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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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36話 春の兆し

 二月の終わり、データが動いた。

 発光ピークが早くなり始めた。十二月から一月にかけて遅延を続けていた数値が、二月の第二週で底を打ち、そこから反転した。二十時四十二分十秒が底。以降、一週間ごとに五秒から十秒ずつ早まっている。

 美月はグラフにペンを走らせた。新しいノートの百四十ページ目。二冊目のノートも、残りが少なくなってきた。三冊目の青いノートは、もう買ってある。

 折れ線グラフが、山なりのカーブを描き始めていた。七月から上昇し、一月で頂点に達し、二月から下降に転じる。水温の年周期と逆相関。水温が高ければピークは早く、低ければ遅い。仮説どおり。

「予測が当たった」

 美月は声に出して言った。展示ホールのベンチ。金曜日の夜間検査の後。隣に父がいた。

「冬季遅延仮説。水温とGFP励起速度の負の相関。二月に底を打って反転する予測。当たった」

「まだ二週間分だ。確定するには三月末まで見ないと」

「わかってる。でも、方向は合ってる」

 父がノートを覗き込んだ。グラフを見て、頷いた。

「きれいなカーブだな」

「きれいでしょ。事件のノイズを除けば、自然の周期がこんなにはっきり出る」

「一年分のデータがあるからだ。短期間じゃ見えなかった」

「うん。毎日書いてよかった」

 父が何か言おうとして、やめた。代わりに、美月の頭を一度だけ軽く叩いた。褒めるときの仕草。子ども扱いされている気がしないのは、父の手の力加減が、子どもに対するそれではなくなっていたからだ。


   *


 三月。

 水族館に春が来ていた。

 来館者数が回復していた。事件前の水準に近づいている。地方紙の取材がきっかけで、「クラゲの光で事件を解明した水族館」として知られるようになった。美月の名前は出ていない。本多弁護士が守った。でも、「飼育員の娘」という表現は何度か使われた。

 水槽の前で子どもたちが歓声を上げている。春休みに入って、家族連れが増えた。美月がベンチでノートを書いていると、子どもが近づいてきて「何書いてるの」と聞くことがある。「クラゲの記録だよ」と答えると、「すごい」と言う子と、「ふうん」と言って去る子がいる。どちらでもいい。記録は読者のために書くものではない。

 健太は相変わらずだった。週に一度、放課後に水族館に来る。美月のノートを覗いて「また数字か」と言い、水槽の前で十分ほどクラゲを見て、佐藤にコーラをもらって帰る。健太はコーヒーが苦手で、佐藤は健太のためにコーラの缶を冷蔵庫に入れておくようになった。

「佐藤さん、コーラ冷えてる?」

「冷えてるぞ。一本百三十円だからな」

「金取るのかよ」

「冗談だ。取れるわけないだろ、お前みたいなガキから」

 佐藤は相変わらずだった。缶コーヒーを毎日二本飲む生活に戻っていた。ブラック。朝と昼。三本目を飲むのは、残業のときだけ。「三本目は体に悪い」と言って自制している。田中が「二本でも体に悪いですよ」と言ったら、佐藤は「お前に言われる筋合いはない」と返した。

 大野館長は変わった。妥協の人だった大野が、月例会議で数字を読み上げるようになった。来館者数、収支、設備の状態。森川がやっていた仕事を、大野自身がやっている。数字は森川ほど精密ではなかったが、大野の声で読み上げられると、不思議と安心感があった。ぬるい緑茶の温度が、少しだけ上がった気がする。


   *


 三月の第三日曜日。夜間開館。

 真帆が来た。今回は三回目だった。手帳を持っている。キャラクターのシールはそのままだが、中身が変わっていた。日付ごとに天気と気温が書いてある。通学路の桜の木の観察記録。「つぼみ」「ふくらみ始め」「先端がピンク」。

