表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/36

第32話 【その時は突然に】



電話が鳴ったのは夜勤中だった。


午前二時十三分。


記録入力中。


大森は一瞬で目が覚めた。


病院からだった。


嫌な予感しかしない。


「大森さんでしょうか。」


「はい。」


「お母様ですが。」


その瞬間。


現場の人間特有の感覚が走る。


もう分かった。


良い連絡じゃない。


「誤嚥性肺炎が悪化しています。」


「・・・。」


「呼吸状態も不安定です。」


「・・・。」


「できれば早めに来院をお願いします。」


大森は目を閉じた。


早めに来院。


また優しい言葉。


本当の意味は知っている。


来てください。


今のうちに。


大森は夜勤者へ声を掛ける。


「少し抜ける。」


「主任?」


「母が。」


それだけで全員分かった。


介護職は知っている。


その言葉の重さを。


病院へ着いたのは明け方だった。


母は眠っていた。


酸素マスク。


痩せた身体。


弱い呼吸。


大森は椅子へ座る。


手を握る。


冷たい。


春子と同じだった。


「母さん。」


反応はない。


「来たよ。」


反応はない。


でも。


手を握る指が少し動いた気がした。


朝。


担当医から説明。


肺炎。


嚥下機能低下。


栄養状態低下。


反復する誤嚥。


そして。


「回復は難しいと思われます。」


大森は頷く。


理解はできる。


嫌になるほど。


何百回も家族へ説明した。


でも。


受け入れられない。


病室を出る。


廊下。


窓際。


そこへ一人の看護師が来た。


若い看護師だった。


「娘さんですか。」


大森は頷く。


看護師は申し訳なさそうに言った。


「昨日から食事も取れていなくて。」


「・・・。」


「もっと早く受診していれば・・・」


その言葉で。


大森の身体が固まる。


もっと早く。


その言葉。


何度聞いた。


何度言った。


もっと早く受診していれば。


もっと早く家族へ連絡していれば。


もっと早く気付いていれば。


介護施設の魔法の言葉。


後悔だけが残る言葉。


大森は病院を出た。


そして。


母の入所施設へ向かった。


施設長。


主任。


相談員。


再び説明。


再び謝罪。


再び頭を下げる職員。


大森は黙って聞いていた。


怒鳴らない。


もう怒鳴れなかった。


だって知っている。


この人たちも眠れていない。


休めていない。


必死に働いている。


面談が終わる。


若い介護職員が出口で待っていた。


二十代前半。


目が赤い。


泣いた後だった。


彼女は震える声で言った。


「ごめんなさい。」


「・・・。」


「私が夜勤でした。」


「・・・。」


「もっと早く気付いていたら。」


「・・・。」


「もっとちゃんと見ていたら。」


涙が止まらない。


大森は何も言えない。


その子の手を見る。


荒れていた。


爪も割れている。


何度も手洗いした手。


介護職の手だった。


その瞬間。


大森は理解する。


この子も苦しんでいる。


家族と同じくらい。


いや。


もしかしたらそれ以上に。


大森はゆっくり頭を下げた。


若い職員が驚く。


「主任さん?」


大森は震える声で言う。


「ありがとう。」


「・・・。」


「母を見てくれて。」


職員は泣き崩れた。


その場で。


大森も泣いた。


職員も泣いた。


施設長も俯いていた。


誰も悪人じゃない。


それなのに。


こんなにも悲しい。


その日の夕方。


グリーンヒルズなごみ。


大森が戻る。


美月が待っていた。


「主任。」


「・・・。」


「お母さん。」


大森は少しだけ笑う。


泣きそうな顔で。


「たぶん。」


「もう長くない。」


美月は何も言えない。


その時。


遠くから榊がその様子を見ていた。


何も言わない。


ただ。


病院編では見えなかったものを見ていた。


解任では救えない現実。


数字にも。


報告書にも。


内部告発にも現れない悲劇。


そして。


大森の母は、


春子と同じ道を歩き始めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