37話 朝の光
七月一日。
一年前のこの日、美月はノートの一ページ目を開いた。「第三水槽 オワンクラゲの発光観察」。あのときは夏休みの自由研究だった。停電の夜にクラゲが光った理由を知りたかっただけだった。
一年が経った。
ノートは三冊目に入っている。青い表紙。エクオリンの色。一冊目の青(水族館の色で選んだ)、二冊目の緑(GFPの色)、三冊目の青(エクオリンの色)。三百六十五日分のデータが、三冊のノートに収まっている。
朝八時。開館一時間前。
美月は展示ホールにいた。夏休みに入ったばかりで、今年も毎日水族館に通う予定だった。去年と同じ。去年と違うのは、ノートが三冊目であることと、美月が十三歳になったことと、父が隣にいることだった。
父は作業着を着て、水槽の朝の点検をしていた。温度、塩分、pH、溶存酸素量、カルシウムイオン。いつもの手順。いつもの正確さ。美月はベンチに座って、その背中を見ていた。
「お父さん。今日で一年だよ」
「ああ。知ってる」
「三百六十五日分のデータが揃った。年周期が完成する」
「完成はしない。一周しただけだ。二周目が同じパターンを示して、初めて周期と呼べる」
「わかってる。だから、二周目を始める」
父が点検を終えて、美月の隣に座った。水槽の前のベンチ。いつもの場所。
「見せてくれ」
美月はノートを開いた。三冊分のデータをまとめた見開きのページ。一年分の折れ線グラフ。横軸が月、縦軸がピーク時刻。
きれいな正弦波に近いカーブが描かれていた。夏に谷(ピークが早い)、冬に山(ピークが遅い)。水温の年周期と逆相関。事件の期間——八月上旬から九月中旬——だけが不規則に乱れている。それ以外は、自然の季節変動が滑らかな曲線を描いている。
「一年分だ」
父がグラフを見つめた。指でカーブをなぞった。七月から始まって、八月、九月、十月、十一月、十二月、一月、二月、三月、四月、五月、六月。そしてまた七月。
「きれいだな」
「きれいでしょ」
「事件のところだけ——」
「うん。ノイズ。でも、ノイズがあるから、正常なパターンがより鮮明に見える。対比があるからわかる」
父が黙った。ノイズという言葉に、もう複雑な表情はしなかった。大晦日の夜に一度受け止めて、消化したのだろう。
「お前、これ——研究としてまとめないのか」
「まとめるよ。今年の自由研究として」
「去年の続きか」
「続きじゃない。去年は『クラゲの発光パターンの観察』。今年は『オワンクラゲの発光ピーク時刻における季節変動の定量的分析』」
「タイトルが長くなったな」
「中身が増えたから」
父が笑った。
*
九時。開館。
正面玄関のシャッターが上がった。大野館長がエントランスに立っている。白髪が少し増えた。でも背筋は伸びていた。開館のベルが鳴る。
最初の来館者は、家族連れだった。父親と母親と、五歳くらいの男の子。男の子が走って水槽の前に来た。ガラスに手を当てて、中を覗き込む。
「お母さん! クラゲいる!」
「いるね。きれいだね」
「光ってないよ?」
「お昼だからかな」
美月はベンチからその光景を見ていた。一年前の自分を思い出した。美月がクラゲの前に座り始めたのも、こんな朝だった。光っていないクラゲを見て、「いつ光るんだろう」と思った。それが全ての始まりだった。
男の子がガラスから離れない。母親が「次のところ行こうか」と言っても、「もうちょっと」と言って動かない。水槽の前から動かない子ども。森川が十年前に見た子どもと、同じだ。
——いや。違う。
あの子は閉館する水族館にいた。この子は開いている水族館にいる。この水族館は閉まらない。父がいる。佐藤がいる。田中がいる。大野がいる。閉めさせない人たちがいる。
美月はノートを開いた。三百六十六日目。七月一日。二周目の最初の日。
日付を書いた。天気、晴れ。気温、三十一度。湿度、高い。夏だ。去年と同じ夏が来た。
佐藤が展示ホールを通りかかった。缶コーヒーを持っていた。朝の一本目。
「美月ちゃん。カフェオレ、冷蔵庫に入ってるぞ」
「ありがとう」
「飲むなよ。放課後用だからな」
「夏休みだから、もう放課後はないよ」
「じゃあ昼飯のときに飲め」
佐藤が通り過ぎていった。いつもの軽い歩き方。いつもの缶コーヒー。
田中がバックヤードから出てきて、「おはようございます」と言った。美月に対して、最近は敬語を使わなくなった。「美月ちゃん、今日も来てるの」「うん」「偉いね」「偉くない。習慣」。それだけの会話。それだけで十分だった。
十時。健太から電話が来た。
「おう。今日から夏休みだな」
「うん」
「水族館行くんだろ」
「もういる」
「早えよ。俺は午後から行く。コーラ冷えてるか確認しといて」
「佐藤さんに聞いて」
「お前が聞けよ」
「自分で聞きなよ」
電話が切れた。美月は少し笑った。
*
午後。
真帆が来た。手帳を持っている。桜の観察記録は終わって、今度は通学路のアジサイを記録しているらしい。
「白石さん。アジサイの色が場所によって違うの、知ってる?」
「知ってるよ。土のpHで変わるんだ。酸性なら青、アルカリ性なら赤」
「えっ、そうなの! じゃあ、土のpHを測れば——」
