豹変のユラハ
「ひ、ひぃぃっ! か、勘弁してください……! 金目のものなんて何も――」
鍬を放り出してへたり込んだ老人は、枯れ枝のような腕で頭を抱え、ガタガタと震えていた。
土で汚れた麻のシャツから、汗と埃の匂いが立ち上る。
生活感のある匂いといえば聞こえはいいが、洗濯もろくにできないほど貧しいのか、忙しいのか、それとも替えの服すらないのだろうか?
夕闇が迫る村の通りには、生暖かい風が吹き込み、民家の軒先に吊るされた干し草をカサカサと不気味に揺らしていた。
「殴ったり奪ったりしないから落ち着きなさいって。追い剥ぎとかじゃなくて、あたしたちはただの聖女よ」
トモエは胸の前で腕を組み、堂々とした態度で言い放った。
その背後では、未だにユラハがトモエのシャツを握り、目を左右に泳がせている。
どう見てもこっちは聖女っぽくないゆえに、老人は自然と、茶髪の女が聖女で、三つ編みが従者だろうと脳内で置き換えていた。
「せ、聖女……? 教会の予言にあった、聖女様だとおっしゃるんかね……? だとしても、召喚されたら魔王退治などにゆかれると聞いたが……」
「そうそう、それよそれ。魔王退治は勇者に任せてんの。それにプライベートの細かい詮索は野暮ってもんよ。それよりおじいさん、この村の空気がやけに淀んでるのが気になってね。なんか、村全体にドロドロした邪気が充満してるじゃないの。気分が悪いったらないわ」
トモエが村の上空を指すと、老人は青ざめた顔を歪め、ぎょっとしたように周囲の暗がりを見回した。
道端の草木がざわりと揺れ、まるで誰かが耳を澄ませているかのような、冷たい静寂が降りてくる。
「お、お分かりになりますか……! おお、神よ……本当に本物の聖女様が来てくださったのですか……! 感謝します」
「まあ偽物か本物かは、教会に確認してくれりゃいいわよ。召喚されたのは事実だし、法力みたいなものもあるから、普通の人よりは力になれるんじゃない? なんといってもあたしは寺生まれよ。森の怪異はあんまりよくわかんないけど、人一倍変な現象には慣れてるわ! ちょっとやそっとの亡霊には驚かんわ」
ドヤ顔で胸に手を置いて、頼りがいのあるムーヴを醸し出すトモエ。
「いやそれって聖女であることより、寺生まれを誇張してない?!」
涙目でのツッコミは、老人には大した効果はなかったらしい。
それどころか変な頼もしさのおかげで、老人の口が実は、と開かれる。
「……ここ最近、夜になると井戸の近くに幽霊が出るのです……」
「うっひょー! 幽霊! きたこれ! あたしが気合一発、破ァしちゃうわ!」
トモエは鳶色の瞳をキラキラと輝かせ、拳をパチンと打ち鳴らした。その能天気な声に、彼女の背中に隠れていたユラハが、嫌そうに眉をひそめていた。
(――何が破ァしちゃうわ、だ。動詞として使うなや)
心の中で鋭くツッコミを入れつつ、ユラハは恐怖に身を縮めていた。
しかし、老人が重い口調で紡いだ次の言葉が、その場の空気を一変させる。
「その幽霊というのが……半年ほど前に亡くなった、村長の娘のミリア様にそっくりなのです」
「村長の娘? 病気か何かで死んだの?」
「いいえ……。村の古井戸に身を投げてしまわれたのです。とある若い男爵様と婚約が決まっていたのですが、その男爵様が突然、ミリア様へ婚約破棄を言い渡してきたので……おそらく絶望されたかと皆は噂しており……」
「は? ……婚約破棄?」
トモエが怪訝そうに眉を寄せた瞬間。
ぴくり、と。トモエの背中に隠れていたユラハの細い肩が、小さく跳ねた。
背後から、氷点下まで冷え切ったような異様な殺気が立ち上る。
「……ん?」
トモエが思わず振り返る。
そこにいたのは、先ほどまで『お化け怖い、お家に帰りたい』と半泣きで震えていたはずのユラハではなかった。
