第29話 【家族】
朝九時。
携帯を持つ手が震えていた。
「お母様の件でご連絡です。」
電話の向こう。
女性職員の声。
聞き慣れた声だった。
いや。
正確には。
何百回も聞いてきた声だった。
施設職員の声。
家族へ電話をかける時の声。
慎重で。
丁寧で。
そして少しだけ硬い声。
嫌な予感しかしない。
「母に何かありましたか。」
大森は聞く。
「昨夜転倒されまして。」
世界が止まる。
転倒。
介護職なら誰でも反応する言葉。
軽傷もある。
骨折もある。
頭部外傷もある。
死亡もある。
全部知っている。
だから怖い。
「状態は。」
沈黙。
一秒。
二秒。
長かった。
「現在入院されています。」
大森は立ち上がった。
椅子が倒れる。
美月が振り向く。
「主任?」
大森は答えない。
答えられない。
一時間後。
新幹線。
窓の外が流れていく。
大森は何も見ていない。
頭の中にあるのは一つだけ。
なぜ。
なぜもっと早く帰らなかった。
春子のことを考えていた。
毎日。
毎日考えていた。
家族は後悔する。
会える時に会え。
後悔する前に会え。
そう言っていた。
なのに。
自分は何をしていた。
施設。
夜勤。
会議。
欠員。
言い訳ならいくらでもある。
でも。
母は待っていた。
電話の向こうで。
「今度帰る。」
その言葉を信じて。
病院。
病室。
大森は息を切らしながら入った。
母がいた。
ベッドの上。
酸素。
点滴。
包帯。
その姿を見た瞬間。
大森の足が止まった。
母が小さく笑う。
「来たの?」
その言葉で。
涙が出そうになる。
でも。
主任だから。
介護職だから。
娘だから。
泣かない。
「どうしたの。」
必死に笑う。
母も笑う。
「転んじゃった。」
冗談みたいに。
軽く言う。
でも。
大森は知っている。
高齢者の転倒は。
人生を変える。
時には命を奪う。
面会後。
大森は担当医の説明を受けた。
骨折。
肺炎。
栄養状態低下。
認知機能低下。
説明が続く。
そして。
最後の言葉。
「今後についてご家族でご検討ください。」
大森は固まった。
今後。
その言葉の意味を知っている。
施設入所。
看取り。
延命。
人生会議。
全部。
春子で経験した。
ついこの前。
病院の廊下。
大森は壁へ寄りかかった。
足に力が入らない。
春子の家族へ説明した。
何百回も。
何千回も。
でも。
自分が家族になると、
何一つ冷静でいられなかった。
その時。
携帯が鳴る。
美月だった。
「主任。」
「・・・。」
「お母さん大丈夫ですか。」
大森は答えようとした。
でも。
声が出ない。
喉が詰まる。
数秒後。
ようやく言えた。
「分からない。」
それだけだった。
現場では何でも答えてきた。
家族を支えてきた。
でも。
今はただの娘だった。
何も分からない。
何もできない。
電話を切ったあと。
大森は病院の非常階段へ向かった。
誰もいない場所。
冷たいコンクリートの壁。
そこで。
初めて声を漏らした。
「母さん・・・」
小さな声。
そして。
「ごめん・・・」
涙が落ちる。
止まらない。
春子の時は耐えられた。
でも。
今回は違う。
自分の母だった。




