元とりまきその十六、妥協する (2012.2.26の活動報告より転載)
私には、理想があった。
上に兄二人、姉二人いるから、どう考えても私がリーヴィス伯爵家を継ぐことはないだろう。幼い頃からそう思っていたし、父は私を貴族に嫁がせようと考えていたようだが、母はもし私が平民となった時のため、私に庶民の生活について学ばせていたから、なんの抵抗もなくそう受け入れていた。
伯爵家令嬢として育ってきたことに、不満などない。けれど、いつしか私は、将来平民となって、貴族社会のドロドロとした確執とは関係のない世界で生きることを決めていた。そのためには、貴族ではなく、平民と結婚しなければならない。そう思い至った時、結婚するなら学者見習いや医者がいい、と思ったのだ。
通っていた図書館で見る学者見習いと、リーヴィス伯爵家に仕える医者には共通点があった。どちらも容姿をあまり気にしてはいなかった、という点。医者については、もちろん清潔にはしているけれど、流行に敏感というわけではなかった。つまりはどちらも野暮ったい。でも、私の理想は彼らだった。
しかし、それもつい先日までの話。
その後、私は図書館で高慢ちきな学者見習いと接触したことにより、予定変更。結婚相手は医者一本。恋の肉食獣と化した私は、狙いを定めて目標に襲いかか……ではなく、口説き落とす気満々――のはずだった。
(……どうしてこうなった)
予定は未定とはよくいったものだ。
不思議なもので、今、私の隣にいるのはメイフィールド侯爵ヴィンセントなのである。
確かに、夜会では彼のとりまきをしていた。それも、目立たないとりまきその十六あたり。靡かないわけでもなく、色目をつかうわけでもなく。群がる女性陣の端っこで「きゃーっ」と言っていただけだった。
彼にとって”その他大勢”と映るようそうしていたのだけれど。
(――どうしてこうなった)
正直、気分は釣りをしていて蛸でも釣りあげた気分である。
横目で蛸、こと侯爵を見やる。
今日の彼は、メイフィールド侯爵家の紋章色である白い衣に身を包み、いつも以上に輝いている。もともと端整な顔立ちをしているし、乳製品を突っ込んだ髪色も、キャラメル色の瞳も、様々な要素が相まって相乗効果を生み出した。
ふと、私の視線に気づいたのか、侯爵がこちらに顔を向けて微笑みかける。刹那、私の目には彼の背景にキラッキラしたものが散りばめられたように見えたのだが……これは医者に目を一度診て貰う必要があるだろう。
現在、私は王宮の回廊を歩いている。
貴族の婚姻は管理されており、侯爵と私の結婚の届出をするため、また王太子への挨拶――つまりは結婚の承認、そして妊娠報告をするためだ。
色々胃が痛む。まず、私がこの王宮にいること自体胃が痛む。
――王宮は、とめどなく美しかったのだ。
実は、私はあまり足を踏み入れたことがない。というか、王家の舞踏会でしか王族など見たこともない。だから、王太子のいる場所にもその付近にも近寄ったことすらない。
(あああ、埃落としたらどうしよう……っ。抜け毛落としたらどうしようっ)
いつもならしない心配をしてしまう。それも仕方ない、ということにしておこう。王宮の回廊はよく磨かれており、床は鏡のように反射しているし、壁は純白、汚れを知らない。そして至るところに意匠をこらした装飾が施されているのだから、芸術や建築に疎い私でもわかる。これは建物自体が芸術だ。間違いない。
そんなところに、私がいる。
(気後れなんてものぢゃない……!)
