09 元Aランク冒険者・ハインツ
翌朝。
お風呂の効果と完璧な水分補給のおかげで、ベッドに座るばあちゃんの肌には、前世の闘病中には見られなかったような健康的なツヤが戻っていた。
「ジン、本当に体が軽くなったよ。昔はベッドから起き上がるだけで、背中が痛くてたまらなかったのにねぇ」
「そりゃ、毎日『適温維持』のドームの中で、フカフカの敷布団に寝てるからね。体圧分散が完璧なんだよ」
ウェーイ、といつものチャラいノリでピースサインを返す。
しかし、だんだんスキルを使いこなせるようになってきた俺の目は、ばあちゃんの「次の課題」を捉えていた。
お風呂で身体を清潔に保ち、ナースコールで安全も確保した。
だけど、いつまでもベッドの上だけで過ごしていては、足の筋肉がどんどん衰えて、本当に寝たきりになってしまう。
高齢者の「離床」と「活動量の低下防止」は、健康寿命を伸ばすための超重要項目だ。
(まずは、部屋の外の空気を吸いに行こう。……そのためには、安全に移動するための『足』が必要だな)
物置きで使えそうな素材を探していると、外から「おい、ジン!」とガルの慌てた声が聞こえた。
「なんだ、ガルちゃん。そんなに慌てて、俺に朝のハグでもしてくれんの?」
「違うっての! 門のところに、誰か倒れてるんだよ!」
「は?」
急いでガルの後を追い、救護院のボロい木の柵まで走る。
赤茶けた荒野の境界線──そこに、一人の老人がうつ伏せに倒れていた。
白髪交じりのボサボサになった髪に、傷だらけのボロボロの革鎧。
その背中には、刃こぼれした巨大な大剣が背負われている。
何より異様だったのは、その老人の右脚だった。不自然な方向に曲がったまま、完全に固まってしまっている。
「おい、じいさん! しっかりしろ!」
俺が駆け寄り、老人の身体を仰向けにする。
意識を集中し、脳内のシステム画面を起動した。
【名前:ハインツ(72)】
【職業:元・Aランク冒険者(剣士)】
【状態:重度の栄養失調、極度の疲労、右大腿骨の陳旧性骨折(古傷が固まり、関節が拘縮している状態)】
【精神状態:絶望(戦えなくなり、ギルドを追放され、死に場所を探して彷徨っていた)】
(元、Aランク冒険者……。凄腕だったんだろうけど、脚を壊して用済み扱いされたってわけか)
まるで、戦闘能力が低いからと大聖堂からポイ捨てされた、俺の境遇と重なるようだった。
「ガル、このじいさんを中へ運ぶぞ。……アクティブ、【移乗介助:無重力抱擁】」
「お、おう! ……って、相変わらず、羽毛みたいに軽々と持ち上げんな!」
じいさんをリビングのソファに寝かせ、ガルが急いで淹れてくれた温かい白湯を少しずつ口に含ませる。
「う……うぅ……」
やがて、ハインツじいさんがうっすらと目を開けた。
片方の目には、かつて修羅場を潜り抜けてきた獣のような鋭さがあったが、その光は今にも消えそうに濁っている。
「……ここは、冥府か。それとも、ついに飢えて幻を見ておるのか……」
「地獄でも幻でもないよ、じいさん。ここはカルディア救護院。俺はジン。こいつは相棒のガル」
『相棒』と言った瞬間、ガルが誇らしそうに胸を張った。
「救護院……。ふん、私のような、剣も振れなくなった役立たずを囲う場所などないわ。放っておけ。この荒野で、魔物の餌として野垂れ死ぬのが、落ちぶれた老兵のふさわしい最期だ……」
ハインツは自嘲するように笑い、固まった右脚を忌々しそうに殴った。
「五年前、地竜との戦いでこの脚を壊した。教会の『聖治癒魔法』とやらは、傷口は塞いだが、歪んで固まった骨までは元に戻してくれんかった。走ることも、まともに立つこともできん。……ギルドからはお荷物扱いされ、最後はゴミのように追い出されたわ」
ハインツの言葉を聞いて、暖炉のそばでガルが悔しそうに耳を伏せる。
異世界は、どこまでも弱者に冷酷だ。
役に立たなくなったら、どれだけの功績があろうと切り捨てられる。
だが、俺はハインツの固まった右脚をじっと見つめ、ニヤリと笑った。
