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第33話 【帰る場所】


母の病室は静かだった。


夕方。


窓から赤い光が差し込んでいる。


大森は椅子へ座った。


今日は仕事を休んだ。


主任としてではなく。


娘として。


母は目を閉じていた。


呼吸は浅い。


時折むせる。


看護師が吸引を行う。


透明な痰。


大森は自然と量や性状を見てしまう。


職業病だった。


そして嫌になる。


今は娘でいたいのに。


つい観察してしまう。


「母さん。」


母がゆっくり目を開けた。


「あら。」


「いたの。」


少し笑う。


昔と同じだった。


大森は泣きそうになる。


しばらく二人は無言だった。


テレビもない。


会話もない。


ただ一緒にいる。


それだけ。


でも。


今まで何年もできなかったことだった。


やがて母が言った。


「ごめんね。」


大森は顔を上げる。


「何が。」


「迷惑かけて。」


まただ。


春子もそうだった。


親は最後まで親だった。


自分のことより。


子どものことを気にする。


「迷惑じゃない。」


大森は即答した。


母が笑う。


「嘘。」


その言い方まで春子と同じだった。


沈黙。


窓の外では夕焼け。


やがて母がぽつりと言う。


「帰りたいな。」


大森の胸が締め付けられる。


来た。


春子と同じ言葉。


でも。


今なら分かる。


家じゃない。


場所じゃない。


「どこに?」


大森は聞く。


母は少し考える。


そして。


小さく笑った。


「分からない。」


「・・・。」


「でも。」


「帰りたい。」


大森は涙を堪える。


母は続ける。


「お父さんいるかな。」


父は十五年前に亡くなった。


「いるよ。」


大森は言った。


初めてだった。


職業人としてではなく。


娘として答えた。


母は安心したように目を閉じる。


そして。


しばらくして。


小さな声で言った。


「お願いがある。」


大森は身を乗り出した。


「仕事。」


「・・・。」


「辞めないでね。」


大森は固まる。


予想していなかった。


「あなた。」


「昔から。」


「誰かのために頑張るの好きだから。」


「・・・。」


「辞めちゃ駄目だよ。」


大森の視界が滲む。


母は知らない。


何度も辞めようと思ったことを。


夜勤明けに泣いたことを。


利用者を看取った後、


車で一人泣いたことを。


人が足りなくて、


自分を責め続けたことを。


全部知らない。


でも。


母は見抜いていた。


「母さん。」


声が震える。


「私。」


「うん。」


「頑張ったかな。」


初めてだった。


主任でも。


介護職でもなく。


娘として聞いた。


母は目を閉じたまま答える。


「頑張ったよ。」


それだけだった。


たったそれだけ。


でも。


大森はもう耐えられなかった。


ベッドへ顔を伏せる。


肩が震える。


嗚咽が漏れる。


何十年分もの涙だった。


病室の外。


若い看護師がそっと扉を閉めた。


見ないふりをした。


家族の時間だから。


夜。


大森は施設へ戻る。


事務室。


誰もいない。


机の上には勤務表。


欠員。


夜勤調整。


残業申請。


いつもの現実。


その中に一枚の紙。


退職届。


別の職員のものだった。


また一人辞める。


大森はそれを見つめる。


そして。


母の言葉を思い出す。


「辞めないでね。」


その時。


事務室の扉が開く。


榊だった。


久しぶりに、


二人だけになる。


榊は退職届を見る。


そして大森を見る。


何も言わない。


だが。


この二人は次の話でぶつかる。


解任か。


支援か。


榊が信じる正義と、


大森が信じる現実が。


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