「色を予測できるかもね。測定器はお父さんに借りられると思う」
真帆の目が光った。文字通り光った。美月はその顔を見て、自分が最初にクラゲの光を見たときと同じ顔だと思った。何かを知りたい、と思ったときの顔。記録の始まりの顔。
*
二十時三十分。閉館後。
LUNA照明が点灯した。
美月はストップウォッチを押した。三百六十六日目の計測。二周目の最初の記録。
隣に父がいた。向こう側に健太がいた。健太はコーラの缶を持っていた。佐藤がバックヤードの入口から顔だけ出して、水槽を見ていた。缶コーヒーを持っていた。今日の三本目。残業だ。
二分五十五秒。最初の一匹が光った。
緑色の光。GFPの蛍光。透明な傘の縁から始まって、全身に広がる。一匹が光ると、隣の個体も光り始める。五匹、十匹、二十匹。水槽の中に緑の星が生まれていく。
七分。ピーク。
美月はストップウォッチを止めた。二十時三十七分。
去年の七月一日の記録を確認した。一冊目のノート。一ページ目。
去年のピーク。二十時三十七分。
同じだった。
一年前と同じ時刻に、同じ水槽で、同じクラゲが、同じ光を放っている。水温が同じだから、GFPの励起速度が同じ。同じ条件では、同じ結果が出る。再現性。科学は再現性だ。
美月はノートに記入した。
「366日目。7/1。ピーク20:37。昨年同日と一致。年周期の再現性を確認」
ペンを置いた。
水槽の光がピークを過ぎて、ゆっくりと弱まり始めていた。毎日見ているカーブ。三百六十六回見たカーブ。同じに見えて、毎日違う。でも、大きな流れは同じだ。光が来て、強まって、弱まって、消える。明日もまた来る。
「お父さん」
「ん」
「光は、嘘をつかない」
父が水槽を見たまま、頷いた。
「ああ。つかない」
「だから、記録する意味がある。嘘をつかないものを、嘘をつかないまま書き留める。それが、ノートの仕事」
「お前の仕事だ」
「うん。私の仕事」
健太がコーラを飲み干して、缶を握りつぶした。佐藤の真似だ。
「そろそろ帰るか。明日も来るんだろ」
「来る。明日も、明後日も」
「毎日か」
「毎日。三百六十七日目、三百六十八日目、三百六十九日目——」
「わかった。わかったから、帰ろう」
四人で通用口に向かった。佐藤が鍵をかける。施錠の音。かちり。いつもの音。
外に出た。七月の夜。潮の匂い。夏の匂い。一年前と同じ匂い。一年前と同じ空。でも、同じ空の下に立っている人間は、一年前とは違っていた。
駐輪場に自転車が二台。父と美月の自転車。健太は自分の自転車で来ていた。三台が並んでいる。
「じゃあ、また明日」
「おう」
「佐藤さん、お疲れさまです」
「おう。カフェオレ、明日も冷蔵庫に入れとくぞ」
「ありがとう」
それぞれの方向に散っていった。佐藤は駐車場。健太は住宅街の方。美月と父は海沿いの道。
並んで走る二台の自転車。父が車道側。美月が歩道側。いつもの位置。いつもの距離。
夜風が髪を揺らした。星が見えた。夏の星座。一年前と同じ星。同じ位置。同じ光。何千年も前から同じ場所にある光。
クラゲの光は違う。今日の光は今日だけの光だ。明日は明日の光がある。同じに見えて、少しだけ違う。その違いを記録するために、美月は明日もベンチに座る。ストップウォッチを構える。ノートを開く。ペンを持つ。
光が来るのを、待つ。
押さない。急がない。待てば、光は自分で来る。
美月はペダルを漕ぎながら、明日のノートのことを考えていた。三百六十七日目。何が起きるだろう。何も起きないかもしれない。「特になし」かもしれない。
それでいい。
「特になし」は、世界が正しく動いている証拠だから。
——了
最後までお読みいただき、ありがとうございました。一条信輝です。
本作は横溝正史ミステリ大賞に投稿して一次で落ちた原稿を、Web連載向けに全面改稿したものです。落ちた直後は凹みましたが、読み返してみると「そりゃ落ちるわ」と自分で納得しました。トリックは悪くなかったんですが、主人公に血が通っていなかった。
改稿にあたって決めたことが一つあります。「この子はなぜ記録するのか」だけは嘘をつかないこと。美月がノートを書き続ける理由は、最初は好奇心で、途中から使命感に変わって、最後は「見届けたいから」になりました。書いている自分もそうでした。美月がどこにたどり着くのか、見届けたかった。
科学的な部分はなるべく正確に書いたつもりですが、フィクションとしての脚色はあります。実際のオワンクラゲの発光パターンが本作のように季節変動するかどうかは、専門家の方にお叱りを受けるかもしれません。そのときは美月のノートに「要修正」と書いておきます。
佐藤の缶コーヒーは、書き始めたときは小道具のつもりでした。気づいたら物語のバロメーターになっていました。キャラクターが勝手に動くというのはこういうことかと、初めて実感しました。
健太のお母さんのおにぎりが三つだったシーンは、自分で書いておいて泣きました。
本作はネットコン14に応募しています。もし面白いと思っていただけたら、ブックマーク・評価・感想をいただけると、作者のクラゲが光ります。
次回作の構想もあります。またどこかでお会いできれば。




