第1話_十八歳の誕生日に、家を出ます
十八歳の誕生日の朝、エステラ・ローデンは自分のための朝食がないことに気づいた。
正確には、食卓には十分すぎるほど料理が並んでいた。焼きたての白パン、香草を添えた卵料理、蜂蜜をたっぷり使った焼き菓子。だが、それらはすべて弟のノエルの好物だった。
「姉上、これ食べないの?」
向かいに座ったノエルが、焼き菓子を頬張りながら首を傾げる。
「ええ。朝から甘いものはあまり食べないから」
「そうだっけ?」
「そうよ」
何度も言っている。けれど、弟が覚えていないことに腹は立たなかった。
ノエルは悪くない。
十二歳の弟は、両親から与えられたものを素直に受け取っているだけだ。
「今日はノエルの魔力測定の日でしょう。しっかり食べておきなさい」
母が嬉しそうに言うと、父も大きく頷いた。
「ローデン家の男子として、恥ずかしくない結果を出してくれよ」
「うん!」
ノエルは元気よく返事をした。
エステラは薄い紅茶を一口飲む。
今日は自分の十八歳の誕生日でもある。
家族の誰も、そのことには触れなかった。
去年も似たようなものだった。十七歳の誕生日はノエルの剣術大会と重なり、家族全員が朝から応援へ出かけた。十六歳のときは、ノエルが風邪をひいた。十五歳のときは、彼の家庭教師を決めるための面談があった。
偶然が四年も続けば、もう偶然ではない。
エステラはそう考えるようになっていた。
「エステラ」
父に呼ばれ、顔を上げる。
「午後から商会へ行ってくれ。ノエルの祝いに新しい杖を注文してある」
「分かりました」
「それから、菓子店にも寄ってくれない? あの子の好きな果実のタルトを頼んであるの」
母が続けた。
「分かりました」
エステラは同じ返事をした。
ノエルの魔力測定は午前中だ。結果がどうであれ、両親は祝うつもりなのだろう。
自分の誕生日には、何もない。
昔なら胸が痛んだ。
十歳のころは、どうして自分には贈り物がないのかと泣いた。十二歳のころには、母へ遠回しに誕生日の予定を聞いた。十四歳になると、期待すること自体が恥ずかしくなった。
十八歳の今日は、何も感じなかった。
ただ、ちょうどいいと思った。
「お父様」
「なんだ?」
「今日、帰りが少し遅くなります」
父は新聞から目を上げなかった。
「構わん。頼んだものだけ忘れるな」
「はい」
エステラは微笑んだ。
今日、家を出る。
そのつもりだった。
◇
ローデン男爵家にノエルが生まれたのは、エステラが六歳のときだった。
待望の男子だった。
その言葉を、彼女は幼いころから何度も聞いた。
父方の祖父母も、母方の親戚も、屋敷の使用人たちも、皆が同じように喜んだ。
「これでローデン家も安泰ですな」
「立派な跡取りになられますよ」
六歳のエステラには、その意味がよく分からなかった。
ただ、小さな弟は可愛かった。
赤い顔で泣くノエルの手に指を握られたとき、嬉しくて何度も母へ報告した。
母も最初は笑っていた。
「エステラは優しいお姉さんね」
だから弟を嫌いになったことはない。
問題は、家族の中から少しずつ自分の場所がなくなっていったことだった。
七歳の誕生日に欲しい本を聞かれたので答えたら、その金でノエルの玩具が買われた。
「まだ字の多い本なんて早いでしょう」
母はそう言った。
九歳の冬、熱を出した。侍女が医者を呼ぼうとしたが、その日はノエルの乗馬の稽古を見に行く日だった。
「大げさにしないで。風邪でしょう」
母はノエルと一緒に出かけた。
十一歳のとき、学院の入学試験で首席を取った。
父は結果表を見て、
「女の子なのに勉強が好きなんだな」
と笑った。
その日の夕食では、剣術の稽古で褒められたノエルの話が続いた。
十三歳になるころには、エステラも理解していた。
両親は自分を嫌っているわけではない。
ただ、ノエルの方がずっと大切なのだ。
嫌われているなら、まだ理由を探せたかもしれない。
だが、彼らに悪意はなかった。
服は与えられた。食事もある。学院へも通わせてもらった。
だから訴えても、いつも同じ答えが返ってきた。
「あなたはお姉さんでしょう」
「ノエルはまだ小さいんだから」
「あなたはしっかりしているから心配していないのよ」
しっかりしているのではない。
誰も助けてくれないから、自分で何とかするしかなかっただけだ。
十四歳の春、そのことを一度だけ母へ言った。
「私だって、お母様に心配してほしいです」
母は驚いた顔をした。
「何を言っているの。あなたのことだって心配しているわ」
「では、先月の学院の試験で、私が何位だったか知っていますか?」
母は答えられなかった。
「首席でした」
「まあ、すごいじゃない」
「去年もです」
「そうだったかしら」
そこでエステラは話すのをやめた。
分かってほしいと思うことを諦めるには、十分だった。
代わりに、自分で生きていく方法を考え始めた。
◇
エステラには、数字を扱う才能があった。
計算が速いだけではない。
帳簿を見れば、どこに無駄があるのか分かった。複数の取引記録を並べれば、値段の不自然な動きにも気づいた。
