さよなら、婚約者様。
────まあ。ここはどこかしら。
目を覚ますと、知らない天井が映り込んだ。
慈悲深く見下ろす女神様を見つめながら、アデイラは必死に記憶を辿るが、うまく状況を掴めない。
それに、全身が重くて、鉛のようだ。何事だろうか。
身体を起こそうとするも、身動ぎ一つできなかった。
「アデイラ嬢!」
唐突に、大声で呼ばれてびくっと肩が揺れる。
泣きそうな顔で駆け寄ってくるのは、第二王子殿下。ちょっと待ってほしい。淑女が寝ているんですけど。
あれよあれよという間にアデイラは医務官たちに囲まれ、ものすごい勢いで診察を受けた。
そして、自分が夜会で刺されたこと、王宮にいること、専門の医療チームがあること、などを説明された。
「覚えてるかな」
「ええと……なんとなく、ですが。どれくらい眠っていましたか?」
「ふた月だね」
「…………」
それは、身体が重いはずである。お腹の傷は治りかけなのか、そこまでひどい痛みではないが。
「王甥殿下を庇ったのですか? わたくしが?」
それより気になるのは、刺された経緯だ。
なぜかアデイラは、王甥殿下を庇ったのだという。犯人は、隣国の王女を狙っていたのに。
しきりに首を捻るアデイラに、第二王子と医務官たちに緊張が走る。
「あー……アデイラ嬢。覚えている限りでいいから、きみのことを教えてくれるかい」
「え? はい。ええと、デミトリアス公爵家の娘で、十七歳です。両親と兄がいます。夜会では……あ、殿下とダンスの約束をしましたわ」
「……両親や兄、婚約者との関係性は?」
「両親や兄とは、あまり会いません。両親はわたくしに興味がありませんし、兄には嫌われていますので。婚約者とは……婚約者?」
しばし、沈黙が落ちる。考え込むアデイラは、以前のような険も、不安定さもない。
代わりに、
「婚約者は、いないと思いますが……」
最愛だったはずの婚約者の記憶を、一切失っていた。
あらゆることの説明を受けたアデイラは、王甥と婚約していたことや、彼に固執していた自分に驚いた。
とはいえ、納得もしたが。家族と離れられる上、好みの見目の男性と婚約できたら、舞い上がってしまうだろうと思う。
そのあたりのことは覚えていない、というのも理解した。
隣国の王女など、顔も知らない。話を聞く限り、婚約者にまとわりつく嫌な女としか思わないが。
部分的な記憶喪失、というのが、アデイラに下された診断だった。
自分でも、何を忘れていて何を覚えているのかわからない。
けれど、不思議とすっきりとした心地で、気分は悪くない。
両親と兄とも会ったが、体裁のために心配する振りをしているのだな、としか思わなかった。
よそ行きの笑顔で応対するアデイラに、特に兄がひどく衝撃を受けていたが、よくわからないので気づかなかった振りをした。
「王甥殿下との婚約はどうしたい? 陛下は、希望を聞いてくださるそうだ」
久しぶりに顔を見た父は、何だか以前よりずっと老け込んだようだった。
母の泣き腫らした顔も、兄の蒼白な顔色も、舞台俳優のようだと感心する。
「どちらでも。家門の益になる方で」
「そのようなことは考えなくてもよい! 王甥殿下は、ずっと不誠実だったと聞いた。許せないなら、許さなくて構わない」
「…………」
温度差がすごい。
困ってしまったアデイラが視線を向けると、第二王子が間に入って後日の話し合いということでまとまった。
正直、覚えていないので、希望も何もないのだ。
どんな人かは話には聞いたから、なんとなく嫌だなとは思うが、婚約解消の理由には弱すぎる気がする。
何とも思っていないからこそ、家門の益になる方で構わないのだけれど。
その後、王甥という人も訪ねてきた。なるほど好みだな、とまじまじ眺めてしまったが。
「本当に申し訳なかった。王女殿下とは、本当に何もないんだ。許されるなら、きみとの婚約を続けたい」
「…………はあ」
「もう一度好きになってくれとは言わない。ただ、これからは誠実に向き合いたいと思っている」
「そうなのですね……」
ものすごい他人事のような返事しかできず、会話も続かなかったので、こちらもまた後日ということになった。
少し頭痛がする。軽くため息をつくと、まめまめしい第二王子はすぐに薬草茶を出してくれた。
「…………わたくし、あの方が好きだったのですね」
「そうだね。そういう風に、見えていたね」
あまり相性がいいとは思えない。
顔はいいが、罪悪感と後悔と、打算しか窺えなかった。
「臣籍降下したら、爵位はどうなります?」
「彼らは子爵かなあ。隣国との関係にも影響が及んだからね、さすがにこれ以上は難しいと思う」
「でしたら、白紙一択かと。婚約継続を望んでいるのは、公爵家の後ろ盾欲しさでしょう」
「……そうだね」
公爵令嬢の嫁ぎ先が子爵家など、分不相応が過ぎる。
王族でなくなった訳あり王族が、しかも下位貴族の爵位しか与えられない者が、娶っていい身分ではない。
あっさりと結論を出して、家族宛の手紙を書く。できれば、家族との話し合いは文字で終わりたかった。
さよなら、婚約者様。あなたも忘れてくださっていい。




