第2話_家族のお話は、勤務時間外に
ローデン男爵家へは、その日の夕方に手紙を送った。
『お父様、お母様。
本日十八歳になりましたので、家を出ます。
就職先と住居はすでに決まっています。
これまで養育していただいたことには感謝しております。
私物は必要なものだけ事前に移してあります。残りは処分していただいて構いません。
今後の生活費の援助も必要ありません。
どうかお元気で。
エステラ』
書き終えてから、誕生日について触れるべきか迷った。
結局、何も加えなかった。
忘れられていたことを責めたところで、今日までの十八年が変わるわけではない。
商会で働き始めて一週間ほど経ったころ、昼休みに受付から来客を告げられた。
「エステラさん。ティルザさんという方がお見えです」
名前を聞いて、エステラはすぐに一階へ下りた。
「ティルザ」
「よかった。ちゃんといた」
友人はエステラの顔を見るなり、安堵したように息を吐いた。
「ちゃんとって何?」
「家を出るとは聞いてたけど、そのあと連絡がないんだもの。就職先はここだって、家を出る前に教えてくれたでしょう」
「ごめん。落ち着いたら連絡するつもりだった」
「それで、どう? 仕事は」
「忙しい。でも楽しいわ」
ティルザはしばらくエステラの顔を見てから笑った。
「その顔なら大丈夫そうね」
「そんなに心配してたの?」
「するでしょう。十八歳の誕生日に家を出るって言ってた友達が、一週間も音沙汰なしなんだから」
エステラは少し申し訳なくなった。
「住むところも決まったし、給料もちゃんと出る。心配しなくていいわ」
「家には?」
「居場所は知らせてない」
ティルザの表情が少しだけ真面目になる。
「知らせるつもりは?」
「今はないわ」
「分かった。じゃあ私も言わない」
当然のようにそう言ってくれたことが嬉しかった。
「ありがとう」
「その代わり、たまには連絡して。無事かどうかくらい知りたいから」
「ええ。約束する」
ティルザは昼休みが終わる前に帰っていった。
家を出ても、自分を気にかけてくれる人がいる。そのことが、エステラには少し不思議で、同時に嬉しかった。
廊下へ戻ると、壁際にセヴランが立っていた。
「ご友人ですか?」
「学院時代の友人です」
「なるほど」
「今度は何です?」
「何も。あなたにも仕事以外の付き合いがあると分かって安心しただけです」
「どういう意味ですか」
「こちらの話です」
相変わらず、何を考えているのか分からない。
エステラは追及せず、午後の仕事へ戻った。
◇
最初に任されたのは、北部支店の仕入れ帳簿だった。
三年分。
量を見た瞬間、嫌がらせかと思った。
「全部ですか?」
「全部です」
セヴランは涼しい顔で答えた。
「新人に任せる量ではないと思います」
「新人ではありますが、学院で三年も実務を手伝っていたでしょう?」
「調べたんですか」
「採用する人間について何も調べないと思います?」
またそれだ。
エステラはため息をつき、帳簿を開いた。
仕事自体は面白かった。
北部では冬になると輸送費が上がる。ところが二年前から、春になっても一部の商品の輸送費だけ下がっていない。
さらに仕入れ先が一社増えている。
価格は相場より一割高い。
その会社へ支払われている金額を追うと、不自然な手数料が混ざっていた。
三日目の午後、エステラは資料をまとめてセヴランの執務室へ入った。
「北部支店の副支店長を調べた方がいいと思います」
「理由は?」
エステラは帳簿を机へ広げた。
「この商会との取引です。二年前から仕入れ量が増えていますが、価格が高い。それだけなら品質の問題かもしれません。でも輸送費にも同じ割合で上乗せがあります」
「続けて」
「取引先の代表者名を調べました。副支店長の妻の旧姓と同じです」
セヴランの目が細くなった。
「偶然かもしれません」
「そうですね。だから調べる必要があります」
「もう調べています」
「え?」
「あなたに渡す前から怪しいとは思っていました」
エステラは黙った。
「試したんですね」
「確認です」
「同じです」
「少し違いますよ」
「私には同じに見えます」
セヴランは楽しそうに笑った。
「合格です」
「何のですか」
「僕の直属になるための」
エステラは眉を寄せた。
「聞いていません」
「今言いました」
「断ります」
「給与が三割上がります」
「……仕事内容を聞いてから決めます」
「賢明です」
最初からそのつもりだったのだろう。
腹が立つ。
だが、三割は大きい。
仕事内容は、各支店から上がってくる帳簿や契約書の確認、問題があれば調査。セヴランが行う商談の資料作成も含まれる。
エステラがやりたかった仕事に近かった。
「受けます」
「ありがとうございます」
「その顔、私が受けると分かっていましたね」
「九割ほど」
「残り一割は?」
「あなたが僕を嫌いになりすぎて辞める可能性」
「まだありますよ」
「それは困るな」
まったく困っていない顔だった。
◇
三か月が過ぎた。
エステラは商会の仕事に慣れた。
朝は従業員住宅から歩いて出勤し、午前中は帳簿を確認する。午後は契約書や市場価格の資料をまとめる。
忙しかったが、不満はなかった。
仕事をすれば評価される。
間違えれば指摘される。
成果を出せば給与が上がる。
家にいたころより、ずっと単純だった。
「エステラさん、昼食まだでしょう?」
同僚のミレナが書類の束を抱えてやってきた。
「これが終わったら行くわ」
「それ、一時間前にも言ってた」
「あと少しだから」
「セヴラン様に言いつけるよ」
エステラは顔を上げた。
