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第21話 【慣れ】

朝六時。


グリーンヒルズなごみ。


夜勤終了まであと一時間。


美月は春子の部屋へ向かった。


暗い部屋。


薄く開いたカーテン。


春子は眠っていた。


呼吸は浅い。


以前よりずっと。


胸の上下動も小さい。


「春子さん。」


返事はない。


肩へ触れる。


ゆっくり目を開けた。


そして。


微笑んだ。


美月の胸が締め付けられる。


この笑顔だ。


いつも。


いつもそうだ。


苦しくても。


辛くても。


ありがとうと言う。


迷惑をかけてごめんと言う。


助けてとは言わない。


食事介助。


スプーンを口へ運ぶ。


一口。


飲み込めない。


二口目。


むせる。


三口目。


またむせる。


美月は手を止めた。


春子が小さく言う。


「ごめんね。」


まただ。


また謝る。


「謝らなくていいです。」


「でも・・・」


「謝らなくていい。」


少し強い口調だった。


春子が驚く。


美月は俯いた。


涙が出そうだった。


その時。


廊下からコール音。


ピンポーン。


また鳴る。


別の部屋。


さらにもう一つ。


別の利用者。


朝は戦場だ。


春子だけを見ていられない。


分かっている。


分かっているのに。


美月は立ち上がれなかった。


「行って。」


春子が言う。


「え?」


「忙しいんでしょ。」


微笑んでいた。


その笑顔が痛い。


「春子さん・・・」


「大丈夫。」


大丈夫じゃない。


誰が見ても分かる。


でも。


コールは鳴り続ける。


美月は部屋を出た。


そして。


扉が閉まる瞬間。


春子が一人になる。


その光景が、


なぜかたまらなく怖かった。


昼休み。


職員食堂。


大森が座っている。


疲れ切った顔。


美月は聞いた。


「主任。」


「なに。」


「春子さん・・・」


言葉が続かない。


大森は分かった。


何を聞きたいのか。


「長くないと思う。」


静かな声。


美月は俯く。


「病院行ったら変わりますか。」


沈黙。


「分からない。」


「・・・。」


「でも治るわけじゃない。」


「・・・。」


「九十一歳だから。」


その言葉が重い。


現実だからだ。


その夜。


浩一は仕事帰りに施設へ寄った。


予定外の面会。


なんとなく。


ただなんとなく。


胸騒ぎがした。


部屋へ入る。


春子が眠っている。


浩一は椅子へ座った。


手を握る。


軽い。


あまりにも軽い。


昔。


自分が子供だった頃。


この手に引かれて歩いた。


運動会。


入学式。


初めて就職した日。


全部覚えている。


なのに。


今は。


自分が手を支えている。


いつからだろう。


こんなに小さくなったのは。


浩一は笑った。


泣きそうになるから。


笑った。


「母さん。」


返事はない。


「俺さ。」


声が震える。


「まだ親孝行してないんだよ。」


喉が詰まる。


「全然してない。」


「だから・・・」


その先が言えない。


言ったら本当になる気がした。


最期が近いと。


認めることになるから。


その頃。


大森は一人で記録を入力していた。


春子。


食事摂取。


一割。


体重減少。


呼吸状態悪化。


カーソルが点滅する。


そして。


いつもの言葉を打とうとした。


【経過観察】


手が止まる。


五年前。


山下が言った。


『経過観察じゃない』


『現実から目を逸らしてるだけだ』


大森は目を閉じた。


数秒。


数十秒。


そして。


キーボードを打つ。


【状態悪化】


【家族へ説明必要】


初めてだった。


何年ぶりだろう。


現実を、


現実のまま記録したのは。


その瞬間。


大森の目から涙が落ちた。


誰も見ていない。


だから拭わなかった。


ただ静かに。


何年分もの涙が溢れていた。


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