もう(存在していてごめんなさい!)とばかりに、消えてなくなりたい。
そんな気持ちの私とは対照に、侯爵は堂々としたものである。
……なんか悔しい。むしゃくしゃするから、抱きついたふりをして背中に『今年の残暑はすごいざんしょ』と書いた紙を貼ってやろうと思ったくらいだ。”変態”や”淫魔”と、当たり前のことを当たり前に書いた文面よりも、「え?」と思わず二度見してしまう文面の方がよっぽど印象に残ると思う。なんて完璧な作戦だろう。
妄想に満足し、現実逃避をやめると思わず溜息が出た。すると、なぜか侯爵が慌てたように立ち止まり、身体ごとこちらを向いたかと思えば私のお腹を擦りだす。
急になんの変態行為だ、と思って訝れば、彼は真剣な眼差しで矢継ぎ早に言葉を発する。
「クローディア、疲れたのか?」
「え、いえ……」
「休む? お腹の子に……クローディアに何かあったら……」
「いえ、だから……」
「そうだ、横抱きで王太子の部屋まで行こう!」
――よし、会話は諦めた。
私は即断して侯爵から視線を逸らし、先を急ぐことにした。
その進行方向、視線の先に――。
寝不足なのか、目の下にくまを拵えた、文官がいた。彼は少しふらつきながら、乱れかけた髪を掻きあげた。拍子に、琥珀色の瞳が覗く。
確かに彼の顔は少々地味めで、これといった特徴はない。薔薇のような目立つ容姿の男性陣の中にいたならば、霞草のように引き立て役になることもなく、むしろ存在感を消す蒲公英のようだ。
別に、蒲公英が花として劣っていると言いたいわけではない。私は柔らかな雰囲気を持ち、かつ快活なあの花が大好きだから。しかし、と思うのだ。花屋に並べられる薔薇や霞草と土俵が違う。同じように、文官の彼も大変私好みではあるけれど、美形で長身な男と並べばおのずと視線は目立つ方――つまり美形な顔面へと向かってしまい、従って地味な彼は視界に入ってこないという、そもそもの問題なのだ。
だが、待って欲しい。私はそんなことない。そんなことないよ、文官さん!
地味? 低い身長? 大変好物でございます! 私自身、身長はそんなに高くはないから、接吻の時も楽でいいと思います!
という口説き文句を頭の中で羅列しながら過ぎ行く文官を凝視していると、突如目の前が真っ暗になった。
「……。……なにしてるんですか」
背後に気配を感じる。それまで隣にいたはずの人物が回り込んだようだ。しかも、私の目を手で覆って。
「なにしてるんですか」
もう一度、声を低くして問う。すると、侯爵は少しの沈黙の後、こういった。
「だーれだ」
(うざっ!)と瞬時に思ったのは仕方のないことだと思う。
「そういうの、いりませんから」
冷たく切り返せば、侯爵はゆっくりと目隠ししていた手をおろした。
私は眉間に皺を寄せながら振り返る――と。
彼は、苦笑していた。わずかに愁いを瞳に滲ませて、目を細める。そんな表情を見るのは、初めてかもしれない。胸がぎゅっと締めつけられる感覚に、言葉が出てこなかった。
侯爵は言葉を紡ぐ。
「本当に君は、俺の思い通りになってくれないな」
嬉しいのか悲しいのか、声音では判断できなかった。でも、つい条件反射で私は憎まれ口をたたいてしまう。
「そういう方がいいのなら、他の女性に……」
「そうじゃない」
即座に私の言葉を遮って、侯爵は睫毛を伏せた。
「――たまに、不安になるんだ。俺だけが浮かれているからね」
(自覚あったんだ)と思うとともに、哀愁を漂わせ、珍しくも余裕のない彼の姿に私は口を噤んだ。
そも、私の理想が学者見習いや医者になったことには理由がある。
私が将来、平民となることが前提だった、ということも要因の一つだが、他にもあるのだ。
私は幼い頃から夜会に参加していた。貴族としての教育も受けていた。華々しい世界は危険と隣り合わせで、心休める場ではないことくらい、初潮を迎える歳にはわかっていた。
夜会にいる格好いい男性は、必ずといっていいほど複数の女性を侍らせていた。本命は誰? 私にはわからなかった。
多分、私は貴族の中でも性に関しては潔癖な方だろう。警戒心だってほどほどには持っている。むしろ強いほうかもしれない。それでも、人の嘘を見抜くのはお世辞にもうまいとはいえない。どこまでが本音で、どこまでがおべっかか。声を掛けてくる男性が一夜の恋を求めているのか、本気の恋を求めているのか、それすらも判断するには難しい。