「へえ、聖魔法って、そんなにポンコツなんだ? 傷を塞ぐだけで、その後の『アフターケア』は丸投げかよ。本当、こっちの世界の医療ってセンスないわ〜」
「……何だと? 小僧、大口を叩くな。教会の高名な神官がサジを投げた脚だぞ!」
「じいさん。あんた、もう一度歩きたくない?」
尋ねる俺に、ハインツは目を見張った。だが、すぐに絶望に満ちた影がその瞳を覆う。
「ふざけるな……。そんな奇跡、この世にあるはずが──」
「奇跡じゃないよ。ただの『リハビリ』だ。──ガル、ちょっとキッチンから、昨日作ったゼリー持ってきて!」
「お、おう! 分かった!」
ガルが持ってきたのは、ハーブと果実をじっくり煮詰めた『特製・ぷるぷる栄養保水ゼリー』だ。
俺のスキルを使って、【食事形態調整:安全咀嚼化】と【栄養高効率化】を施している。
「ほら、じいさん。まずはこれ食って、体力戻しな」
スプーンですくって差し出す。
ハインツは怪訝そうな顔をしながらも、促されるままにゼリーを一口、口に含んだ。
「……っ!? なんだ、これは……!」
次の瞬間、老剣士の片目がこれでもかと大きく見開かれた。
「口の中で、一瞬でとろけて消えた……!? 温かくて、それでいて喉をすっと通り……。身体の奥底から、失われていた気力が、いや、魔力が、凄まじい勢いで湧き上がってくるぞ!?」
そりゃそうだ。俺の【栄養高効率化】は、普通の食事の数十倍の速度で栄養とエネルギーを細胞に浸透させる。
カラカラに乾いていたハインツの細胞に、極上の栄養が一瞬で行き渡り、みるみるうちに頬に赤みが戻っていく。
「よし、燃料は補給完了。……それじゃ、じいさん。ちょっと足、触るよ」
「な、何をする気だ……うわっ!?」
俺はハインツのベッドの横に膝をつき、歪んで固まった右脚に両手を当てた。
(アクティブ――【機能訓練介助:関節拘縮解除】、さらに【マッサージ:温熱循環】)
俺の手のひらから、優しく、だけど力強い黄金の光がじわぁっと放たれたと同時に、ハインツの右脚を包み込んだ。
「あ、熱い……いや、痛くない!? 重くて、まるで鉄板のようだった脚が、嘘のように軽くなって……!?」
介護における「リハビリ」は、固まった筋肉や関節を、本人の限界に合わせて優しく、正しくほぐしていく技術だ。
俺のスキルは、そのプロセスを数万倍の効率で行い、長年固まっていたハインツの関節を、まるで湯に浸した粘土のように柔らかく、本来の可動域へと戻していく。
パキパキ、と微かに心地いい音が響き、歪んでいたハインツの右脚が、まっすぐに伸びた。
「よし、これでベースは整った。じいさん、ゆっくり立ち上がってみ」
「バ、バカを言うな! 五年間、一度も自重を支えられなかった脚だぞ、立てるわけが──」
そう言いながらも、ハインツは自分の脚に、かつてない「感覚」が戻っていることに気づき、ごくりと息を呑んだ。
ゆっくりと、床に足を下ろす。
そして──。
「……まさか、こんなことが」
ハインツは、自分の両足で、しっかりと大地を踏み締めて立っていた。
ふらつくこともない。痛みもない。
失われていた「歩ける」という感覚が、確かにそこにあった。
「立った……! ハインツじいちゃんが、自分の足で立ったぞ!」
ガルが耳をピンと立てて、飛び跳ねて喜んでいる。
「う、嘘だろ……。教会の奇跡ですら治らなかった私の脚が……。お前、一体どんな上位神聖魔法を……」
信じられないものを見る目で俺を見るハインツに、俺は髪をくしゃっと掻きながら、いつも通りヘラヘラと笑ってみせた。
「だから、ただの【介護】だって。あんたがまた自分の足で歩いて、美味い飯を食って、笑顔になれるようにするだけ。……ようこそ、カルディア救護院へ。ハインツじいさん」
老剣士の目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、フカフカの床に吸い込まれていった。
魔王討伐の勇者たちが栄光のために戦う裏で。
最果ての辺境にある救護院に、また一人、俺の手によって「人生の光」を取り戻した頼もしい家族が加わった。




