34話 冬のクラゲ
十二月に入って、データに変化が出た。
発光ピークの時刻が、少しずつ遅くなっている。九月は平均で二十時三十七分だった。十月は三十八分。十一月は三十九分。そして十二月の最初の一週間で、四十分を超えた。
月ごとに一分ずつ、ピークが後ろにずれている。
LUNA照明の設定は変わっていない。自動プログラムのまま、毎日二十時三十分に点灯する。操作ログに異常はない。水質も正常。カルシウムイオン濃度は基準値内。夜間検査でも異常値は出ていない。
照明が同じ。水質が同じ。なのに、ピークが遅くなっている。
美月はノートのグラフを見つめた。新しいノートの十五ページ目。九月から十二月までの四ヶ月分のデータを一本の折れ線にしたもの。緩やかな右肩上がり。ずれの方向は「遅延」。
——これは、事件のずれとは違う。
事件のとき、LUNA手動操作による遅延は急激だった。一日で六分から八分。不規則で、操作がある日とない日で落差があった。
今回の遅延は緩やかだ。毎日少しずつ。連続的で、一定の方向に動いている。不規則ではなく、滑らかな曲線。
美月は仮説を立てた。
水温。
十二月の水温は、九月に比べて二度ほど低い。展示水槽の水温は空調と循環ポンプで管理されているが、完全に一定ではない。外気温の影響で、季節ごとに微小な変動がある。父に聞いたところ、「冬場は設定温度を維持するのに循環ポンプの負荷が上がる。それでも0.5度くらいは下がる」とのことだった。
GFPの蛍光は温度依存性がある。化学反応の速度は温度が低いほど遅くなる。つまり、水温が下がれば、紫外線を照射してからGFPが励起するまでの時間が長くなる。発光ピークが遅れる。
犯罪ではない。自然現象だ。
美月はその結論に、不思議な安堵を感じた。ずれの原因を調べることが、もう恐怖ではなかった。事件の最中、ずれの原因を追うことは犯人を追うことだった。バックヤードの音、森川の台車、配管のホース。全部が犯罪に繋がっていた。
今は違う。ずれの原因は水温だ。冬が来たから水温が下がった。それだけだ。自然は嘘をつかない。季節は犯罪を犯さない。
美月は新しいページに「冬季遅延仮説」と書いて、下に図を描いた。横軸が水温、縦軸が発光ピーク時刻。予測される相関は右下がり——水温が下がればピークが遅れる。この図に実測値を打っていけば、仮説が正しいかどうかわかる。
科学に戻ってきた。事件の間、ノートは証拠だった。今は、またデータだ。
*
「面白いな、それ」
父がノートを覗き込んだ。金曜日の夜間検査の後。ベンチに並んで座っている。
「季節変動だろうな。夏のデータと冬のデータを比較すれば、水温と発光速度の相関が出るはずだ」
「出ると思う。でも、まだ冬のデータが足りない。一月と二月のデータが揃えば、傾向が確定する」
「春になったら戻るか見届けないとな」
「うん。一年分のデータが揃えば、年周期のパターンが見える」
父が微かに笑った。
「一年か。長いな」
「長くない。毎日書いてれば、すぐだよ」
「お前、最初のノートは八十日で終わったぞ。一年は四冊半だ」
「四冊半。緑、青、その次は何色にしよう」
「赤はやめとけ。森川の色だ」
美月は少し驚いた。タイムラインで森川を赤にしたことを、父は知らなかったはずだ。
「なんで知ってるの」
「本多先生に見せてもらった。タイムラインの色分け。よくできてた」
「……お父さんの青が短かったでしょ」
「短かった。俺の行動記録は少なかったからな。正直に全部話したから、記録する余地がなかった」
「正直な人の行は短い。嘘をつく人の行は空白が多い。同じことだけど、見え方が違う」
父が美月を見た。
「お前、いつからそんなことを考えるようになった」
「ノートを二冊書いてから」
*
十二月の第三日曜日。夜間開館。
美月がベンチでノートを書いていると、展示ホールの入口から声がした。
