第26話 【明日行こう】
春子はほとんど目を開けなくなった。
呼びかけには反応する。
だが。
また眠る。
その繰り返しだった。
浩一は会社にいた。
午前十時。
パソコン画面を見ている。
だが何も頭に入らない。
施設からの連絡。
【状態変化あり】
【いつ急変してもおかしくない状態】
その文面だけが頭に残る。
休もうか。
今から行こうか。
母のところへ。
そう思う。
だが。
現実が邪魔をする。
午後から会議。
明日は取引先との打ち合わせ。
月末。
部下の評価面談。
休めない。
いや。
休もうと思えば休める。
だが。
その皺寄せは誰かへ行く。
自分がよく知っている。
だから迷う。
そして。
人は迷った時、
未来の自分へ問題を先送りする。
明日行こう。
今日じゃなくて。
明日。
昼休み。
浩一はスマホを見る。
春子の写真。
去年の誕生日。
ケーキを前に笑っている。
まだ元気だった。
その時。
隣席の同僚が言う。
「大丈夫ですか?」
浩一は笑う。
「大丈夫。」
嘘だった。
施設。
美月は春子の手を握っていた。
細い。
軽い。
まるで紙みたいだった。
「春子さん。」
反応はない。
「浩一さん来ると思いますよ。」
返事はない。
でも。
まぶたが少しだけ動いた気がした。
その頃。
大森は面談室にいた。
新人職員との面談。
「辞めたいです。」
まただった。
今年五人目。
新人は泣いていた。
「利用者さんが亡くなるのが辛いんです。」
「・・・。」
「頑張っても良くならないし。」
「・・・。」
「自分が何してるか分からなくなります。」
大森は黙る。
十年前。
同じことを思った。
二十年前も。
今も。
答えはまだ出ていない。
「辞めるな。」
とは言わなかった。
代わりに聞いた。
「利用者さんにありがとうって言われたことある?」
新人は頷く。
涙を流しながら。
「あります。」
「じゃあ。」
大森は少し笑う。
「もう十分役に立ってる。」
新人は泣いた。
大森も泣きそうだった。
夜。
大森は実家行きの新幹線を調べていた。
来月。
再来月。
予定表を開く。
空いている日がない。
研修。
会議。
夜勤。
欠員対応。
全部埋まっている。
大森は苦笑した。
春子の家族へは言う。
「会える時に会ってください。」
「後悔しないように。」
何百回も言った。
なのに。
自分は帰れていない。
母に会えていない。
携帯が鳴る。
母からのメッセージ。
【無理しなくていいからね】
たったそれだけ。
大森の目が潤む。
親というのは。
いくつになっても親だった。
翌朝。
午前四時。
夜勤中の美月が春子の部屋へ入る。
薄暗い部屋。
静かな呼吸。
いや。
静かすぎた。
美月は近づく。
胸を見る。
呼吸。
一回。
長い間隔。
もう一回。
さらに長い間隔。
美月の背中に緊張が走る。
長年現場にいる人間なら分かる。
その時が近い。
美月は静かに携帯を取った。
家族連絡。
浩一の番号を開く。
震える指。
そして発信ボタンを押した。
電話の呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
出ない。
午前四時だから当然だった。
だが。
美月は祈る。
出てください。
お願いだから。
出てください。




