第4話_私が嫌だと言ったら、やめること
答えを知ったのは、それから一か月後だった。
王都で侯爵家主催の夜会が開かれた。
グレイヴァン商会も取引先を招くため、エステラは監査責任者として出席することになった。
久しぶりにドレスを着た。
実家から持ち出したものではない。
自分で買った深緑のドレスだった。
会場へ入ってすぐ、母と目が合った。
「エステラ……」
母が立ち止まる。
父も隣にいた。
二人とも以前より少し疲れて見えた。
「お久しぶりです」
エステラは礼をした。
逃げるつもりはなかった。
もう、逃げる必要もない。
「元気そうね」
「はい」
「仕事をしていると聞いたわ」
「監査部門の責任者になりました」
母は目を見開いた。
「責任者?」
「ええ」
父も驚いていた。
自分の娘が何をしているのか、本当に知らなかったのだろう。
「そんな大きな仕事を……」
母が呟く。
「楽しいです」
エステラは答えた。
「忙しいですけど」
「そう」
母は何か言いかけ、やめた。
代わりに小さく頭を下げた。
「誕生日のこと、ごめんなさい」
エステラはすぐには答えられなかった。
「去年だけじゃないわ。あなたが家を出てから、昔のことを思い出したの。私たち、ノエルのことばかりで」
父は黙っている。
「あなたは一度、ちゃんと言ってくれたのに。心配してほしいって」
母の声が震えた。
「今さらよね」
「……そうですね」
エステラは否定しなかった。
今さらだった。
「すぐに許せるとは言えません」
「ええ」
「家へ戻るつもりもありません」
「分かっているわ」
母は寂しそうに笑った。
「でも、いつか手紙を送ってもいい?」
エステラは少し考えた。
「手紙なら」
「ありがとう」
それで話は終わった。
父とは最後までほとんど言葉を交わさなかった。
けれど帰り際、
「……仕事、頑張りなさい」
とだけ言った。
エステラは頷いた。
それ以上は必要なかった。
◇
「ずいぶん大人しい再会でしたね」
背後から声がした。
振り返ると、セヴランが葡萄酒の杯を持って立っている。
「見ていたんですか?」
「護衛です」
「夜会で?」
「便利でしょう、この言葉」
エステラは呆れた。
「あなたのご両親とは話せました?」
「ええ」
「帰りたくなりました?」
「いいえ」
「よかった」
あまりにも早い返事だった。
「何がです?」
「こちらの話――」
「それ、もう禁止です」
「厳しい」
「さっきの続きを話してください」
「さっき?」
「私を採用した理由。最初は優秀だからだった。その先です」
セヴランは杯をテーブルへ置いた。
「ここで?」
「ここで」
「逃げられませんね」
「いつも逃げるのはあなたでしょう」
「では」
彼は少し身を屈めた。
声を落とす。
「あなたが家を出ると知ったとき、好都合だと思いました」
「好都合?」
「ええ。家が決めた婚約者もいない。卒業後の進路も自分で決める。しかも僕の商会に欲しいほど優秀」
エステラは嫌な予感がした。
「まさか」
「囲い込むには最適でしょう?」
「やっぱり!」
思わず声が大きくなり、近くの人がこちらを見た。
エステラは慌てて声を落とす。
「最初から?」
「仕事については」
「仕事については?」
「女性として意識したきっかけは、入社初日です」
「初日?」
「あなたが僕に遠慮せず、性格が悪いと言った日です」
「……確かに初日ですね」
「ただ、その時点では面白い人だと思った程度ですよ。自覚したのは、もう少し後です」
「そこは曖昧なんですね」
「感情まで帳簿のように日付をつけて管理していませんから」
「少し安心しました」
セヴランは笑った。
「それで、住宅も街灯も?」
「住宅は採用のため。街灯は半分私情です」
「半分」
「残り半分は本当に社員のためですよ」
「物件を勧めてきたのは?」
「完全に私情です」
開き直った。
エステラは額を押さえる。
「僕の持ち物件なら管理が行き届いていますし、変な大家もいません」
「だからって」
「嫌だと言われたので諦めました」
その言葉で、エステラは口を閉じた。
