第36話「診断不能」
【Side: Mia】
私の視界は、涙と汗で滲んでいた。 手のひらから伝わるのは、エリザベート様の華奢な骨の感触と、弱々しい心拍の反動だけ。
「30! 人工呼吸!」
私は彼女の顎を持ち上げ、その唇に自分の唇を重ねた。 口移しで息を吹き込む。 鉄錆と、ミントのような奇妙な甘い味がする。 血の味ではない。これは……? いや、今は成分分析をしている場合じゃない。酸素を送らなければ。
(反応がない……!)
これだけ強く圧迫しているのに、彼女はピクリとも動かない。 苦悶の表情すら浮かべない。 完全に意識を失っているのか、それとも神経系が遮断されているのか。
(落ち着いて。状況を整理して)
私はCPRを続けながら、必死に観察を行った。
所見1:大量の吐血。 彼女の服と地面を染める赤い液体。 量は推定500ml以上。出血性ショックを起こしてもおかしくない量だ。 しかし、どこからの出血なのか? 外傷はない。服は汚れているが、破れてはいない。 内臓破裂? 胃潰瘍の穿孔? あるいは、食道静脈瘤の破裂?
所見2:『花』がない。 ここが重要だ。 『真実版』の設定では、人柱であるエリザベート様が限界を迎えて血を吐いた時、その血から「魔界の彼岸花」が咲くという演出がある。 しかし、地面の血糊を見ても、花が咲く気配はない。 ただの、赤い液体だ。
(じゃあ、『真実版』の症状じゃない?)
所見3:魔力の残滓。 先ほど彼女が放った極大魔法。 あれは彼女のキャパシティを超えていたはずだ。 『無印』の設定にある「魔力回路のオーバーロードによる全身崩壊」。 その初期症状として、魔力が血液に変換されて排出されるという記述があった気がする。
(だとしたら……これは『無印』の自滅ルート!?)
思考が揺れる。 魔女の人格に乗っ取られた結果の自滅なのか、それとも人柱としての限界なのか。 診断がつかない。 原因が分からなければ、正しい治療法も分からない。
「くっ……!」
私は焦りで唇を噛んだ。 回復魔法は掛け続けている。 外傷ならとっくに塞がっているはずだし、魔力枯渇なら回復しているはずだ。 なのに、彼女は目を覚まさない。 顔色は土気色のままだし、体温も下がっている気がする。 まるで、肉体そのものが「生きること」を拒否しているかのように。
(まさか……精神が死のうとしているの?)
彼女の中の「魔女」が、彼女自身の生存本能をシャットダウンさせている? あるいは、彼女自身が、罪悪感に耐えきれずに死を選ぼうとしている?
「ダメです……そんなの認めません!」
私は叫びながら、さらに魔力を注ぎ込んだ。 通常の『ヒール』では足りない。 もっと深く、魂の領域まで干渉するような、禁忌に近い高出力の治癒魔法。 聖女としての資格を焼き切る覚悟で、私はイメージした。 彼女の心臓を、私の魔力で直接鷲掴みにして、無理やり動かすイメージを。
「戻ってきなさい! エリザベート様!」
バチバチッ!
私の手元で、黄金色の光がスパークした。 聖なる雷撃。AED(自動体外式除細動器)の魔法版だ。
ドクンッ。
彼女の体が大きく跳ねた。 眉間に皺が寄り、喉の奥で「ぐぅっ」という呻き声が漏れる。
「反応あり! 自発呼吸再開!」
私は涙を拭った。 まだだ。まだ安心できない。 彼女の意識レベルはまだ戻っていないし、原因も不明のままだ。 このまま放置すれば、またすぐに心停止するかもしれない。
「誰か! 担架を! いえ、私が運びます!」
私は立ち上がろうとして、足がもつれた。 魔力を使いすぎて、視界が明滅している。 それでも、倒れるわけにはいかない。 私が倒れたら、誰が彼女を守るの? 誰がこの「診断不能」の患者を管理するの?
その時、遠くから足音が聞こえた。 複数の、慌ただしい足音。 教師たちだ。そして、その中にはクリストファー殿下の姿もある。
「ミア! 無事か!?」
殿下が私に駆け寄ってくる。 しかし、私は彼を見なかった。 私の視線は、腕の中のエリザベート様に釘付けだった。 彼女のまつ毛が、微かに震えた気がしたからだ。
(生きてる。……逃がさない)
私は、彼女の血で汚れた手を、強く握りしめた。 この温もりがある限り、私は諦めない。 たとえ神様が「彼女は死ぬ運命だ」と言っても、私がそのカルテを書き換えてやる。
「殿下、手を貸してください」
私は振り返り、鬼気迫る形相で告げた。
「エリザベート様を、直ちに『隔離』します。……彼女の命を救うために」
それは、聖女の慈愛に満ちた言葉のようでいて、その実、獲物を捕らえた狩人のような執着に満ちていた。 私の「24時間密着監視体制」は、ここから本格的に始動するのだ。
こちらは完全に「救命救急24時」のテンションになっているミア視点。
口移しの人工呼吸で「ミント風味の甘い血」に違和感を覚えつつも、トリアージ優先で華麗にスルー! さらには聖女の力(AED)を限界突破させて、見事に患者を蘇生させます。
「この手を絶対に離さない」――聖女の慈愛という名の、恐るべき執着が今、本格的に目を覚ましました。




