だったが、どうやらそうして欲しいという風に捉えられたらしい。クックと喉の奥で笑ったボツさんは、しかしちゃぶ台へ肘をついて口元を隠すと、ただでさえ細い糸目を更に絞ってこちらを見据えた。
「お役所連中がやってたように、滅却って方法もあるにはありますよ。災害規模の小さい不完全な顕現なら、ほっとくだけで理に押しつぶされますからね。被害を最小に抑える方法っちゃあそうだ」
ただし、と骨ばってゴツゴツした指がピンと立ち上がる。
「今回みたいな理に一定抗えるような禁域存在相手だと、時間切れ前に必ず純粋な力比べになっちまう。それも神に近しい何者かを消し去ろうとするんだ、分が悪いなんてもんじゃない。挙句は人死の数だけ、奴さんは傷を癒し力をつけて永らえると来た」
少なくとも俺ァゴメンですね、なんてヘラリとそう付け加え、彼は気怠げに姿勢を崩した。
知らず知らず、汗ばんだ手を握り込む。
圧迫感と言うべきか。多分わざとなのだろう。それほどまでに、滅却という方法を取るべきではないと、無知な私へ伝える為に。
深呼吸を1つ。固まりそうになった手を解し、意識して強張った肩から力を抜きつつ、改めて彼の狐顔へ向き直る。
「封殺、だったかしら。そっちなら、問題なくできるんですか?」
「絶対と申せやしませんが、これでも自称は専門家です。自信の程はそれなりに。尤も、お嬢やんに御協力を仰げるなら、ってぇ注釈付きにはなりますが、ね」
ボツさんは合わせた袂の中へ手を隠し、穏やかな表情のまま、ジッとこちらを見つめてくる。
彼の思惑は分からない。ただ、それが善意であれ悪意であれ、ムクガミと戦う為に自分を利用しているという点は、あの施設の人間と何も変わらない気がする。
それでも、生贄、呼び水と呼ばれた時と心持ちが全く異なるのは、他に選択肢がないと分かっていながらも、こちらの遺志を確認してくれたからだろう。
ピィーと、やかんが笛を吹いた。
「私は……」
怖くない訳じゃない。逃げたい意志に打ち勝った訳でもない。
それでも唇に力を籠める。今度は、自分で選ぶ。
「何をすればいいの」
ニッとボツさんは白い歯を見せて笑った。待っていましたと言わんばかりに。
「良いご返事だ。まずは、そのお心意気に感謝しつつ――とと」
「はいはい、お待たせ。あ、決まったんだね」
待っていたかのように、デザインガラスがはめ込まれた引き戸の向こうから、湯呑を乗せたお盆を持ったととさんが現れる。
しかし、それを配るよりも先に、彼女はお盆をちゃぶ台の上へ降ろすと、ボツさんの隣へ回り込み、こちらを向いてちょんと正座をするではないか。
突然に訪れた畏まった様子に、理解の追いつかない私が固まっていれば、ボツさんもちゃぶ台の正面から横に身体をずらして、両の拳を畳へついた。
「改めてご挨拶させて頂きましょう。今より暫しの間、萬屋の鎮名、このボツと」
「その教え子、糸納石とと」
「揃いまして、あなた様の道行の伴を努めさせて頂きます」
目の前に並ぶ2つの旋毛。まるで演劇かのような口上に、私はパチクリと目を瞬かせるしかなく、数秒間は固まっていただろう。
しかも、呆然と考えていたのは、ととさんの苗字は糸納石というのか、という全く横道な内容である。おかげで、ようやくのこと我に返ってみても、何か特別な言葉など浮かぶはずもない。
「あ、はい。よろしくお願い、します?」
訳も分からぬまま、同じようにぺこりと頭を下げれば、演技派な2人はそれでよかったらしい。
一体何の儀式なのか。聞く間もないうちに、ボツさんは元通りに姿勢を崩して座りなおし、ととさんは慣れた様子で湯呑を配り始めている。
「さてさて、いい加減お疲れでしょう。封殺作戦の準備は、茶を飲んで一眠りしてからとしましょうや。お願いごとの説明については、時度時度にでも――あれ、もしもーし? お嬢やん? 聞いてらっしゃる?」
途中から、ボツさんの言葉は右から左へ抜けていた。
顔を上げた先。私の目はただ1点、ととさんを見つめる事しかできなくなっていたのだから。
「どうしたの、具合悪い?」
心配そうに覗き込んでくる、幼く見える女性の顔。ただ、それすら私の視界には半分も映っていなかったと言っていい。
震える手で指さした先。それは彼女の頭上だった。
「ととさん、頭のそれは、一体……?」
「っ!?」
穏やかな表情から一転。驚愕に顔を染めたととさんは、弾かれたように壁際まで跳び退き、両手で自身の頭を撫でつける。
「な、なな、なんのことだろ? あ、もしかして私、寝癖とかついてたりする? 恥ずかしいなぁ、あはは」
「……お嬢やん、何が見えてんです?」
何かを誤魔化すように笑う彼女に対し、ボツさんは真顔を作って声を落とす。まるで、こちらを試すかのように。
「さ、三角形の耳みたいなのと、何か太くてフワフワした……もしかして、尻尾?」
「そいつぁ、今も変わらず、そこにありますか」
「ええ。ゆらゆら、ぴょこぴょこ、動いて見える、けれど」
目がおかしくなったのでは、と本気で思った。
