その時には
ひっそりと、アデイラは持ち物を整理し始めた。
どこか遠くへ行くことができればいいが、高位貴族の令嬢としての責務を投げ出すわけにはいかない。
だから、これは身辺整理じゃない。嫁入り前の整理整頓だ。
あと一年もすれば、アデイラは王弟宮の離れでクロードとの婚姻生活が始まる。これは、その準備だ。
二度と着ないドレスは売り、宝石は使用人たちに分けた。
小物は欲しがる令嬢には譲り、余れば売り払う。結構な貯蓄ができたが、それらは兄名義にした。
思えば、十二歳で婚約してからというもの、五年も彼ばかりを一心に見つめていた。
今はもう、まっすぐ目を見ることすらできないのに。
「なあ」
不意に手首を掴まれて、思考に揺蕩っていた意識が現実に戻ってくる。
手を掴んだのはクロードで、そういえば久しぶりに話すなと、ぽつり感想を抱いた。
久しぶりの夜会。いつもなら、クロードはすでに別行動しているのに。
手首を掴まえて、彼はほんの少し、狼狽えたようだった。
「…………痩せすぎじゃないか」
「嫁入り前の淑女の努力ですわ」
「最近来ないと、母が案じている」
「まあ。近々、お手紙をお送りしますわね」
「……王宮にも、来ないだろう」
「人脈作りに勤しんでいますの」
離してくれないだろうか。掴まれたままの手首をさりげなく引いても、なぜか力は緩まない。
「あの……?」
ぐいぐいと掴む力が強くなり、不可解さにアデイラは首を傾げた。少し痛い。
以前は、アデイラが身を寄せると、避けていたのは彼の方だ。
想い人がいるのに、なぜ離さないのか。意味がわからない。
「お離しください、クロード殿下」
唐突に、長い腕が二人の間に割り入ってきた。
聞き慣れた、でも、助けてくれるはずはない人の声。
目を丸くして見上げると、険しい表情の兄がクロードの手を無理やり引き剥がした。
くっきりと指の跡がついた手首を見て、さらに眉尻を吊り上げる。
「なるほど? 王甥殿下は、公爵令嬢たる我が妹に怪我を負わせたいらしい」
「そんなつもりでは……すまない」
「何の用でしょうか。話なら私が聞きます」
兄の後ろにいた第二王子が、ちょいちょいとアデイラを手招く。
素直に近づくと、手首を取られ診察された。彼は王子だが、医学にも通じているのだ。
「骨に異常はない。だが、鬱血しているし、擦れてしまっているから、冷やして薬を塗ろう」
「いえ、そんな大袈裟なものでは」
「アデイラ嬢。きみは今、どうやら通常の判断ができていないようだ。来なさい」
通常の判断? できていない? ……そうだろうか。
曖昧に首を傾げるアデイラに、第二王子はさらに眉間の皺を深くした。
「アデイラ嬢、食事は……」
第二王子が何かを言いかけた時。ざわりと空気が大きく揺れ、その違和感に視線が集まる。
「クロード!」
駆け寄ってきたのは、隣国の王女。青褪める彼女の後ろから、着崩れた正装の男性が走ってくる。
その手に、鈍色が光った。
王女を抱き庇うクロード、第二王子の前に立ち塞がる兄。
何を考えるより早く、アデイラはクロードの前に躍り出た。
刺すような、押し込むような熱。途端に目と耳の機能が低下したように、周囲が遠ざかった。
ぎらついた目をした男のナイフを持つ手を、両手でしっかり掴む。意外とあたたかい、なんて考えた。
「アデイラ!!」
誰かの声が呼んでいる。耳慣れた声が、名を呼ぶのを聞くのは久しぶり。
全身から力が抜け、崩れ落ちた身体を支える腕は、誰のものだろう。
「……っ、殿下」
「アデイラ! アデイラ!」
違う。あなたじゃない。
痛みと熱と動揺の衝動そのままに、苛立ちが湧き上がる。
「第二、おうじ、殿下」
婚約して五年も経つのに、名呼びすら許してはくれない人ではない。
荒い息のアデイラは、なんとか瞼をこじ開け、目の前に第二王子を捉えた。ほっと、笑みがこぼれる。
「アデイラ嬢、気をしっかり持ちなさい。私が助けるから」
「でんか……つ、ぎは」
「アデイラ嬢……?」
「きっと、踊って、くださ、い、ませ」
アデイラは、ダンスが好きだ。
昔からずっと、ずっと好きだった。兄と飽きることなく何時間も踊った。
だから本当は、第二王子が誘ってくれて嬉しかった。
婚約者に相手にされない女と嘲笑せず、寂しかろうと下卑た下心でもなく、目を逸らす手段として誘ってくれたことが。
────もし生き延びたら、ダンスがしたい。
アデイラの婚約者は、ほんの少し身体が触れ合うことすら厭うようだから。
アデイラの兄は、いつからか練習にすら付き合ってはくれなくなったから。
もう何年も、何年も、大好きなダンスを踊れていない。
途中で力を失った手を、柔らかく取る人がある。
もう目を開けてはいられないけれど、それがあの時と同じぬくもりであることは、なぜか理解できた。
「必ず」
ああ。あなたがそうおっしゃるなら、きっと叶う。
もしも、間違えて生きてしまった時には。




