02 カルディア救護院
どれくらい歩いただろうか。
太陽はすっかり傾き、赤茶けた荒野を不気味な紫色の影が覆い始めている。
二十歳にもなって就職せず、夜な夜な街を遊び惚けていた俺の体力なんて、とっくに限界を迎えていた。
「はぁ……っ、はぁ……まじで、死ぬわこれ……」
おろしたての革靴の底はすり減り、一歩歩くたびに足の裏から激痛が走る。
喉はカラカラに乾き、唾を飲み込むことすら痛い。
日本全国からランダムに拉致されて、ゴミだからと荒野にポイ捨て。
ネット小説の追放ものなら、ここで都合よく可愛い女の子に拾われたり、隠されたチート能力に気づいて魔物を一撃で倒したりするハズなんだけどな。
あたりを見渡しても、いるのは不気味な黒い鳥と、乾いた風の音だけ。
このまま誰にも気づかれず、異世界の土になる。それがハズレ人間である俺の、ふさわしい最期ってわけだ。
「……ん?」
ガクガクと震える膝をつきかけた、その時だった。
風に乗って、かすかに、本当に微かに『匂い』が鼻腔をくすぐった。
それは、ハーブのような独特の青臭さと──塩気の効いた、温かいスープの匂いだ。
「人、がいる……?」
生きる執念だけで、泥だらけの身体を動かす。
匂いのする方へ必死に這うようにして丘を越えると、そこには荒野の風景には不釣り合いな、粘土と木で造られた歪な建物が見えた。
ボロボロの木製の看板には、見たこともない異世界の文字。
だけど、なぜか俺の頭には、それが【カルディア救護院】と翻訳されて流れ込んできた。
「たの……む……だれか……」
擦り切れた声で叫びながら、俺は建物の粗末な木の扉に倒れ込んだ。
ドン、と鈍い音が響き、俺の意識はそこで一度、真っ暗な闇に落ちた。
♢
「──起きろ。死んでねえだろうな、おい」
粗い声に揺り動かされ、俺はうっすらと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、頭にピンと立った三角の耳を持つ、泥だらけの少年だった。年齢は十代半ばくらいだろうか。茶色い獣の耳と尻尾をせわしなく動かしながら、酷く不機嫌そうな顔で俺を覗き込んでいる。
「……ここは?」
「カルディアの救護院だ。あんた、変な服着て行き倒れてたんだよ。ほら、飲めるか?」
少年が差し出してきた木製の器には、さっき匂った温かいスープが入っていた。
俺は貪るように、それを飲み干す。塩気と野菜の旨味が、干からびかけた身体に染み渡っていくようだった。
「ふぅ……生き返った。ありがとな、えっと」
「ガルだ。犬獣人のガル。ったく、こんな最果ての泥臭い辺境に、金髪のチャラついた人間が何しに来たんだよ」
ガルは呆れたように息を吐きながらも、空になった器を受け取ってくれた。
言葉遣いはぶっきらぼうだけど、どうやら悪い奴じゃないらしい。
ふと、部屋の奥から、ひどく苦しそうな、小さく掠れた咳の音が聞こえた。
コンコン、と力ない音。
吸い寄せられるように、俺は部屋の隅にある、今にも壊れそうな木製のベッドへ視線を向けた。
そこに横たわっていたのは、白い髪を乱し、酷く痩せ細った一人の老女だった。
粗末な毛布に包まれたその姿は、前世の病院のベッドで、どんどん小さくなっていった『あの人』の姿に、嫌になるほど重なった。
「……ガル、あのお婆さんは?」
「マレッタばあちゃんだよ。数ヶ月前にこの領地に流れ着いたんだけど……もうずっと寝たきりで、最近は水もまともに飲めねえんだ。ここには医者も薬もねえし、もう長くないと思う……」
ガルの声が、悔しそうに震える。
もう長くない。
また、その言葉か。
胸の奥から、ドロリとした黒い後悔がせり上がってくる。
あの通夜の夜、母親に言われた言葉が耳の奥でリフレインする。
『あんたはいつもそうやってヘラヘラして!』
『出来損ない!』
俺はフラフラと立ち上がり、ベッドのそばへと歩み寄った。
寝息すら細く、今にも消えてしまいそうな小さな手を、俺は両手でそっと包み込む。
冷たかった。
あの時、葬儀場で触れたばあちゃんの手と同じくらい、冷え切っていた。
(ごめんな、ばあちゃん。俺、また何もできないや――)
そう思った、次の瞬間だった。
ピピッ、と俺の脳内に、大聖堂で見たあの無機質なシステム音声が鳴り響いた。
『──スキル【介護】を発動します』
『介護対象の魂をスキャン中……適合。魂の波長が前世の固有対象【マレッタ】と完全一致しました』
『【介護】固有能力:生命維持をアクティブにします』
俺の手のひらから、じんわりと、驚くほど温かい黄金の光が溢れ出した。
「……え?」
その光が吸い込まれるように、彼女の身体を優しく包み込んでいく。
すると、息苦しそうだった呼吸が、みるみるうちに穏やかなものへと変わっていった。枯れ木のようだった頬に、うっすらと健康的な赤みが差してくる。
「な、なんだよこれ!? あんた、何したんだ!?」
ガルが驚愕の声をあげるが、俺の耳には届かなかった。
ベッドの上のマレッタばあちゃんが、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その瞼を持ち上げたからだ。
記憶にあるのと同じ、ひどく優しくて、温かい琥珀色の瞳。
その瞳が、じっと俺の顔を見つめて──やがて、シワの刻まれた口元が、ふわりと優しく綻んだ。
「おや……ジンかい? ジンなんだねぇ……」
掠れた、だけど間違いなく俺の名前を呼ぶ声。
世界中で誰も俺を信じてくれなかった時、唯一『優しい子だ』と言ってくれた、大好きなあの声だった。
「ばあ、ちゃん……?」
視界が、一瞬で涙でぐしゃぐしゃに歪む。
俺は子供のように声を上げて泣きながら、その温かくなった手を、壊さないように、だけど二度と離さないようにギュッと強く握りしめた。
「ばあちゃん……っ! ごめん、ごめんな……! 今度は、今度は絶対に、俺がばあちゃんを幸せにするから……っ!」
魔王討伐? 世界平和? そんなもんは勇者たちに全部くれてやる。
神様がくれたこのゴミみたいなハズレスキルは──他の誰でもない、この人をもう一度抱きしめるためにあったんだ。
最果ての泥臭い辺境で、俺の、命がけの恩返しが始まった。




