第30話「絶体絶命」
【Side: Mia】
世界が、悪意で塗りつぶされていく。 紫色の煙が視界を奪い、腐った肉の臭いが鼻を麻痺させる。 耳に届くのは、魔物たちの飢えた唸り声と、自分自身の早すぎる心臓の音だけ。
「ハァ……ハァ……ッ!」
私は杖を握りしめ、周囲を見渡した。 見渡す限り、魔物、魔物、魔物。 オーク、ゴブリン、マッドウルフ。醜悪な異形の群れが、紫色の煙に吸い寄せられるように広場を埋め尽くしていく。 その数、軽く50匹はいる。スタンピード(大暴走)だ。
(逃げ場がない……!)
これは自然発生したものじゃない。 さっきエリザベート様が割った、あの紫色の瓶。『魔物寄せの香』。 あれが、この地獄を招いたのだ。
「あ、あら! 大変ですわね! こんなにたくさんの魔物が集まってくるなんて!」
高台の方から、エリザベート様の声が聞こえた。 震えて、裏返った、奇妙なほど甲高い声。
「ど、どうしましょう! 私、怖くて足がすくんで動けませんわ!」
嘘だ。 ちらりと視線を上げると、彼女は祭壇の上からこちらを見下ろしていた。 杖を両手で握りしめ、ガタガタと震えている。 その顔色は死人のように青白く、目は限界まで見開かれている。 「高みの見物」を決め込む悪役の余裕など、どこにもない。 あるのは、自分のしでかしたことへの恐怖と、パニックだけだ。
(やっぱり……彼女は、望んでこれをやったわけじゃない!)
確信が深まる。 彼女の中の「魔女の人格」が、無理やりアイテムを使わせたのだ。 そして今、本来の優しいエリザベート様の人格が、目の前の惨劇を見て絶望している。 『動けませんわ』という言葉は、演技ではない。 恐怖と自己嫌悪で、本当に体が金縛りにあっているのだ。 あるいは、魔女の人格が彼女の体の自由を奪い、助けに行けないようにしているのかもしれない。
「グルァアアッ!」
目の前のオークが、巨大な棍棒を振り上げた。 迷っている暇はない。彼女が動けないなら、私が生き残らなければ。 ここで私が死んだら、彼女はどうなる? 「私がミアを殺した」という事実に押しつぶされ、彼女の精神は完全に崩壊するだろう。 そうすれば、彼女は完全に魔女に乗っ取られ、世界を滅ぼすラスボスになってしまう。 それだけは防がなければならない。
(私が生き残ることが、彼女を救う唯一の道!)
「聖なる光よ、盾となりて我が身を守りたまえ──『ホーリー・フィールド』!」
私は必死に杖を掲げ、全方位に防御結界を展開した。 ガギンッ! オークの棍棒が光のドームに弾かれる。 だが、休む間もなく次の魔物が襲いかかってくる。
結界の外では、醜悪な魔物たちが群がり、私の命を喰らおうと爪や牙を突き立てている。 ゴブリンの錆びた剣が、オークの丸太のような腕が、絶え間なく結界を叩く。 そのたびに衝撃が魔力を通して私の体に伝わり、神経をヤスリで削られるような痛みが走る。
ガンッ!
強烈な衝撃が走り、結界の一部が砕け散った。 防御の薄い背後から、マッドウルフが体当たりをしてきたのだ。 飛び散った魔力の残滓が頬を掠め、熱いものが流れる。血だ。
「きゃあっ!」
体勢が崩れ、膝をついてしまう。 まずい。集中力が切れた。 結界の光が急速に弱まっていく。 魔物たちが、獲物が弱ったことを察知して、一斉に殺気を膨らませる。
「グルァアアッ!」
さきほどのオークが、再び巨大な棍棒を振り上げた。 回避は間に合わない。再展開も間に合わない。 死ぬ? 私が、ここで?
(嫌だ……死にたくない……!)
前世の最期の記憶が蘇る。 冷たいベッド。動かなくなる体。涙を流す両親。 「もっと生きたかった」という無念。 転生して、元気な体をもらって、学園生活を楽しんで。 エリザベート様という、不器用で愛おしい人と出会って。 まだ、何も恩返しできていないのに。
「嫌ぁぁぁっ!!」
私は杖をかざし、最後の抵抗として目を閉じた。 棍棒が振り下ろされる風圧を感じる。 終わりだ。
──その時だった。
「そこまでよッ!!」
天空から、雷のような怒号が降り注いだ。 直後、大地が揺れるほどの轟音が広場を叩いた。
【最重要観測イベント「迷宮の暴走」──クライマックスへ】
ついに発生した「ダンジョン・パニック」。
高台から余裕の嘲笑を浮かべるはずが、震え上がって「怖くて動けませんわ!」と素で叫んでしまうエリザベート。
一方、それを聞いたミアの超解釈フィルターは「彼女は魔女の人格に体を乗っ取られかけているんだわ! 私が生き残って彼女を救わなきゃ!」と、悲劇のヒロインルートを爆走中です。
絶体絶命のピンチに、ついにあの「過保護なお姉様」が動きます!