「白石さん」
振り返ると、クラスメイトの女の子が立っていた。自由研究の発表のとき、「クラゲ見に行っていい?」と聞いてきた子。名前は中村真帆。一人ではなかった。隣にもう一人、女子がいた。友達を連れてきたらしい。
「来たんだ」
「約束したから。第三日曜の夜間開館でしょ」
「うん。あと十五分でLUNA照明が点く」
真帆がベンチの隣に座った。友達もその隣に座った。三人が並んで水槽を見ている。
「今、光ってないの?」
「まだ紫外線が当たってないから。クラゲは自分からは光らない——普段は」
「普段は?」
「水の中のカルシウムイオンが多いと、紫外線がなくても光ることがある。青い光。でも、今は水質が正常だから、紫外線待ち」
真帆が水槽に顔を近づけた。ガラスに息がかかって、少しだけ曇った。
「透明だね。光ってないと、ほとんど見えない」
「うん。でも、いるよ。百五十匹」
「百五十匹! 多い」
「数えたの?」と友達が聞いた。
「お父さんが数えた。飼育記録に載ってる」
二十時三十分。LUNA照明が点灯した。
紫外線の青紫色が水面を照らす。真帆と友達が息を呑んだ。
三分十秒。最初の一匹が光った。九月より三十秒遅い。冬の水温のためだ。
「光った!」
真帆が声を上げた。小さな声だったが、静かな展示ホールにはよく通った。佐藤が入口の方で振り返って、少し笑った。
次々に光り始める。傘の縁から全身に広がる緑色の光。水の中に星が生まれるように、一匹ずつ灯っていく。
「きれい……」
真帆の友達が呟いた。スマートフォンを構えようとして、やめた。「フラッシュ駄目なんでしょ」と真帆が小声で言ったから。
美月はストップウォッチを見ながら、ノートに記録していた。百一日目。ピーク、二十時四十一分。予測値より三十秒遅い。冬季遅延の傾向が継続。
「白石さん、今何書いてるの」
「光り始めた時間と、一番明るくなった時間。毎日記録してる」
「毎日って、ここに毎日来てるの」
「うん」
「すごい」
「すごくない。習慣だから」
真帆が水槽とノートを交互に見た。
「私にもできるかな」
「何を」
「記録。クラゲじゃなくてもいいんだけど。何かを毎日観察して、書く。そういうの」
美月はペンを止めた。少し考えた。
「できるよ。何でもいい。天気でも、通学路の花でも、飼ってる金魚でも。大事なのは毎日同じ条件で見ること。同じ時間に、同じ場所で、同じ方法で。そうすれば、変化が見える」
「変化が見えると、何がわかるの」
「本当のことが、少しずつ見えてくる」
自由研究の発表で言った言葉と、同じだった。でも、あのときとは違う実感があった。あのときは教壇で三十人に向かって言った。今はベンチで一人に向かって言っている。一人に伝わる言葉の方が、三十人に向かう言葉より、正確に届く気がした。
真帆がポケットからメモ帳を出した。小さな手帳。表紙にキャラクターのシールが貼ってある。美月のノートとは全然違う。でも、書くための道具だ。
「今日の日付、書いていい?」
「どうぞ」
真帆が日付を書いた。十二月の第三日曜日。その隣に「クラゲ光った。きれいだった」と書いた。
美月はそれを見て、少しだけ笑った。記録の最初は、いつもそんなものだ。「きれいだった」。「すごかった」。感想から始まる。データになるのは、もう少し後だ。でも、書き始めたことが大事だった。
帰り際、真帆が言った。
「また来ていい?」
「いつでも。第三日曜日じゃなくても、昼間も見れるよ。光ってないけど」
「光ってなくてもいいの?」
「光ってなくても、クラゲはクラゲだから」
真帆が笑って、友達と一緒に帰っていった。
美月はベンチに残って、ノートの備考欄に書いた。
「中村さん来館。LUNA点灯後の発光を観察。記録を始めたいと言っていた」
冬のクラゲは、夏より少しだけ遅く光る。でも、光る。季節が変わっても、光は来る。待っていれば。