伏せられていた顔がゆっくりと持ち上がる。
垂れ気味だった黒目の瞳から、一切の感情の揺らぎが消え失せていた。
底知れない暗黒の光を宿し、獲物の喉笛を見据える肉食獣のように、冷たく、鋭く据わった眼差し。
心なしか三つ編みまで、風もないのにふわりとそよいでいるかのようだった。
「……続けなさい。破棄の理由は」
いつものびびり調子なユラハの口調ではなく、低く絞り出すような、地を這うような冷徹な声。
老人だけでなく、前にいたトモエすら思わず背筋をゾワリと粟立たせる。
「は、はいぃっ……! 破棄の理由は……男爵様に『新しく好いた女ができた』ということでして……。将来を誓い合っていたミリア様はひどく絶望され、泣き崩れ……そのまま、村の東にある共用の古井戸に……帰らぬ人となったのです」
「婚約破棄だとぉ……!! 許せない……! しかも相手はクズと略奪女! 悪役令嬢ありがちパターンきた」
ユラハの唇から、怒りにギリリと歯を噛み締める音が漏れた。
その横顔には、聖女の慈悲など微塵も存在しない。
裏切り者を地獄の業火で焼き尽くすことだけを望む、冷酷無比な復讐鬼の貌だった。
「ユラ? なんか滅茶苦茶キャラ変してるけど……」
「トモエちゃん、これはいけませんよ」
「どっちが? あんたのほう? 井戸の方?」
「何言ってんの、クソ男爵と女だよ! んで、そのあとどうなりました?」
ユラハの急かしに、ビクッと肩を震わせた老人は、この村の現状に続く原因となるような話を続ける。
「それ以来、夜になると井戸の周りにミリア様の幽霊が現れ『殺してやる』『呪ってやる』と怨嗟の声を上げながら村中を彷徨うようになりまして……」
「なるほど……よく分かりました。で、そのクソ……失礼、男爵はどうしてるんですか?」
「男爵様は気味悪がって、それ以来この村には滅多に顔を出しません。近くの別邸までは来ているようですが……」
「まあ、そうでしょうね。よくある身勝手な男の逃走劇だわ。怨霊には関わりたくないのは心理として理解できるし、幽霊は適当に破ァして成仏させて、井戸も清めて終わりかな……って、ユラ? どしたの?」
トモエが横を見ると、ユラハは両手をぎゅっと握りしめ、俯きながらブツブツと小声で何かを呟いていた。
「マジクソ男……呪われて当然……そいつミリアの百倍くらい痛い目に遭わすか……フフッ……おもしろくなってきた」
漏れ出る呪詛の気迫が凄まじい。周囲の空気がユラハの周りだけ明らかに濁り、青白い火花のような法力がパチパチと漏れ出している。
集中しても五分と持たない力しか出ない癖に、今の彼女はちょっとしたLED電飾をまとっているかのようである。
死ぬ百倍怖いことって一体何をする気なのか、トモエには皆目見当もつかないが、今のユラハは間違いなく聖女ではなく、処刑台の鍵を握る魔女か処刑人そのものだった。
「トモエちゃん……」
ユラハがすっと顔を上げた。その瞳の奥には、ドス黒い炎が決意として揺らめいている。
「今日、ミリアに会おう。破ァするのは最後」
「……お化け嫌いのあんたがそこまでハッキリ言うなんてね……。わかった、なんかエグい考えがあるのね。あたしも、確かに気に入らないなと思ってたし、ちょっと興味出たかな」
トモエは苦笑しつつも、この頼もしくも恐ろしい変貌を遂げた相棒の提案を受け入れることにした。
そして、すっかり二人の気迫に圧されて腰を抜かしている老人へ、愛想を振りまくようなにこやかな笑顔を向ける。
「あ、おじいさん。ここ泊まるところありませんか? ……あたしたち、文無しなんですけど……除霊頑張るんで、できれば、ご飯もお願いしたいな~って……」
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