ならば、と思った。
野暮ったい男性はどうだろう? 容姿は礼儀程度にしか気にせず、世辞にまで気がまわらないような鈍感なひと。きっと女性は避けるだろう。夢見る乙女は夢を見させてくれる男性に。妖艶な女性は自分とつり合う男性に。
一夜の恋に不向きで、だからといって自分から声をかけることもない男性。そんな人ならば、浮気の心配が少ないかも、と思ったし、仕事や学問に手一杯で他のことに気が向けられなくなっている時は、誰かが――例えば私が彼を支えねば、と思った。”私がいなくちゃ”と思う人。そう、想わせてくれる人。”しょうがない人ね”といって、ずっと寄り添いあうことができる人。
そんな男がよかった。
だから、侯爵は論外だ、と即断した。
言葉もなく、侯爵と二人で再び歩く。
沈黙が気まずかった。それまで侯爵と過ごしている時、会話がなくてもそう感じることはなかったのに。
話しかけようか、と思った時だった。
背後から声を掛けられる。
「ヴィンセント?」
その声に、揃って足を止め、振り返る。
「久しぶりだな」と口元を緩めたのは、侯爵と同じ年頃の青年。
濡れ羽色の髪と灰青の瞳、そして精悍な顔立ちの彼。
「カイル、久しぶり」
軽く挨拶を交わした侯爵に倣い、私もドレスをつまんで膝を折る。
――カイル。
(カイル・セドリック・ハーシェル……ハーシェル侯爵家の嫡男、だったかしら)
王家が開く夜会で見かけたことがあった。人目を惹く容姿をしていたから、やはり彼も女性から人気があったし、かつて王宮で騎士見習いをしていたというから、知り合いも多いようだ。確かに人気のあった彼であるが、彼に対して私は不快に思うことがなかった。女性関係の噂は当時婚約していた女性のことしか耳にしなかったこと、彼に心惹かれる女性は硬派な彼を遠目に見惚れていたから、そういったところに高潔さを感じたのだ。
侯爵はカイル様と会話を続けている。それはなんとも他愛ない話ばかりで、最近どうしているだとか、私が妊娠したこと、結婚することを王太子に報告にきた、という内容。
そこまではいい。――そこまではよかったのだ!!
直後、爆弾は投下された。
「セシルのところへ先に行って、結婚と妊娠の報告を済ませてきたよ」
……。…………をいっ!!
私は髪が乱れることも厭わず、侯爵へと勢いよく首を回らした。
(まてまてまて待たれーい!)
まさか、と思う。まさかこやつは忘れてしまったのではあるまいか。――カイル様の元婚約者が、現セシル様の婚約者であるということを!
冷や汗が背筋を伝った。恐る恐るカイル様を横目で窺い見る。
が、予想外にも、彼はにこやかに「そうか」と応じていた。ほっと胸を撫で下ろした……のも束の間。
「出された菓子がおいしかったよ」
……暗雲立ち込める気配を感じたのは私だけだろうか?
(いやいや、落ち着け。落ち着くのよ、クローディア。確かに爆弾は投下されたけどね? まだ爆弾は爆発していないじゃない。そう、不発弾だったのよ)
一人頷いている中、やはり侯爵とカイル様の会話は続行していた。
「菓子、か。エステルの手作りだっただろう?」
確信を持って問うのはカイル様。
「よくわかったね。……て、そういえば君の元婚約者だったな」
はい、爆弾ドン!
ついに爆発炎上しましたー! と思ったけれど。カイル様はまだ笑んだ表情を崩してはいなかった。
カイル様の心が広いのか、それとも婚約はカイル様から破棄したと聞いているから、未練はさらさらないということなのか。
(……わからない。カイル様の表情からはなにも読み取れない)
古文書の解読よりも難しい気がした。
ああ、もうこの場から去りたい、と思った私は侯爵の袖を引こうと思った。言外に「もう行きましょう。自爆する前に!!」と伝えたかったのだ。
だがしかし。侯爵の袖に私の指が届くまで、あと小石一つ分、というところで。
「……元気だったか?」
カイル様が艶やかな髪を揺らして首を傾げた。
侯爵はすぐに誰のことか判じられなかったのだろう。私もだけど。ゆえに、侯爵はこう答えたのだ。
「ああ、セシルも奥方も元気だったよ。惚気た二人に中てられて――」
瞬時に漂う絶対零度の空気。重たい。空気が重たい。
体感温度では寒さを感じないのに、背筋が強張るような感覚がするのはなぜ?