「なぜそこでセヴラン様が出てくるの?」
「だって最近、あなたが昼食を抜くとすぐ来るじゃない」
「偶然でしょう」
「三回続いたら偶然じゃないと思う」
どこかで聞いた理屈だ。
エステラが返事をする前に、背後から声がした。
「何が三回なんです?」
ミレナが露骨に笑う。
「エステラさんが今日も昼食を抜こうとしています」
「ミレナ」
「では、行きましょうか」
セヴランが当然のように言った。
「どこへ?」
「昼食です」
「私はまだ仕事が」
「直属の上司命令です」
「職権濫用では?」
「健康管理です」
「商会主が従業員一人の昼食まで管理するんですか?」
「有能な部下だけ特別扱いしています」
堂々と言われると反論しにくい。
ミレナは楽しそうに手を振った。
「いってらっしゃい」
絶対に面白がっている。
商会近くの食堂へ入ると、セヴランは窓際の席へ向かった。
「いつも思うんですが」
「はい」
「あなた、暇なんですか?」
「失礼ですね。忙しいですよ」
「ではなぜ毎回私の昼食に気づくんです?」
「見ているからでしょうね」
エステラは椅子を引く手を止めた。
「……はい?」
「仕事ぶりを」
「言い方を考えてください」
「誤解しました?」
「していません」
「残念」
セヴランは笑っている。
やはり腹黒い。
けれど不思議と嫌ではなかった。
彼は勝手に試すし、先回りして手を回す。
その一方で、エステラが嫌だと言ったことは繰り返さない。
最初のころ、仕事帰りに馬車で送ると言われたことがあった。
「歩いて帰りたいので結構です」
そう答えると、それからはよほどの理由がない限り勧めてこなかった。
ただし翌週、従業員住宅までの通りに街灯が二本増えていた。
理由を聞けば、
「夜道が暗いという苦情がありまして」
としか答えなかった。
誰が苦情を出したのかは、今も知らない。
◇
実家からの連絡はなかった。
就職先も住居も知らせていないのだから、当然だった。
ノエルのことは時折気になったが、弟を恨んではいない。
それでも、自分から居場所を知らせるつもりはなかった。
半年後、父が商会へ直接やってきた。
受付が断ろうとしたらしいが、エステラは会うことにした。
これで最後にしたかった。
「随分探したぞ」
応接室へ入るなり、父は言った。
「手紙は届いていたでしょう」
「就職先も住居も書いていなかったじゃないか」
「知らせる必要がないと思いました」
「エステラ」
父は苛立ったように眉を寄せた。
「いつまで意地を張るつもりだ」
「意地ではありません」
「では何だ。家を出て商人の真似事などして」
その言葉に、胸の奥が少しだけ冷えた。
昔なら傷ついただろう。
今は違う。
「真似事ではありません。雇用契約を結んで働いています」
「お前は男爵家の娘だぞ」
「それが?」
「それが、ではない。そろそろ縁談も考えなければならん。お前が勝手をしているせいで――」
「私の縁談ですか?」
父が言葉を止めた。
「誰とです?」
「候補はいくつかある」
「私が家にいたころ、一度でもその話をしましたか?」
「まだ早いと思っていた」
「私の仕事について聞いたことは?」
「何を言っている」
「学院で何を学んでいたか、知っていますか?」
父は答えなかった。
「私が三年間、放課後に商会で働いていたことは?」
「……聞いていない」
「話しました」
エステラは静かに言った。
「何度か」
父の表情が変わる。
「お父様は、私が何を好きで、何が得意で、どんな仕事をしたいのか、何も知らないでしょう」
「それは……」
「ノエルのことなら知っていますよね。好きな食べ物も、得意な剣技も、魔力属性も」
「ノエルは跡取りだ」
「ええ。だから大切にするのは分かります」
エステラはそこで一度言葉を切った。
「でも、跡取りでない娘を見なくていい理由にはならないでしょう」
父は黙った。
「私は家族に復讐したいわけではありません。困らせたいわけでもない。ただ、もうあの家で暮らしたくないんです」
「母さんが泣いている」
「私も昔、何度も泣きました」
責めるような言い方にはならなかった。
ただの事実として口から出た。
「そのとき、お父様たちは気づかなかったでしょう?」
父は何も言えなかった。
しばらくして立ち上がる。
「……考え直したら連絡しなさい」
「考えは変わりません」
「今はそう思っているだけだ」
その言葉に、エステラは小さく息を吐いた。
最後まで同じだった。
「では、お元気で」
父が扉を開ける。
その向こうにセヴランが立っていた。
「これはローデン男爵。お帰りですか?」
にこやかな声だった。
「グレイヴァン卿」
父の顔が強張った。
侯爵家の人間が、この商会を取り仕切っていることは知っていたらしい。
「娘がお世話になっているようで」
「ええ。大変優秀なので助かっています」
「ですが、娘はまだ若く――」
「成人していますね」
セヴランは笑顔のまま言った。
「本人が正式に契約し、正当な報酬を得て働いています。何か問題が?」
父は言葉に詰まった。
「家族の問題です」
「それは失礼」
セヴランはあっさり引いた。
ただし一歩も道を空けなかった。
「ですが、商会内で社員へ退職を迫られるのは困ります。家族のお話は、勤務時間外にお願いします」
丁寧だが、拒絶は明確だった。
父はエステラを一度見て、そのまま帰っていった。
扉が閉まる。
「聞いていましたね」
「途中から」
「盗み聞き」
「護衛です」
「誰の?」
「優秀な社員の」
セヴランは悪びれない。
エステラは思わず笑った。
「あなた、便利な言葉をたくさん持っていますね」
「商売人ですから」




