異世界転移も解脱になるのかね
◇◆◇
夜の帳が完全に村を呑み込み、馬小屋の隙間から差し込む青白い月光が、敷き詰められた乾草を照らし出していた。
そこにはあのトモエとユラハが腰を下ろし、僅かなパンが木の皿にのせられていた。
目の前には老いて痩せぎすな馬が、枯れ草を食んでいる。
あの老人から『他の人はよそ者を嫌がるじゃろうから、ここくらいしか……聖女様だというのにすみません』と申し訳なさそうに案内された馬小屋の一角で、トモエは藁の山に背中を預け、腕を組んで天を仰いだ。
ここは老人の持ち物らしいが、藁と馬糞の入り混じった独特の匂いが鼻をつく。天井の梁には埃っぽい蜘蛛の巣が張っている。
「あーあ。聖女とか言われて喚ばれた割には、逃げ出して、ベッドどころか敷布団すらナシ。不祥寺の野宿修行を思い出すわ」
「贅沢言ってられませんよ……屋根があるだけマシで。パンも恵んでもらえましたから、あのおじいさんには感謝するしかないです。っていうかお寺で野宿修行あるんですね」
ユラハは膝を抱えて丸くなりながら、低い声で応じた。
口調はいつものようなものだが、その三つ編みの先は夜風もないのに微かに揺れ、伏せられた瞳には冷たい光が宿ったままだ。
村人から話を聞いて以来、彼女の処刑人モードは一向に解除される気配がない。
「それにしてもさっきのあんた、怖かったわよ。『百倍くらい痛い目に遭わす』とか、どこの裏稼業のセリフよ」
「は?? 当然でしょ……! だって将来を誓い合っておきながら、都合よく新しい女に乗り換えて、邪魔になったら婚約破棄でポイ捨てなんて……! 万死に値します……!」
「随分と感情移入してんじゃないの。なんか……本当に嫌なことでもあったわけ?」
トモエがからかうように横目を向けると、ユラハはギリッと奥歯を鳴らし、ドスの利いた早口で捲し立て始めた。
「おとなしく清純そうに見える女のほうが怖いということを、男は知らなすぎるんですよ……! どんな女か知らないけど、浅ましい……!」
「あ、うん……?」
「そう。そうなのよ。あいつら……清純そうに見せる、って計算してんだから! 連日わたしのオゴリでいいから飲み会とかに連れて行って、さんざんたらふく飲み食いさせて、むちむちボンレス体型にしてやりたい……! でもあいつら男がいないと誘われてもスルーしてくるし『太っちゃう~』ってちょっとしか食べないし、たいして飲まないで『酔っちゃった~』って男に甘えて……っざけんな寄生型がよォ! 女に嫌われても勝ち組アピール! 人に仕事を押しつけて合コン! 化粧直しに離席ばっかしてねーで仕事しろや!」
激しい身振りで虚空を睨みつけるユラハ。
頼もしくも恐ろしいその発想力に、トモエは思わず一歩身を引いた。
(こいつ、前世でブラック企業勤務と並行して、相当エグい修羅場を経験してるのね……? 現世から離れられて良かったわね)
トモエが内心で合掌していると、そのとき……村の入口側の方から生ぬるい風が厩に吹き込んできた。
小屋の薄い板戸がガタガタと鳴り、遠くで犬が怯えたように吠え立てる。夜の冷気が一気に濃密になり、肌をチクチクと刺すような悪寒が走った。
「……おいでなすったかな」
「行きましょう、トモエちゃん」
ユラハが音もなく立ち上がった。
そこにはどこか使命感に満ちた、落ち着いたベテラン暗殺者みたいな風情があった。
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