第20話 【誰にも見せない涙】
春子が食べられなくなった。
むせる。
飲み込めない。
眠っている時間が増えた。
食事摂取量。
三割。
二割。
一割。
そして。
家族へ連絡が入った。
「状態が少し変わってきています。」
浩一は仕事中だった。
会議室。
上司が話している。
だが内容は入ってこない。
母の顔が浮かぶ。
痩せた腕。
細くなった手。
「大丈夫です。」
そう言われ続けた。
だが。
大丈夫ではなかった。
その日の夜。
帰宅後。
浩一は誰もいないリビングに座っていた。
妻は風呂。
子どもは自室。
静かな家。
スマホの写真を開く。
十年前。
母と撮った写真。
運動会。
孫を抱いて笑っている。
元気だった。
当たり前のように。
ずっと生きていると思っていた。
浩一の肩が震える。
「ごめん・・・」
誰もいない。
だから初めて言えた。
「ごめん母さん・・・」
声が漏れる。
「家で見てやれなくて・・・」
涙が落ちる。
「仕事だからって・・・」
「施設に預けて・・・」
「俺・・・」
最後まで言えなかった。
嗚咽だけが残った。
その頃。
施設。
休憩室。
佐藤美月は一人だった。
春子の記録。
田中の記録。
五年前の事故記録。
机に並ぶ紙。
何度見ても答えがない。
誰も悪人じゃない。
大森も。
西田も。
施設長も。
みんな頑張っている。
みんな疲れている。
みんな限界だった。
それなのに。
利用者は衰えていく。
死んでいく。
美月は顔を覆った。
「なんなんだよ・・・」
初めてだった。
新人の頃から泣かなかった。
利用者が亡くなっても。
家族に怒鳴られても。
辞めたいと思っても。
泣かなかった。
でも。
春子の
「みんな忙しいから」
あの言葉だけは駄目だった。
涙が溢れる。
「違うんだよ・・・」
「春子さん・・・」
「違うんだよ・・・」
「あなたが悪いんじゃない・・・」
誰もいない休憩室。
美月は声を殺して泣いた。
そして深夜。
施設長室。
大森恵子は一人で残っていた。
窓の外。
真っ暗な駐車場。
パソコン画面には配置表。
空欄。
退職者。
欠員。
赤字。
また赤字。
その横には。
春子の記録。
田中の記録。
そして。
五年前の事故報告書。
大森はそれを見つめる。
若かった自分。
正義感だけは誰より強かった。
山下と一緒に戦った。
事故を減らそうとした。
利用者を守ろうとした。
あの日。
確かにそう思っていた。
なのに。
いつからだろう。
「今日は事故がなかった」
ではなく。
「今日は乗り切れた」
そう考えるようになったのは。
大森は机に突っ伏した。
誰もいない。
だから。
初めて泣いた。
声も出さず。
肩だけ震わせる。
涙が止まらない。
「ごめんなさい・・・」
誰に言ったのか。
自分でも分からない。
春子か。
田中か。
山下か。
若い頃の自分か。
分からない。
ただ。
謝り続けた。
何度も。
何度も。
「ごめんなさい・・・」
翌朝。
浩一は会社へ向かった。
美月は出勤した。
大森は職員へ指示を出した。
誰も泣いたことを知らない。
みんないつも通りだった。
笑顔を作る。
挨拶をする。
仕事をする。
だって。
泣いたところで。
今日も利用者は待っているから。
その日。
春子は珍しく目を開けていた。
そして。
美月に向かって微笑む。
「ありがとう。」
たった一言。
それだけだった。
その言葉が。
美月の胸をさらに締め付けた。




