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第30話 【経過観察】


母が入所していた施設は地方都市の郊外にあった。


特別養護老人ホーム。


築二十年。


定員八十名。


どこにでもある施設だった。


良くも悪くも。


大森は面会室へ通された。


施設長。


介護主任。


相談員。


三人が座っていた。


その光景を見た瞬間。


胸が苦しくなる。


自分も何度もやった。


利用者家族への説明。


事故報告。


謝罪。


今日は逆側だった。


施設長が頭を下げる。


「この度は申し訳ございませんでした。」


大森は何も言わない。


主任が事故報告書を差し出す。


転倒発生時刻。


23時40分。


巡視頻度。


2時間毎。


発見時。


ベッド脇に転倒。


頭部打撲。


救急搬送。


文章を読む。


そして。


手が止まった。


【経過観察】


【様子観察】


【本人より疼痛訴えなし】


大森の指が震える。


次のページ。


【食事摂取量低下】


【経過観察】


【活動量低下】


【経過観察】


【体重減少】


【様子観察】


【傾眠傾向】


【経過観察】


大森は目を閉じた。


何百回。


いや。


何千回書いただろう。


経過観察。


様子観察。


異常なし。


現場では便利な言葉。


忙しい時。


判断に迷った時。


使う。


そして。


本当に何も起きないことも多い。


だが。


家族になった今。


全部違って見えた。


「受診は検討されなかったんですか。」


大森が聞く。


主任が答える。


「夜間でして・・・」


「・・・。」


「ご本人も大丈夫と仰っていて。」


「・・・。」


「経過観察としていました。」


その言葉を聞いた瞬間。


大森の中で何かが切れた。


「経過観察?」


空気が凍る。


「体重減少も。」


「食事低下も。」


「傾眠も。」


「全部経過観察?」


主任が俯く。


「人員不足で・・・」


「夜間帯は二名しかおらず・・・」


「受診判断も・・・」


大森は立ち上がった。


椅子が音を立てる。


「それで済むと思ってるんですか!」


主任が震える。


相談員も。


施設長も。


大森は止まらない。


「家族がどんな思いで!」


「どれだけ信じて預けてるか!」


「分かってるんですか!」


叫んだ。


病院の廊下まで聞こえるくらい。


主任の目に涙が浮かぶ。


「すみません・・・」


「精一杯やってたんです・・・」


「夜勤二人なんです・・・」


「欠員もあって・・・」


その言葉で。


大森が止まった。


夜勤二人。


欠員。


受診判断に迷う。


記録に経過観察と書く。


全部知っている。


全部。


自分の施設でも起きている。


大森の視界が滲む。


目の前の主任。


疲れ切った顔。


目の下の隈。


荒れた手。


何年も現場で見てきた。


鏡みたいだった。


昔の自分だった。


「・・・。」


言葉が出ない。


怒鳴りたい。


責めたい。


でも。


責めきれない。


なぜなら。


この人も被害者だから。


制度の。


人材不足の。


超高齢社会の。


大森はゆっくり座った。


そして。


両手で顔を覆う。


肩が震える。


「分かってる・・・」


誰に言ったのか分からない。


「分かってるんだ・・・」


涙が落ちる。


「あなた達が悪いんじゃない・・・」


主任も泣いていた。


施設長も俯いていた。


誰も悪人じゃない。


でも。


母は傷ついた。


家族は後悔している。


職員は疲弊している。


利用者は亡くなる。


なのに。


誰も悪人じゃない。


それが一番残酷だった。


大森は嗚咽を漏らした。


介護主任でもない。


家族支援者でもない。


ただの娘として。


声を上げて泣いた。


そして初めて。


榊が追っているものの正体が見え始める。


不正でも。


悪意でもない。


もっと巨大で。


もっと見えない敵。


制度そのもの。



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