ゆっくりゆっくりと発生源――カイル様へと視線をやれば。
彼は笑みをそのままに、けれど氷のような瞳は射殺さんばかりの殺意を宿らせて囁いた。
「――俺にも、春が早く来るといいんだが」
――時間差攻撃でしたかぁぁぁ!!
爆弾の爆発は時間差でした。まさかの展開です。でも導火線に火をつけたのは、間違いなく侯爵ですけどね!
もうわずかな時間たりともここで生きられない、と私は思った。ゆえに、期間限定の奥義を披露することを心に決める。……いざ!
私は口元を手のひらで覆った。
「ああ、吐き気がしますっ。つわりかしら、ううううう。吐くぅー、今すぐにでも吐くぅーっ」
半ば蹲りながら主張する。妊娠中しかできないため、人生では数えるくらいしかできない奥義だ。
これを見たカイル様は目を丸くし、他方侯爵は慌てふためいて、なぜか屈んだ。ついで、私の背中と膝裏に腕をそえたかと思えば。
(お姫様抱っこ!?)
いやいやいやまてまてまて。恥ずかしい。あまりにも恥ずかしい。それでも、カイル様の前で冷や冷やと爆弾が爆発するのを待つのと、道行く人の生あたたかい視線を独り占めしながらお姫様抱っこされるのと、天秤にかければ……私の天秤は羞恥心に傾いた。恥ずかしくたって死にはしない。死にはしないんだからっ!
そんな心中で悶絶する私には気づかずに、侯爵は「カイル、では、失礼する」と別れの挨拶もそこそこに、私を抱えて庭園へと駆けた。
*** *** ***
今、私と侯爵は庭園の長椅子に座っている。
庭園へおりてすぐ、つわりは嘘だと侯爵に伝え済みだ。
そうして事情に気づいた侯爵は、安堵しながらも渋い顔で謝った。
「ありがとう。すまない、クローディア」
もちろん私は謝罪を受け入れる。
「はい、どういたしまして」
ここで男性をたてる女性ならば、恥じらいながら、もしくは苦笑しながら「いいえ、お気になさらず」とでも言うかもしれないが、凍死寸前だった私にそんな広い心など持ちあわせてはいない。
それでも侯爵は、私の返事に眉尻を下げて笑む。
そして胸中を吐露した。
「どうもセシルとカイルの扱いがよくわからないんだ……。カイルから婚約は破棄した、と耳にしていたんだが」
はい、私も今先刻までそう思っていました。
心の中で呟く。
しかし、私は既に悟っている。あのカイル様の反応は間違いない。
(いえ、まだ未練たらたらみたいですよ?)
しかも、カイル様のあの一言がひっかかる。
『――俺にも、春が早く来るといいんだが』
(これ、どういう意味ですか? ていうか、まだ元婚約者を諦めてなくない? メイフィールド侯爵で情報収集してない?)
私の中の黒い疑惑だ。
大きく溜息を吐きながら落ち込む侯爵に、私は苦笑する。
――最近、気づいたことがある。
――この人はたまに、ひどく不器用だ。
侯爵の手に自分のものを重ねて、私へと顔を向けた彼に微笑みかけた。
やがてその手は、恋人がするように繋がれる。
――ああ、と思う。
――きっと、この人には私がついていないと駄目だろう。そうじゃなければ、メイフィールド侯爵家は彼の自爆によって滅んでしまう。
つまり。
「ヴィンセント様は、しょうがない人ですね」
私がそう言うと、彼は目を丸くして、ついで蕩けるように破顔した。
「はじめて名前を呼んでくれたな」
そんなことを言いながら、身体の距離を縮めてきたけれど……今はまぁ、よしとしようと思う。
オヤジギャグはこちらのものをお借りいたしました。
『オヤジギャグ - Wikipedia』
最終更新:2011年11月21日 (月) 15:02(UTC)
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