ついさっき。お盆を持って台所から戻ってきたととさんの身体に、そんなものは微塵も見られなかったのだから。
しかし、大仰な口上の挨拶を終えて顔を上げた時から今に至るまで、間違いなくその毛玉は私の目に映っている。それも、まるで彼女の感情を表すかのように、耳はぺたんと伏せ、尻尾は股下へ巻き込まれている始末。
見えたそのまま言葉にすれば、もう一段ととさんは驚いたようで、ビクリと肩を震わせた。
「う、嘘!? ホントに見えてるの!? なんで?」
「ふむ、鏡には映ってないとなると――くくっ、お嬢やんの特別さ加減は、俺の見立て以上なのかも知れませんねぇ」
慌てた様子でワサワサと毛を撫でるととさんに対し、ボツさんは取り乱す風もない。それどころか、ちらと部屋に置かれた姿見へ視線を流し、興味深そうに口の端を釣り上げて笑った。
多分、彼らにとっても相当奇怪なことが起こっているのだろう。想像はつくが、結局私が完全においてけぼりであることに代わりはないが。
「ごめんなさい。何が何だか……」
「え、ええっと、これは、これはね――!?」
ととさんは何か言い訳をしようとしたのだろうか。パタパタと手足を振っていたが、それをキセルをつまんだボツさんの手が制した。
「ご覧の通りですよ。俺の教え子は人と近しくも異なる妖。化け狐の末席、いわゆる気狐って奴でしてね」
「化け狐……妖怪ってこと?」
まるでスイッチが切り替わるように、ストンと納得してしまったのは、ここ数時間の不思議体験が私の中に蓄積していたからだろうか。
黒い耳に銀灰色と黒が混ざる尻尾は、なるほど狐と言われればそう見える。分かってしまえば、何故か凄く落ち着いた。
それでもなお、ととさんは物言いたげな様子だったが、結局何が出てくることもなく、最後には諦めた様に眉をハの字に曲げて笑った。
「うん。私は半分くらいだけどね。過去帳を辿れば、人間と結ばれた御先祖様も多いから。これが元々の姿だよ」
「そうなの。じゃあ、その耳と尻尾は、ホンモノ、なのよね?」
「嘘か真か。疑わしいと思われるなら、なんでも試してみればよろしい。目の前に実物が居るんですから、耳でも尻尾でも、嗅ぐなり噛むなり触れるなり」
「え゛っ」
「いいの?」
重なる私とととさんの声。
決して真偽を疑っていた訳ではないが、そう言われれば好奇心がむくむくと湧きおこってくる。
これでも、犬猫毛物には目がない。動物にあまり好かれる性質ではないため中々叶わないが、できることなら1日中モフモフしていたいくらいには。
ボツさんがそんな私の一面を知るはずはないのだが、やや食い気味な声に何かを察してくれたらしい。あの胡散臭い笑みを浮かべて、えぇえぇ、となんども頷いた。
「先生たる俺が言うんです。どうぞお好きに、気の済むまでやっちゃってください。じゃあ、俺は煙をやってから適当に休むんで、後は娘さん方でお楽しみをどうぞぉ」
先生の言う事なら仕方ない。免罪符になるかどうかは別として、少なくとも1つの言質はとった。
改めてととさんへ向き直る。すると、彼女はビクリと大きく肩を震わせ、自らを抱きしめるようにしながら半身を捻って、怯えるような上目遣いをこちらへ向けた。
「あ、あの、触るのは別にいいけど! その……い、痛くしないでね? 噛むとかつねるとか……」
(なんだろう。この可愛い生き物)
荒々しいドライビングテクを見せ、怪物相手に怯むこともなかった女性は見る影もない。
そこに居るのは、私の心臓を高鳴らせるようなモフモフを体に持つ、ひたすらに愛らしい少女だけだ。
「しないわ、そんなこと。少し触れるだけだから、嫌だったら言ってくださいね」
呼吸を乱さぬように。力を入れぬように。努めて冷静に。
「んっ」
そっと黒い耳に指を触れる。すると反射のように、ピクリと毛並みが震えた。
間違いない。本物だ。私の求めていた本物の、それも極上の毛並みである。
僅かな触感。ただそれだけなのに、頭の中で安全装置的な何かが焼き切れる音がした気がした。
今度は躊躇いなく、彼女の頭を抱き寄せるようにして、顔を近づける。
「ふかふかしてて、あったかい。本当に血が通ってる感じ。スゥ……」
「ひあっ!? か、嗅ぐのはぁ、く、くすぐったいからぁ……も、もういい? もういいよね?」
腕の中でもじもじするととさんを、逃がすまじとガッチリホールドする。
このような機会、そう何度も訪れはしない。ならば、容易く手放してしまう方が、毛物愛好家としては失礼というもの。
「ダメ。尻尾がまだ」
「まだって何!? ほ、ほら、奥の部屋にお布団敷いてあるから、もうそろそろ休も――ぁひんッ!?」
「あぁ、毛物に包まれるこの感じ……至福。ねぇ、このまま寝ていいかしら。寝床も一緒でいいから」
「ふえぇっ!? も、もう許し――助けて先生ーっ!?」
木霊する霞むような悲鳴。多分、私が聞いた中で最も大きなととさんの声だったと思う。
だが、抱きしめた尻尾のモフモフを前にすれば、そんなものは些細な問題に過ぎない。
結局私は、小柄な彼女を尻尾ごと抱えて、奥の間へ踏み入り、勢いそのまま布団の中へ潜り込んだのだった。