「見て。毎日書いてるよ」

 美月は手帳を受け取って、めくった。字が丸い。データとは言えない。でも、観察記録としての体裁は整い始めていた。

「いいね。日付と時間と天気が入ってる。これがあれば、桜の開花と気温の関係がわかるかもしれない」

「え、そんなことわかるの」

「わかるよ。積算温度って知ってる?」

「知らない」

「春になって気温が上がっていくと、ある温度以上の日が何日続いたかで、桜の開花日が予測できるの。毎日の気温を記録していれば、いつ咲くか予測できる」

 真帆の目が丸くなった。

「すごい。やりたい」

「じゃあ、気温の欄を足して。毎日同じ時間に。朝がいいと思う。登校前」

「登校前って七時半くらい?」

「それでいい。条件が同じなら、何時でもいい」

 真帆がメモを取った。美月はそれを見て、少しだけ胸が温かくなった。記録の仕方を誰かに教えるのは初めてだった。父に教わったことを、自分が別の誰かに渡している。知識は、こうやって手渡されていくのだと思った。

 真帆の友達——前回も一緒に来た子——が水槽を覗き込んでいた。

「ねえ、白石さん。クラゲってさ、自分が光ってること知ってるのかな」

 美月は少し考えた。

「たぶん、知らないと思う。クラゲには目がないから、自分の光を見ることはできない。カルシウムイオンに反応して化学物質が変化する。それだけ。自覚はないと思う」

「じゃあ、きれいだって思ってるのは人間だけ?」

「たぶん」

「なんか、もったいないね」

「もったいなくないよ。きれいかどうかは、見る側の問題だから。クラゲにとっては生きてるだけ。それを見て何かを感じるのは、見てる人間の仕事」

 真帆の友達が「深い」と言った。深くはない。事実だ。でも、事実を伝えることが誰かの「深い」になるなら、それは悪くないと美月は思った。

 二十時三十分。LUNA照明が点灯した。

 二分五十秒。最初の一匹が光った。

 九月の記録に近づいている。冬の底を越えて、春に向かっている。一年の折り返し。

 美月はストップウォッチを止めて、ノートに記入した。二百四十八日目。ピーク、二十時三十九分十秒。冬季遅延からの回復傾向が継続。


   *


 閉館後。帰り支度。

 父が展示ホールに来た。作業着を脱いで、ポロシャツに着替えている。三月の夜はまだ肌寒いが、真冬よりはましだった。

「今日のデータ」

「ピーク、三十九分十秒。先週より五秒早い。回復してる」

「春だな」

「春だね」

 二人で通用口に向かった。佐藤が鍵を持って待っていた。缶コーヒーを飲み干したところだった。空き缶を握りつぶして、ゴミ箱に投げた。

「主任。明日の朝、フィルター交換やるから早めに来てくれ」

「わかった。七時でいいか」

「七時半でいい。俺が先にポンプ室開けとく」

 ポンプ室。その言葉に、三人とも一瞬だけ反応した。ポンプ室は事件の現場だった。今は管理ログが導入されて、鍵の持ち出しは記録される。透明な運用。事件前とは違う。

 でも、ポンプ室のドアを開けるたびに、三人ともあの朝を思い出すのだろう。循環弁が逆位置だった朝。山田が倒れていた朝。

「行ってくる」

「おう」

 佐藤が手を上げた。父が頷いた。美月は二人の間に立って、二人の顔を見た。十年一緒に働いてきた男たちの、いつもの挨拶。事件の前と同じ。でも、同じ言葉の中に、前にはなかったものが入っている。信頼の確認。「ここにいる」という確認。

 駐輪場。自転車が二台。海沿いの道を走る。三月の風。まだ冷たいが、潮の匂いの中に、かすかに土の匂いが混ざっている。冬が終わる匂い。

 クラゲの光が春に向かって早くなっている。桜のつぼみが膨らんでいる。データは循環する。季節は巡る。去年の七月に始まった記録が、もうすぐ一周する。一周すれば、比較ができる。去年の七月と今年の七月。同じ条件で、同じ水槽で、同じクラゲが光る。そのとき、一年前と同じ数値が出れば、再現性が確認される。科学は再現性だ。一度だけの観察は偶然かもしれない。二度目に同じ結果が出たとき、初めて法則になる。

 美月のノートは三冊目に入ろうとしていた。青いノート。エクオリンの色。紫外線なしで光る、あの青い光の色。

 あと少しで、一年分のデータが揃う。

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