第76話「メイドの憂鬱、あるいは夜這い」
【Side: Anna】
私の名前はアンナ。ローゼン公爵家が誇る、氷のように冷徹で(時に奇行に走る)美しき次期当主、エリザベートお嬢様の専属メイドである。 メイドの鉄則は、いかなる時も無表情を貫くこと。 主人がどれほど理解不能な行動をとろうとも、動じてはならない。
だが、最近の私は、エプロンのポケットに常備している特濃胃薬の消費ペースが、かつてないほどに加速しているのを感じていた。
深夜。女子寮の最上階。 私は、お嬢様の私室と、隣室(ミア様のお部屋)を繋ぐコネクティングドアの前で、静かにため息をついた。
「……今夜もですか、お嬢様」
時刻は丑三つ時。 扉の向こうからは、今日も今日とて、二人の熱い(?)声が漏れ聞こえてくる。
『だから! なんでこのフラグを折るのに、私が腕立て伏せを百回もやらなきゃいけないのよ!』
『基礎体力が足りていないからです! もし強制力で空からタライが落ちてきたらどうするんですか! 首の筋肉(胸鎖乳突筋)を鍛えて耐えるしかないでしょう!』
『タライなんて落ちてこないわよ! 私は検察官なの! 筋肉じゃなくて法で戦いたいの!』
『却下です! さあ、あと二十回! 終わるまでプロテインは預かっておきます!』
(……一体、何と戦っておいでなのですか)
私は扉に背を向け、虚空を見つめた。 あの『聖女選定の儀』から数週間。 お嬢様とミア様は、かつての(お嬢様の一方的な)敵対関係が嘘のように、奇妙な連帯感で結ばれるようになっていた。
日中は周囲の目を気にして「いがみ合う公爵令嬢と特待生」という茶番劇を繰り広げているが、夜になると状況は一変する。 お嬢様は、まるで吸血鬼が獲物を求めるように、毎晩毎晩、嬉々として(文句を言いながらも足取り軽く)ミア様の部屋へと「夜這い」をかけているのだ。
メイドとして、主人が他人の部屋に入り浸るのを見過ごすわけにはいかない。 しかし、相手はあの「圧倒的な健康管理能力(物理)」を持つミア様である。 現に、毎晩のように隣室で何らかの「特訓」や「謎の青汁の回し飲み」が行われているおかげで、お嬢様の健康状態は、公爵家の主治医が首を傾げるほどに絶好調なのだ。 肌は真珠のように輝き、徹夜続きでも一切クマができない。
「お二人の仲がよろしいのは結構なことですが……」
私はエプロンから胃薬の瓶を取り出し、ラムネのように二粒噛み砕いた。
「いちゃつくなら、もう少し静かに、そしてロマンチックにやっていただきたいものです」
漏れ聞こえてくるのが「愛の語らい」ではなく、「プロテインの配合比率」や「もし魔王が蘇った際の物理的な制圧方法」についての激しい口論なのだから、ロマンもへったくれもない。 しかも、お互いがお互いを過保護に守ろうとするあまり、意見が全く噛み合っていない。
『私が魔法で遠距離から消し飛ばすから、貴女は後ろに下がっていなさい!』
『ダメです! お姉様の魔力回路を温存するために、私が物理で殴り倒します!』
『聖女が物理で殴るな!』
『筋肉は裏切りません!』
(……ああ、胃が痛い)
あの理知的で冷徹だったお嬢様が、完全にミア様のペース(脳筋)に巻き込まれている。 だが、その声は、以前の「孤高の悪役」を気取っていた頃の、どこか悲壮感の漂う声とは全く違っていた。 文句を言いながらも、確実に生気に満ち溢れているのだ。
「……まあ、お嬢様が楽しそうなので、良しとしましょうか」
私は、今日も平和(?)に更けていく夜の廊下で、もう一粒、胃薬を口に放り込んだ。 不器用すぎる二人の夜会は、朝まで終わる気配がなかった。
すれ違いが解けた後も、ミアの「過剰介護(物理)」は止まりません!
深夜、こっそりと隣室へ「夜這い」をかけるエリザベートですが、そこで行われているのは愛の語らいではなく「首の筋肉(胸鎖乳突筋)の筋トレ」と「プロテインの配合」を巡るガチの口論でした。
「魔法で戦いたい!」「筋肉は裏切りません!」
扉の向こうで繰り広げられる脳筋ナースと元検察官の謎の戦いに、アンナさんの胃薬消費ペースも限界突破です。いちゃつくなら、もう少しロマンチックにお願いします!




