第3話_そこから先は、今は秘密です
その冬、グレイヴァン商会で大きな問題が起きた。
王都へ運び込まれる小麦の価格が急に上がったのだ。
凶作ではない。
街道も閉ざされていない。
それなのに複数の商会が同時に値を上げた。
会議室には各部門の責任者が集められた。
「北西部の倉庫在庫は?」
「平年並みです」
「輸送費は?」
「雪の影響で一割ほど上がっていますが、現在の市場価格を説明できるほどではありません」
報告を聞きながら、エステラは資料をめくった。
何かがおかしい。
値上がりが始まる直前、三つの商会が同じ倉庫会社と契約している。
「セヴラン様」
「何か?」
「この会社、調べられますか」
エステラが指した名前を見て、セヴランの笑みが消えた。
「理由は?」
「小麦を扱う三商会が、先月からここへ保管先を変えています。もし倉庫側が出荷を遅らせているなら、市場へ出る量を意図的に減らせます」
「価格を吊り上げるために?」
「可能性はあります」
会議室がざわついた。
セヴランはすぐに指示を出した。
「契約書を全部集めてください。倉庫の所有者と出資者も。エステラさん、残れますか」
「はい」
その日から三日間、ほとんど商会に詰めた。
調べるほど、疑いは濃くなった。
倉庫会社の出資者を辿ると、王都の穀物商へつながった。さらに、その穀物商は価格上昇の直前に大量の小麦を買い付けている。
意図的な出荷制限だった。
「これ、王都商業庁へ出せます」
深夜の執務室で、エステラは最後の資料を置いた。
「十分ですね」
向かいでセヴランが頷く。
机の上には冷めた茶が二つ。
外はもう暗かった。
「明日の朝、提出します」
「価格は戻りますか?」
「すぐには。ただ、出荷命令が出れば数日で落ち着くでしょう」
エステラは椅子へ背を預けた。
疲れた。
だが、心地よい疲労だった。
「楽しいですか?」
突然聞かれた。
「何が?」
「仕事」
エステラは少し考えた。
「楽しいです」
「家へ戻らなくてよかった?」
「はい」
迷わず答えた。
セヴランはしばらく彼女を見ていた。
「では、僕の計画も半分成功ですね」
「計画?」
「こちらの話です」
「またそれですか」
「そのうち教えます」
怪しい。
けれど、追及する気力がなかった。
「今日は帰ります」
「送ります」
「歩いて――」
「今日は駄目です。深夜ですから」
「馬車なら?」
「用意しています」
すでに外へ手配してあるらしい。
「断る選択肢は?」
「ありますよ」
「本当に?」
「ええ。断るなら護衛を三人つけます」
「それは選択肢と言いません」
「二つから選べます」
セヴランは平然としていた。
エステラは額を押さえた。
「馬車でお願いします」
「賢明です」
満足そうな顔が腹立たしい。
◇
不正は一週間で明るみに出た。
商業庁の調査が入り、倉庫に止められていた小麦が市場へ放出された。
価格は徐々に戻った。
グレイヴァン商会は早い段階で価格を据え置いたため、王都での信用を大きく上げた。
臨時報奨金が出た。
エステラの分は、予想していた額の三倍だった。
「多すぎます」
「貢献に対する正当な報酬です」
「でも」
「嫌なら返してもいいですよ」
セヴランが手を差し出す。
エステラは報奨金の袋を胸元へ引いた。
「返しません」
「でしょうね」
笑われた。
「それから昇進です」
「……はい?」
「監査部門を新設します。責任者になってください」
「私、まだ入社して一年も経っていません」
「能力と勤続年数に何の関係が?」
「他の人が納得しません」
「納得させるのは僕の仕事です」
「横暴ですね」
「経営者ですから」
また便利な言葉だ。
「考えさせてください」
「三日待ちます」
「短い」
「一週間?」
「五日」
「では五日で」
交渉が成立した。
こういうやり取りにも慣れてしまった。
◇
五日後、エステラは責任者の話を受けた。
同じ日、ノエルから初めて手紙が届いた。父が商会を訪れたことで、ようやくエステラの勤務先を知ったらしい。
『姉上へ。
父上から、姉上が大きな仕事をしたと聞きました。
商会の人が王都の小麦を助けたって学院でも先生が言っていました。
それ、姉上なの?
