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第34話 【正義の値段】



事務室。


夜九時。


職員はほとんど帰った。


残っているのは大森だけ。


机の上。


退職届。


また一人辞める。


今年七人目だった。


扉が開く。


榊だった。


「まだいましたか。」


「帰れないので。」


大森は笑う。


笑っていない笑顔だった。


榊は椅子へ座る。


しばらく沈黙。


そして退職届を見る。


「また辞めるんですね。」


「ええ。」


「止めないんですか。」


大森は少し考えた。


「止めても意味ないから。」


「・・・。」


「辞める人は限界だから辞めるんです。」


榊は何も言わない。


しばらくして。


榊が口を開く。


「私は間違っていますか。」


大森は顔を上げる。


初めてだった。


榊がそんなことを聞くのは。


「解任の件ですか。」


「ええ。」


「佐藤さんの件。」


榊は続ける。


「事故は起きています。」


「ミスもあります。」


「記録不備もあります。」


「家族苦情もあります。」


「普通なら対象です。」


その通りだった。


病院なら。


解任だった。


大森はゆっくり答える。


「榊さん。」


「はい。」


「佐藤が辞めたら。」


「・・・。」


「来月の夜勤。」


「二十二回分空きます。」


榊は黙る。


「補充できますか。」


「・・・。」


「応募はありません。」


「・・・。」


「派遣も来ません。」


「・・・。」


「新人も入りません。」


「・・・。」


「利用者は減りません。」


「・・・。」


「認知症も減りません。」


「看取りも減りません。」


「転倒も減りません。」


「コールも減りません。」


静寂。


大森の声は静かだった。


だから余計に重かった。


「正しい人を残す。」


「問題ある人を切る。」


「それは正しいです。」


「でも。」


「切った後は?」


榊は答えられない。


大森は立ち上がる。


窓の外。


真っ暗だった。


「私も昔は。」


「もっと理想を信じてました。」


「・・・。」


「事故ゼロ。」


「虐待ゼロ。」


「離職ゼロ。」


「利用者満足度向上。」


「全部できると思ってました。」


少し笑う。


寂しそうに。


「でも。」


「現実は違った。」


「・・・。」


「職員が一人辞めるだけで。」


「残った職員が倒れる。」


「残った職員が倒れると。」


「利用者が犠牲になる。」


「利用者が犠牲になると。」


「家族が泣く。」


「家族が泣くと。」


「職員も泣く。」


「そしてまた辞める。」


榊は何も言えない。


目の前にいるのは、


言い訳している主任じゃない。


二十年現場で潰れそうになりながら、


それでも残った人間だった。


その時。


事務室の外で物音。


美月だった。


夜勤前。


薬を取りに来ただけ。


だが。


最後の会話を聞いてしまった。


「私は。」


美月が呟く。


二人が振り返る。


「辞めた方が良かったですか。」


空気が凍る。


美月の目は赤かった。


「私。」


「迷惑ですよね。」


「・・・。」


「事故もあるし。」


「ミスもあるし。」


「みんな疲れてるし。」


「私がいない方が良いなら。」


声が震える。


大森が立ち上がる。


そして。


美月の前まで行く。


「馬鹿。」


初めてだった。


大森がそんな言葉を使うのは。


「あなたが辞めたら。」


「・・・。」


「私が困る。」


「・・・。」


「利用者も困る。」


「・・・。」


「美月。」


主任ではなく。


名前で呼ぶ。


「あなたは問題のある職員じゃない。」


「・・・。」


「疲れてる職員なの。」


美月の涙が溢れる。


止まらない。


榊はその光景を見ていた。


そして。


初めて理解する。


この業界で一番恐ろしいのは。


悪人じゃない。


疲弊だ。


善人を壊していく疲弊。


それこそが本当の敵だった。


その夜。


病院から電話が入る。


大森の母。


血圧低下。


呼吸状態悪化。


家族へ来院要請。


大森は携帯を握る。


分かっていた。


その時が来た。


春子と同じように。


今度は母が、


人生の終わりへ向かっている。


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