十五歳のころ、父の書斎に届けるよう頼まれた帳簿を何気なく見て、同じ商品が二重に計上されていることを発見した。
「お父様、ここ」
「勝手に見るな」
「でも、この仕入れは同じ日に同じ数が二回――」
「商売のことはお前には分からん」
父は帳簿を取り上げた。
一か月後、取引先の不正が発覚した。
エステラが指摘した箇所だった。
父は何も言わなかった。
そのころ、学院では商業実務の選択授業が始まっていた。
貴族令嬢が選ぶ者は少なかったが、エステラは迷わず受講した。帳簿、契約、税、物流。学べば学ぶほど面白かった。
担当教師の紹介で、放課後に小さな商会の帳簿整理を手伝うようにもなった。
報酬はわずかだった。
それでも、自分の仕事で初めて得た銀貨を手にした夜、エステラは長いことそれを眺めた。
誰かに与えられた金ではない。
自分で稼いだ金だった。
それから三年間、少しずつ貯めた。
卒業後に働ける場所も探した。
そのことを知っていたのは、学院で同じ商業実務の授業を取っていた友人、ティルザだけだった。
「本当に、十八歳になった日に出るの?」
放課後の教室でそう聞かれたとき、エステラは頷いた。
「そのつもり。仕事が決まればね」
「だったら先生にも相談してみよう。商会を紹介してもらえるかもしれないし。決まったら、私には教えてね」
「ええ。あなたには知らせるわ」
ティルザは家の事情を根掘り葉掘り聞かなかった。ただ、エステラが自分で生活できるようになりたいと言うと、それなら手伝う、と言ってくれた。
教師へ相談するきっかけを作ってくれたのも彼女だった。
十八歳になれば、この国では本人の意思で雇用契約を結べる。未婚の女性が家を出ることも、法律上は禁止されていない。
貴族令嬢としては珍しい。
それだけだった。
家を出る準備は、十七歳の秋にはほとんど終わっていた。
あとは成人を待つだけだった。
◇
その日の午後。
エステラは父に頼まれた杖を受け取り、母に頼まれたタルトも受け取った。
どちらも屋敷へ届けるよう手配した。
自分では帰らなかった。
代わりに王都の中央区へ向かった。
大通りから一本入ったところに、四階建ての石造りの建物がある。
グレイヴァン商会。
王都でも五本の指に入る大商会だった。
入口で名を告げると、すぐに三階の応接室へ通された。
「時間どおりですね」
窓際に立っていた青年が振り返る。
濃い灰色の髪に、淡い金の瞳。
整った顔立ちは穏やかに見えるが、笑っていても目の奥まで柔らかくなることはない。
セヴラン・グレイヴァン。
グレイヴァン侯爵家の次男であり、この商会の実質的な経営責任者でもある。
二十二歳。
学院の教師から紹介されたとき、エステラはもっと年上の人物を想像していた。
「本当に来るとは思いませんでした」
「採用すると言ったのはセヴラン様でしょう」
「言いましたよ。ただ、貴族令嬢が十八歳の誕生日に実家を出て、そのまま商会へ就職する例は多くありません」
「私も多いとは思っていません」
セヴランは笑った。
「その返し方、嫌いではありません」
「褒められている気がしません」
「褒めています」
机の上には、すでに契約書が置かれていた。
エステラは椅子へ座り、一枚ずつ確認する。
雇用期間。
給与。
勤務時間。
住居手当。
機密保持。
途中で手を止めた。
「住居手当が、事前に聞いていた額より多いです」
「よく気づきましたね」
「気づきます」
「では訂正しましょう」
セヴランは悪びれずに言った。
「試したんですか?」
「少し」
「採用前の人間を?」
「採用するからこそです。契約書を読まずに署名する人間を、僕の近くで帳簿に触らせたくありません」
エステラは彼を見た。
「性格が悪いと言われませんか?」
「よく言われます」
即答だった。
それでいて楽しそうなのだから、反省する気はないらしい。
修正された契約書を確認し、エステラは署名した。
「これで今日から社員です」
「はい」
「住む場所は?」
「学院時代の知人が紹介してくれた下宿へ」
「却下」
「……はい?」
「女性一人で住むには場所が悪い」
「確認したんですか?」
「もちろん」
セヴランは机の引き出しから紙を一枚出した。
下宿周辺の地図だった。
「いつの間に」
「採用予定者の住所を確認するのは普通でしょう?」
「普通の範囲が広すぎませんか」
「僕の普通は少し広いんです」
さらりと言って、別の住所を示す。
「商会所有の集合住宅です。ここなら徒歩十分。家賃は給与から規定額だけ引きます」
「従業員用ですか?」
「ええ。空室があります」
条件を聞けば、悪くない。
むしろ良すぎるくらいだった。
「なぜそこまで?」
「優秀な人材に、通勤途中で面倒事に巻き込まれて辞められたら困るので」
エステラは疑わしげに彼を見た。
セヴランはにこやかに微笑んでいる。
信用していい顔には見えない。
だが、契約条件には不審な点がない。
「……分かりました」
「結構」
セヴランは満足そうに頷いた。
後になって思えば、この時点でかなり囲い込まれていた。
ただし当時のエステラは、それを知る由もなかった。




