第1話 目が覚めたら、産声だった
「……あれ?」
その瞬間まで、俺は台所にいたはずだった。
ボロいアパートの狭いキッチン。特売で買った鶏むね肉を包丁で開き、妹の帰宅に合わせて夕飯を作っていた。
金はない。
父さんも母さんも今日も遅い。
だから、せめて妹には美味い飯を食わせてやりたかった。
昔、一度だけ言われたことがある。
『お兄ちゃん、これ美味しいよ』
焦げた野菜炒めを前に、妹は笑っていた。
でも俺には分かっていた。
あれは「美味しい」じゃない。
「せっかく作ってくれたから、美味しいって言わなきゃ」だ。
その日から俺は料理を覚えた。
安い肉を柔らかくする方法。
野菜の皮や芯から出汁を取る方法。
少ない調味料でも味を重ねる方法。
金がないなら、知恵と手間を使えばいい。
そう思っていた。
なのに。
「――おぎゃああああああ!」
……え?
今の声、俺?
目が開かない。
身体が動かない。
寒い。
そして、とてつもなく眩しい。
「生まれた! 生まれたぞ!」
知らない男の声。
「男の子よ……あなた……」
泣きながら笑う女の声。
待て。
待ってくれ。
俺はさっきまで十七歳だった。
鶏肉を切っていた。
死んだ記憶なんてない。
事故にも遭っていない。
なのに。
「よく頑張ったな、ミラ……!」
俺の小さな身体が、誰かの腕に抱き上げられる。
……まさか。
いやいやいや。
そんな馬鹿な。
転生?
しかも赤ん坊から?
「……ぁ、ぅ」
喋れない。
当然だ。
舌も喉も赤ん坊仕様だ。
俺は人生最大級の混乱の中、必死に周囲を観察した。
木造の天井。
隙間風。
粗末な毛布。
壁には灯りらしきものすらない。
父親らしき男の服は継ぎ接ぎだらけ。
母親は痩せている。
医者らしき人物はいない。
代わりに老婆が母親の額へ手をかざした。
「水の精よ、熱を鎮めたまえ」
青白い光が、老婆の掌から広がる。
俺は泣くのを忘れた。
……魔法?
本気か。
赤ん坊。
貧乏。
魔法。
どうやら俺は、とんでもない場所へ来たらしい。
その後、俺は「レン」と名付けられた。
父はガルド。
母はミラ。
二人とも驚くほど優しかった。
そして、驚くほど貧しかった。
食事は薄い麦粥。
たまに硬い肉。
野菜は煮る。
肉は焼く。
魚は塩を振って焼く。
以上。
俺が三歳になった頃には確信していた。
この世界には料理という概念が、ほとんど発達していない。
いや、食べ物はある。
調理もする。
でも、「どうすればもっと美味くなるか」を追求した文化がほとんどないのだ。
最初は絶望した。
醤油がない。
味噌がない。
砂糖も見ない。
包丁の切れ味は最悪。
火加減なんて「燃えてる」か「消えてる」かの二択。
だが同時に、少しだけ胸が高鳴った。
ないなら、作ればいい。
前にもそうだった。
金がないなら工夫した。
なら今度は――
文明そのものが足りないなら、そこから工夫すればいい。
そんな俺が四歳になった春。
母さんの腹が大きくなった。
そしてある夜。
小さな女の子が生まれた。
「レン。あなた、お兄ちゃんよ」
母さんがそう言って、赤ん坊を俺に見せた。
小さな手。
赤い頬。
ぎゅっと閉じた目。
その瞬間。
前世の妹の顔が浮かんだ。
胸の奥が、痛いほど締め付けられた。
俺は無意識に、その子の手を握っていた。
「……今度は」
声が震えた。
「絶対、美味いもん食わせてやる」
もちろん、誰にも意味は通じなかった。
ただ父さんと母さんだけが、
「もう立派なお兄ちゃんね」
と笑った。
この世界での妹の名前は、リナ。
そして俺はまだ知らなかった。
妹のためにもう一度始めることになる料理が、
やがて――神々が作り直したこの世界そのものを、ひっくり返すことになるなんて。




