第29話「開演の合図」
【Side: Elizabeth】
カシャン、という乾いた音が森の静寂を切り裂いた。 私が地面に叩きつけた『魔物寄せの香』の瓶が砕け散り、そこから毒々しい紫色の煙が噴き上がる。
「……!」
甘ったるい腐臭が鼻を突き、思わずむせ返りそうになるのを私は必死に堪えた。 始まった。もう後戻りはできない。 この煙は、半径1キロメートル以内の魔物を興奮させ、血に飢えた獣に変えて呼び寄せる最悪のビーコンだ。 ゲーム『聖女と薔薇の騎士たち』屈指の鬱イベント、「迷宮の暴走」の幕開けである。
「来るな! こっちに来るなぁッ!」
私はミアを拒絶するように叫び、彼女から背を向けて走り出した。 目指すは、広場の中央にある崩れかけた祭壇──石造りの高台だ。 シナリオ通りなら、悪役令嬢はこの安全圏(高み)から、魔物に襲われるヒロインを見下ろして高笑いすることになっている。
「え、エリザベート様!? 待ってください!」
背後からミアの悲痛な声が聞こえるが、無視だ。 今ここで振り返ってしまえば、私の決意が鈍る。 彼女を助けたいと思ってしまう。 それではダメなのだ。彼女はここで絶体絶命のピンチに陥り、恐怖と絶望を味わわなければならない。 そして、その恐怖が頂点に達した時、私が「魔女」として介入することで、彼女の中に私への決定的な憎悪を植え付けるのだから。
私はもつれる足で石段を駆け上がり、祭壇の上に立った。 心臓が破裂しそうなほど脈打っている。 膝が笑っている。 怖い。正直、死ぬほど怖い。 ゲーム画面で見ていた時は「経験値稼ぎのボーナスステージ」程度にしか思っていなかったが、現実は違う。 森の奥から響いてくる、大地を揺らすような地響き。 木々をなぎ倒し、枝を踏み砕きながら迫ってくる、生理的な嫌悪感を煽る獣の臭い。 これからここに現れるのは、ポリゴンで描かれたキャラクターではない。 人間を食い殺す、本物の怪物たちなのだ。
(……冷静になれ、玲子。私には力がある。この程度の魔物、指先一つで消し炭にできる)
私は震える手で杖を握りしめ、自分に言い聞かせた。 大丈夫。私は最強の悪役令嬢。 シナリオを完璧に遂行し、そして華々しく散るために、この力を磨いてきたのだから。
「グルルルルッ……!」
「ギャアアアッ!」
森の茂みが激しく揺れ、ついに「観客」たちが姿を現した。 オーク、ゴブリン、マッドウルフ。 充血した目をぎらつかせ、口から涎を垂らした魔物の群れが、紫色の煙に吸い寄せられるように広場へとなだれ込んでくる。 その数、十、二十、三十……!
(多すぎない!? ゲームだと初期配置は5体くらいだったじゃない!)
私は内心で悲鳴を上げた。 『魔物寄せの香』の効果が、現実補正で強化されているのか? それとも、私の魔力が強すぎて、予期せぬ範囲まで呼び寄せてしまったのか? 広場はあっという間に魔物で埋め尽くされ、異形の宴会場と化した。
そして、その中心には──ミア・ゼン・シャーカンが一人、取り残されていた。
「……ッ!」
彼女は逃げていなかった。 腰のポーチから杖を抜き放ち、震える足で踏ん張り、魔物の群れと対峙している。 その背中は小さく、今にも押しつぶされそうだ。
今だ。今こそ、あのセリフを言う時だ。 私は喉の渇きを覚えながら、事前に練習した通りの「棒読み」で叫んだ。
「あ、あら! 大変ですわね! こんなにたくさんの魔物が集まってくるなんて!」
声が裏返る。 高笑いをするはずが、引きつった悲鳴のような声になってしまった。
「ど、どうしましょう! 私、怖くて足がすくんで動けませんわ!(大嘘)」
精一杯の演技。 「私は安全な場所で高みの見物を決め込む卑劣な女」というアピールだ。 さあ、ミア。私を見上げなさい。 「助けて」と叫びなさい。そして「見捨てるなんて酷い!」と私を憎みなさい!
しかし、ミアは私を見なかった。 彼女は周囲を取り囲む魔物たちを睨み据え、毅然とした声で詠唱を始めた。
「聖なる光よ、盾となりて我が身を守りたまえ──『ホーリー・フィールド』!」
彼女を中心に、半透明の光のドームが展開される。 襲いかかってきたゴブリンが、光に弾かれて悲鳴を上げて吹っ飛んだ。 素晴らしい反応速度。完璧な魔力制御。 私が鍛え上げた成果だ。……って、感心している場合じゃない!
「ギャオオオオッ!」
大型のオークが棍棒を振り上げ、結界を叩きつける。 ガギンッ! という鈍い音が響き、光のドームが激しく明滅した。 さすがにオークの一撃は重い。ミアの表情が苦痛に歪む。
(危ない!)
私は思わず杖を構えかけた。 ダメだ。まだだ。 まだ彼女は「絶望」していない。 もっと追い詰められ、死を覚悟し、助けを求める余裕すら失ったその瞬間でなければ、私の介入は「救済」になってしまう。 あくまで「獲物を横取りする魔女」として、圧倒的な恐怖と共に現れなければならないのだ。
(耐えて、ミア。あと少し……あと少しだけ!)
私は祈るように杖を握りしめた。 目の前で繰り広げられる惨劇。 増え続ける魔物。削られていく結界。 ミアの額から血が流れているのが見えた。飛んできた石片が当たったのか。 その鮮血を見た瞬間、私の理性が悲鳴を上げた。
何がシナリオだ。何が悪役だ。 私は今、大切な教え子が傷つくのを、特等席で見殺しにしようとしているだけじゃないか! 吐き気がする。自分が許せない。 早く。早く限界が来て。 そうすれば、私は大義名分を持って貴女を助けられるのに!
「うぅっ……!」
ミアが膝をついた。 結界に亀裂が入る。 そこへ、マッドウルフが牙を剥いて飛びかかろうとした。
「そこまでよッ!!」
私の口から、裂帛の気合がほとばしった。 もう限界だ。シナリオ進行度90%。残りの10%は、私の怒りで埋め合わせてやる!
ついに魔物を呼び寄せ、安全な高台から高笑い……するはずが、恐怖で声が裏返ってしまうエリザベート。
そして、自分が鍛え上げた(しごいた)ミアが、見事な結界魔法で魔物と応戦する姿に思わず感心してしまいます。
しかし、ミアが傷つく姿を見た瞬間、悪役としての理性が秒で吹き飛びました。
「そこまでよッ!!」
獲物を横取りする魔女のフリをして、ただの大切な教え子を助けたいだけの過保護なお姉様が、ついに動きます!
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