僕、姉上が何の仕事をしてるか知らなかった。
ごめん。
今度会えたら教えてほしい。
ノエル』
エステラは何度か読み返した。
弟は十二歳だ。
知らなかったのは当然だった。
両親がエステラの話をしなかったのだから。
『仕事の話なら、いつかしてあげる。
あなたも学院で頑張ってね』
短く返した。
会いたいとは書かなかった。
会いたくないとも書かなかった。
今はそれでよかった。
◇
春になった。
監査部門には三人の部下がついた。
忙しさは増したが、給与も増えた。
従業員住宅から出て、自分で部屋を借りることも考え始めた。
昼休み、物件の資料を見ていると、向かいから一枚抜き取られた。
「これは駄目ですね」
セヴランだった。
「返してください」
「西区は遠い」
「家賃が安いんです」
「通勤に四十分」
「歩けます」
「雨の日は?」
「乗合馬車を使います」
「却下」
「あなたに決める権利はありません」
「そうでした」
セヴランは素直に資料を返した。
最近、こういうことが増えた。
口は出す。
しかし最後に決めるのはエステラだ。
「ではこちらは?」
別の物件を差し出される。
商会から徒歩十五分。家賃は少し高いが、広さも治安も申し分ない。
「良さそう」
「でしょう?」
「なぜあなたが物件を探しているんです?」
「偶然見つけました」
「嘘ですね」
「証拠は?」
「その言い方をするときは大体嘘です」
セヴランは笑った。
「成長しましたね」
「誰のせいですか」
結局、その物件を見に行くことにした。
「今日の仕事のあと、案内します」
「不動産屋が?」
「僕が」
「なぜ?」
「建物の所有者なので」
エステラは資料から顔を上げた。
「……商会の所有ですか?」
「いいえ。僕個人です」
「却下します」
「早い」
「あなたから部屋まで借りたら、仕事も住居も全部あなたに握られるでしょう」
「今さらでは?」
「今さら?」
セヴランが黙った。
エステラは目を細める。
「何ですか」
「いえ」
「言ってください」
「嫌です」
「子どもですか」
その日は珍しく、セヴランが逃げた。
◇
数日後、エステラはミレナから妙な話を聞いた。
「セヴラン様、あなたが来る前から従業員住宅を改修させてたよ」
「何の話?」
「ほら、最初に住んでたところ。去年の春に空き部屋を一つだけ全面改修したの。家具まで新しくして」
エステラは手を止めた。
「いつ?」
「あなたが入社する二か月くらい前かな」
嫌な予感がする。
「それと、街灯」
「あれも?」
「セヴラン様が市へ費用を出したって聞いた」
「……そう」
「知らなかったの?」
「知らない」
昼休みになると、エステラはセヴランの執務室へ向かった。
扉を開ける。
「説明してください」
「何のことでしょう」
「従業員住宅」
「快適でした?」
「街灯」
「明るくなったでしょう?」
「セヴラン様」
低い声で呼ぶと、ようやく彼は書類から顔を上げた。
「怒っています?」
「内容によります」
「では怒られない範囲で話します」
「全部話してください」
セヴランは少し考え、諦めたように椅子へ背を預けた。
「あなたを採用すると決めたのは、面接の日ではありません」
「いつです?」
「学院の商業実務発表会」
入社する前の年の秋だった。
学生が架空の商会経営について発表する行事だった。
「私、あなたと話していません」
「僕は来賓席にいました」
覚えていない。
「あなたは他の学生が利益率ばかり話す中で、倉庫費と廃棄率の関係を指摘した」
「……しましたね」
「面白いと思いました。それで教師に聞いたら、実際の商会でも帳簿を手伝っていると知った」
「そこから調べた?」
「ええ」
「私の家のことまで?」
「最初はそこまで知りませんでした。ただ、卒業後の就職先を探しているのに、家族へ頼る様子がない。少し気になった」
エステラは黙って聞いた。
「教師から、あなたが成人と同時に家を出るつもりだと聞きました。本人が話していいと言った範囲だけですよ」
「それで住宅を?」
「確実に来てもらいたかったので」
「私が断ったら?」
「別の社員に使わせるだけです」
「街灯は?」
「あなた以外の社員も使います」
理屈は通っている。
だが、何かがおかしい。
「どうしてそこまで私を採用したかったんです?」
「優秀だから」
「それだけ?」
セヴランは笑った。
いつもの、何かを隠すときの笑い方だった。
「最初は」
「最初は?」
「そこから先は、今は秘密です」
エステラはじっと彼を見る。
「腹黒」
「光栄です」
「褒めてません」
「知っています」




