第70話 いつもの隣が、少しだけ違う
十二歳の夏、学都アウルムは一年でいちばん騒がしい季節を迎えていた。
学院の夏季休暇に合わせて開かれる大市には、北方の毛皮、南方の香辛料、東から運ばれた穀物まで集まる。大通りには臨時の屋台が何十軒も並び、普段なら学院へ近づかない旅商人まで店を出していた。
その一角で、俺は巨大な鍋を前に腕を組んでいた。
「……多くない?」
「何が?」
隣で帳簿を確認していたフィアが顔も上げずに答える。
「客」
「多い方がいいでしょ」
「限度ってものがあるだろ!」
店の前には、すでに三十人以上が並んでいた。
今日はフィアの実家、ノルン商会の出店を手伝っている。
最初は「学院で研究した大量調理の実演も兼ねて料理を出さない?」という軽い話だった。
俺も軽い気持ちで了承した。
結果。
開店一刻もしないうちに、この行列である。
原因は分かっている。
研究祭で俺たちが作った大量調理の仕組みが、商人や宿屋の間で少し知られるようになっていた。その本人が祭りで料理を作る、とフィアの父親が宣伝したらしい。
商売人は怖い。
「レン! 三番の煮込み、あと八!」
トーマの声が飛ぶ。
「八!?」
「今ので十二!」
増えた。
レオルが配膳台で客に料理を渡している。
「次! 銅貨三枚! そっちは二枚!」
騎士家の息子なのに、完全に屋台の兄ちゃんになっている。
俺は鍋を混ぜながら店内を見る。
問題は料理そのものじゃない。
作る速度は足りている。
詰まっているのは注文だ。
客が前へ来る。
三種類の料理から選ぶ。
値段を聞く。
迷う。
注文する。
金を出す。
それから料理を受け取る。
一人が全部終わるまで、次の客が待っている。
「フィア!」
「何?」
「このままだと無理」
「あと百食分材料あるよ」
「そういう意味じゃない!」
俺の頭に前世の光景が浮かんだ。
文化祭。
ファストフード。
学食。
駅の売店。
昼時の飲食店。
大量の人間を短時間で捌く場所には、共通点があった。
一人が全部やっていない。
「注文と受け取り、分けよう」
フィアが顔を上げる。
「分ける?」
「最初に注文だけ取って金を受け取る。その時に、料理ごとに違う札を渡す」
俺は余った木片を三種類に分ける。
丸。
三角。
四角。
文字が読めない客でも分かる。
「丸なら肉煮込み。三角なら豆。四角ならパン付き。受け取り場所では札を見るだけ」
フィアの目が変わった。
完全に商人の顔だ。
「注文する列と受け取る列を別にするのね」
「そう。あとメニューも三つ全部説明しない」
「看板に値段と絵を出す」
「それ!」
トーマがすぐ木板を持ってきた。
レオルが眉をひそめる。
「人手は?」
「俺は鍋から離れない。レオルは受け渡し。トーマは盛り付け。フィアは注文」
「お前が決めるのかよ」
「異議ある?」
レオルが行列を見る。
「ない。早くやれ」
配置変更。
看板を前へ出す。
注文場所を数歩手前へ移動。
料理ごとに札を渡す。
受け取り場所では、客が持ってきた札と引き換えに皿を渡す。
最初の数人は戸惑った。
でも十人目くらいから、流れが変わった。
「丸一つ!」
フィアが札を渡す。
「次!」
客が移動する。
レオルが丸札を見る。
「肉一!」
トーマが盛る。
俺は鍋へ補充する。
止まらない。
さっきまで一人ずつ固まっていた列が、するすると動き始めた。
「おお……」
自分で考えたくせに、ちょっと感動する。
フィアはさらに改善した。
「レン、肉煮込みが一番出てる!」
「どれくらい?」
「今のところ半分以上!」
「じゃあ次の鍋、肉多め!」
「豆は仕込み減らす!」
注文数を見て、作る量まで変える。
俺が前世の感覚で流れを作り、フィアが数字を見て現実へ合わせる。
これ、相性いいな。
気づけば昼前にあった長い行列は、ほとんど消えていた。
最後の客へ料理を渡したレオルが、大きく息を吐く。
「終わった……」
トーマも椅子へ座り込んだ。
「腕取れそう」
俺は鍋の底を見る。
ほぼ空。
しかも材料の余りも少ない。
フィアが帳簿を確認している。
やがて顔を上げた。
「去年の同じ時間帯より、売上かなり増えてる」
「どれくらい?」
数字を聞く。
思った以上だった。
しかも客一人あたりの待ち時間は短い。
料理の廃棄も少ない。
俺は思わず拳を握った。
「よっしゃ!」
派手な魔法は使っていない。
新しい食材もない。
注文場所を分けて、役割を固定して、売れ方を見ながら仕込み量を変えただけ。
前世では珍しくもなかった店の仕組みが、ここではそのまま商売の武器になる。
気持ちいい。
かなり。
フィアの父親まで店の奥から出てきた。
「レン君」
「はい」
「この札の仕組み、商会の他の露店でも使っていいかな?」
「もちろん」
「使用料は?」
「え?」
隣でフィアが頭を抱えた。
「お父さん。レンにそういう話すると全部無料にするから、私を通して」
「全部はしないよ!」
「するよ」
信用がない。
夕方。
店を片付け終えた頃には、街中に魔法灯がつき始めていた。
夏市は夜まで続く。
仕事を終えた俺たちも、少しだけ祭りを見て回ることになった。
そこで俺は、ようやく気づいた。
フィアが制服じゃない。
今日は実家の商会を手伝うため、淡い色の夏服を着ていた。袖は普段より短く、髪も後ろで少しまとめている。首元には小さな銀の飾り。
何年も一緒にいる。
毎日のように顔を見ている。
なのに。
「……」
「何?」
フィアが振り向く。
近くの魔法灯が横顔を照らした。
一瞬、言葉が出なかった。
なんだこれ。
敵の攻撃か?
精神系?
十二歳になって急に状態異常を覚えるな、俺。
「レン?」
「いや」
「さっきから見てるけど」
「見てない」
「見てた」
「……服、いつもと違うなって」
フィアが自分の服を見る。
「商会の時はこれだけど」
「似合ってる」
言った。
数秒後。
自分が何を言ったか理解した。
「あ」
フィアも少しだけ目を丸くする。
「……ありがと」
終わり。
ただそれだけ。
なのに妙に気まずい。
レオルとトーマが少し前を歩いている。
追いつこう。
そう思ったところで、フィアも同じ方向へ歩き出した。
結果、いつものように隣になる。
いつもの距離。
いつもの相手。
なのに今日は、少しだけ近く感じる。
**「まずいな……何かが始まろうとしている気がする」**
「何が?」
「声に出てた?」
「出てた」
「忘れて」
「最近それ多いよね」
フィアが笑った。
その顔を見て、また少しだけ胸が変になる。
俺は慌てて前を向いた。
屋台から肉の焼ける匂いがする。
甘い果実の菓子。
音楽。
人の笑い声。
夏の夜。
前を歩く友達。
そして隣には、何年も一緒にいる女の子。
別に何も起こっていない。
手を繋いだわけでもない。
告白したわけでもない。
俺だって、これが何なのかまだよく分からない。
ただ一つだけ分かった。
いつも通りだったはずの隣が。
今日だけほんの少し、いつもと違って見えた。