確かにそうだ。
彼は策を巡らせる。
先回りもする。
だが、最後の線は越えない。
「……ずるいですね」
「何が?」
「そういうところです」
「褒め言葉として受け取ります」
「違います」
セヴランは少しだけ真面目な顔になった。
「エステラ」
初めて名前だけで呼ばれた。
「はい」
「僕はあなたが好きです」
あまりにも簡単に言われて、返事が遅れた。
「商会を辞めるつもりがないなら、断りにくい言い方はしないでください」
「もちろん」
セヴランはすぐに答えた。
「断っても待遇は変えません。直属から外れたいなら、それも認めます」
「……用意がいいですね」
「この半年、何度も考えましたから」
「腹黒なのに、そこは慎重なんですね」
「腹黒だから慎重なんです。嫌われて逃げられたら困る」
エステラは思わず笑った。
「返事は今でなくていいですよ」
「待てるんですか?」
「得意ではありません」
「でしょうね」
「ですが待ちます」
セヴランは手を差し出さなかった。
距離も詰めなかった。
ただ、返事を待っている。
エステラはそのことが嬉しかった。
「では、考えます」
「どのくらい?」
「待つんでしょう?」
「目安くらいは」
「一か月」
「長い」
「では二か月」
「増えた」
「文句を言うからです」
「一か月でお願いします」
「考えておきます」
セヴランが珍しく困った顔をした。
それを見るのは少し楽しかった。
◇
返事をしたのは、三週間後だった。
特別な日ではなかった。
仕事帰り、商会の玄関で雨が降り始めた。
「馬車を出します」
セヴランが言う。
「今日は歩いて帰るつもりだったのに」
「濡れますよ」
「傘があります」
「風も強い」
外を見る。
確かに強い。
「では乗せてください」
「喜んで」
馬車の中で、エステラは窓を流れる雨粒を見ていた。
家を出て一年。
以前の自分なら、誰かの好意には身構えたかもしれない。
家族から向けられる愛情は、いつも弟の後だった。
だから、自分は選ばれないものだと思っていた。
けれど今は違う。
仕事では、自分の能力を見てくれる人がいる。
友人もいる。
弟とは、ときどき手紙を交わしている。
母からも、あれから一度手紙が届いた。
返したいときだけ返している。
父からはほとんど来ない。
それでいい。
家族との距離も、自分で決めていいのだ。
「セヴラン様」
「はい」
「この前の返事です」
向かいに座る彼の姿勢がわずかに変わった。
「聞きましょう」
「お付き合いしてもいいです」
「……本当に?」
「嫌なら言いません」
「いや、もう少し焦らされると思っていたので」
「では取り消します?」
「それは困ります」
即答だった。
エステラは笑った。
「ただし条件があります」
「何でしょう」
「仕事に私情を持ち込まない」
「努力します」
「努力ではなく守ってください」
「はい」
「勝手に住む場所を決めない」
「決めてはいません」
「候補を全部自分の物件にするのも駄目です」
「……はい」
「私の予定を勝手に調べない」
「業務上必要なものは?」
「それは仕事でしょう」
「では問題ありません」
何か抜け道を探している顔だ。
「あと」
「まだあります?」
「あります」
エステラは彼を見た。
「私が嫌だと言ったら、やめること」
セヴランの表情から笑みが消えた。
「それは約束します」
今度は冗談を言わなかった。
エステラは頷く。
「なら、いいです」
「僕からも一つ」
「何です?」
「敬称をやめませんか」
「嫌です」
「早い」
「職場では上司ですから」
「二人のときだけ」
「考えます」
「またそれですか」
「待つの、得意ではないんでしょう?」
「あなた、僕の扱いが上手くなりましたね」
「一年近く直属でしたから」
馬車が従業員住宅の前で止まった。
セヴランが先に降り、傘を開く。
エステラも降りた。
彼は手を差し出したが、エステラが見つめると一度止まる。
「手は?」
尋ねられた。
その確認が可笑しくて、少し嬉しかった。
「今日はいいです」
エステラは自分から手を重ねた。




