35話 大晦日
十二月三十一日。水族館は年末休館中だった。
それでも、水槽の管理は止められない。循環ポンプは動いている。水温は保たれている。クラゲは年越しを知らない。毎日同じように水の中を漂い、紫外線が来れば光り、来なければ光らない。カレンダーは人間の都合だ。
父は年末も水族館に来ていた。夜間水質検査の日ではなかったが、「年末年始は一日おきに見回る」と決めていた。事件の後、父は以前より頻繁に水族館に来るようになった。「穴を開けたくない」と言っていた。
美月もついてきた。ノートを持って。百八十四日目。最初のノートが八十日、新しいノートが百四日目。半年分のデータが、二冊のノートに収まっている。
閉館中の水族館は、営業日とは違う静けさだった。来館者がいない。照明が最低限しか点いていない。展示ホールは薄暗くて、水槽の光だけが通路を照らしている。LUNA照明は休館中もプログラムどおりに動いている。クラゲのために。
「お父さん。LUNA照明って、休館中も点くんだ」
「クラゲの生活リズムを崩さないためにな。人間が休みでも、クラゲは休まない」
「休まないクラゲの世話をする人間も、休まない」
「それが飼育員だ」
父が水質検査を始めた。いつもの手順。採水、温度、塩分、pH、溶存酸素量、カルシウムイオン。美月が隣で記録を取る。手袋はまだ大人用で、指先が余る。でも、前よりは手順が滑らかになった。父に言われなくても、最初の二秒分を捨てる。泡が入らないようにバルブをゆっくり回す。
「温度、二十二・八度」
「下がったな。先週は二十三・一だった」
「冬季遅延、もう少し進むかも」
「だろうな。一月はもっと下がる」
すべて正常値。備考欄、特になし。
*
検査が終わって、ベンチに座った。二人で水槽を見ている。大晦日の夜。外では除夜の鐘が鳴る時間帯だが、この水族館は海沿いの外れにあるから、鐘の音は届かない。聞こえるのは循環ポンプの低い唸りだけだ。
二十時三十分。LUNA照明が点灯した。誰も見ていない水槽で、プログラムどおりに紫外線が照射される。
三分二十秒。最初の一匹が光った。冬の遅延。九月より二十秒遅い。でも、光った。
「お父さん」
「ん」
「半年分のデータ、まとめてみた」
美月はノートの見開きページを開いた。七月から十二月まで。百八十四日分の折れ線グラフ。赤い点はもうない。事件後は黒い点だけが並んでいる。事件の期間だけ、グラフが乱れている。その前後は、緩やかな曲線を描いている。
「七月から九月は安定期。九月から十二月にかけてピークが遅延。水温の低下と相関している。事件の期間だけ不規則なずれがあるけど、それを除けば、自然な季節変動に見える」
父がグラフをじっと見ていた。指でデータ点をなぞった。七月。八月。九月。事件の前。事件の間。事件の後。
「ここだけ——ここだけが、おかしいんだな」
父が指で示したのは、八月上旬から九月中旬にかけての区間だった。不規則なずれの集中。それ以外はきれいな曲線。
「事件を除けば、な」
「うん。事件は、自然なパターンの上に乗っかったノイズだった。ノイズを取り除けば、下にある自然のパターンが見える」
「ノイズ、か」
父の声が少しだけ低くなった。自分の逮捕を「ノイズ」と呼ばれることに、複雑な感情があるのだろう。美月はそれに気づいた。
「ごめん。言い方が——」
「いや、正しい。科学的には正しい。でもな、美月。このグラフを見て思うのは、ノイズがあったから、お前がこのデータを取り続ける理由ができたってことだ。ノイズがなかったら、お前の自由研究は八月に終わってた」
美月は言葉を飲んだ。父の言うとおりだった。事件がなければ、夏休みの終わりにノートを閉じていた。ずれの原因がLUNA手動操作だとわかった時点で、研究は完成していた。事件があったから、ノートは証拠になり、美月は記録を続け、百八十四日分のデータが生まれた。
事件のおかげ、とは言いたくない。でも、事件がなければ今の自分はいない。その矛盾を、美月はまだ整理できなかった。
「科学的にはね」
「お前はいつも科学的だ」
「お父さんもでしょ」
父が少し笑った。「俺はもう少し感情的だ」と言った。美月はそれを聞いて、「知ってる」と答えた。
水槽の光がピークに達した。百五十匹のオワンクラゲが、全身を緑色に光らせている。大晦日の夜。観客は二人だけ。
「きれいだね」
「ああ」
「毎日見てるのに、きれいだと思う」
「毎日見てるから、わかるんだ。今日の光が昨日と少しだけ違うことが」
美月はノートに記録した。百八十四日目。ピーク、二十時四十一分三十秒。予測値より十秒遅い。冬季遅延の継続。備考欄——。
何を書こうか迷った。「大晦日」と書くのは記録としてはそぐわない。でも、今日が今年の最後の記録であることは事実だ。
書いた。
「本年最終記録。184日目。異常なし」
それだけ書いて、ペンを置いた。
「お父さん」
「ん」
「来年も続ける」
「知ってる」
「一年分のデータが揃ったら、季節周期が見えるはず。春になったらピークが早くなるか確認したい」
「ああ」
「それと、来年は——」
「それと?」
「もう少し、いろんなことを書いてもいいかなと思ってる」
「いろんなこと?」
「データだけじゃなくて。たとえば、今日みたいな日のこと。大晦日に水族館にいて、お父さんと二人でクラゲを見たこと。それも記録していいかなって」
父が美月を見た。
「感想は書かない主義じゃなかったか」
「主義は変わるよ。データが増えれば、解釈の幅も広がる。感想も、記録の一部だと思うようになった」
父は何も言わなかった。しばらく水槽を見ていた。それから、ポケットから自販機で買った缶のお茶を出した。二本。一本を美月に渡した。
「佐藤の真似じゃないぞ」
「思ってない」
「思ってただろ」
「……少しだけ」
二人で缶のお茶を飲んだ。温かかった。十二月の水族館は暖房が最低設定になっていて、少し肌寒い。でも、隣に人がいると、それだけで温かさが違った。
二十一時。LUNA照明のタイマーが切れた。紫外線が消えて、クラゲの光がゆっくりと弱まっていく。暗くなっていく展示ホール。水の音だけが残る。
「帰るか」
「うん」
帰り支度をした。通用口から出る。大晦日の夜空。星が出ていた。冬の星座。オリオンが南の空に見えた。
自転車に乗る前に、美月は水族館の建物を振り返った。暗い。看板の灯りも消えている。でも、中では循環ポンプが動いている。水が流れている。クラゲが泳いでいる。明日も、明後日も。年が変わっても、水は循環し続ける。人間がカレンダーをめくっても、クラゲは何も変わらない。その一貫性が、美月には頼もしかった。
「お父さん」
「ん」
「来年もよろしくね」
「クラゲに言え」
「クラゲにも言う。でも、お父さんにも言う」
父がペダルに足をかけた。少しだけ間を置いて、言った。
「……こちらこそ」
大晦日の海沿いの道を、二台の自転車が走っていく。潮の匂い。冬の風。車道側を走る父の背中。街灯の光が断続的に二人を照らしていく。光。暗闇。光。暗闘。クラゲの拍動と同じリズムで、街灯が通り過ぎていった。
遠くで、かすかに除夜の鐘が聞こえた気がした。聞こえなかったかもしれない。どちらでもいい。確かめようのないことは、記録しない。それが美月のルールだ。
でも、隣を走る父の呼吸の音は聞こえた。それは確かだった。
今年は終わる。記録は終わらない。




