表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

34/37

34話 冬のクラゲ

 十二月に入って、データに変化が出た。

 発光ピークの時刻が、少しずつ遅くなっている。九月は平均で二十時三十七分だった。十月は三十八分。十一月は三十九分。そして十二月の最初の一週間で、四十分を超えた。

 月ごとに一分ずつ、ピークが後ろにずれている。

 LUNA照明の設定は変わっていない。自動プログラムのまま、毎日二十時三十分に点灯する。操作ログに異常はない。水質も正常。カルシウムイオン濃度は基準値内。夜間検査でも異常値は出ていない。

 照明が同じ。水質が同じ。なのに、ピークが遅くなっている。

 美月はノートのグラフを見つめた。新しいノートの十五ページ目。九月から十二月までの四ヶ月分のデータを一本の折れ線にしたもの。緩やかな右肩上がり。ずれの方向は「遅延」。

 ——これは、事件のずれとは違う。

 事件のとき、LUNA手動操作による遅延は急激だった。一日で六分から八分。不規則で、操作がある日とない日で落差があった。

 今回の遅延は緩やかだ。毎日少しずつ。連続的で、一定の方向に動いている。不規則ではなく、滑らかな曲線。

 美月は仮説を立てた。


 水温。


 十二月の水温は、九月に比べて二度ほど低い。展示水槽の水温は空調と循環ポンプで管理されているが、完全に一定ではない。外気温の影響で、季節ごとに微小な変動がある。父に聞いたところ、「冬場は設定温度を維持するのに循環ポンプの負荷が上がる。それでも0.5度くらいは下がる」とのことだった。

 GFPの蛍光は温度依存性がある。化学反応の速度は温度が低いほど遅くなる。つまり、水温が下がれば、紫外線を照射してからGFPが励起するまでの時間が長くなる。発光ピークが遅れる。

 犯罪ではない。自然現象だ。

 美月はその結論に、不思議な安堵を感じた。ずれの原因を調べることが、もう恐怖ではなかった。事件の最中、ずれの原因を追うことは犯人を追うことだった。バックヤードの音、森川の台車、配管のホース。全部が犯罪に繋がっていた。

 今は違う。ずれの原因は水温だ。冬が来たから水温が下がった。それだけだ。自然は嘘をつかない。季節は犯罪を犯さない。

 美月は新しいページに「冬季遅延仮説」と書いて、下に図を描いた。横軸が水温、縦軸が発光ピーク時刻。予測される相関は右下がり——水温が下がればピークが遅れる。この図に実測値を打っていけば、仮説が正しいかどうかわかる。

 科学に戻ってきた。事件の間、ノートは証拠だった。今は、またデータだ。


   *


「面白いな、それ」

 父がノートを覗き込んだ。金曜日の夜間検査の後。ベンチに並んで座っている。

「季節変動だろうな。夏のデータと冬のデータを比較すれば、水温と発光速度の相関が出るはずだ」

「出ると思う。でも、まだ冬のデータが足りない。一月と二月のデータが揃えば、傾向が確定する」

「春になったら戻るか見届けないとな」

「うん。一年分のデータが揃えば、年周期のパターンが見える」

 父が微かに笑った。

「一年か。長いな」

「長くない。毎日書いてれば、すぐだよ」

「お前、最初のノートは八十日で終わったぞ。一年は四冊半だ」

「四冊半。緑、青、その次は何色にしよう」

「赤はやめとけ。森川の色だ」

 美月は少し驚いた。タイムラインで森川を赤にしたことを、父は知らなかったはずだ。

「なんで知ってるの」

「本多先生に見せてもらった。タイムラインの色分け。よくできてた」

「……お父さんの青が短かったでしょ」

「短かった。俺の行動記録は少なかったからな。正直に全部話したから、記録する余地がなかった」

「正直な人の行は短い。嘘をつく人の行は空白が多い。同じことだけど、見え方が違う」

 父が美月を見た。

「お前、いつからそんなことを考えるようになった」

「ノートを二冊書いてから」


   *


 十二月の第三日曜日。夜間開館。

 美月がベンチでノートを書いていると、展示ホールの入口から声がした。

「白石さん」

 振り返ると、クラスメイトの女の子が立っていた。自由研究の発表のとき、「クラゲ見に行っていい?」と聞いてきた子。名前は中村真帆。一人ではなかった。隣にもう一人、女子がいた。友達を連れてきたらしい。

「来たんだ」

「約束したから。第三日曜の夜間開館でしょ」

「うん。あと十五分でLUNA照明が点く」

 真帆がベンチの隣に座った。友達もその隣に座った。三人が並んで水槽を見ている。

「今、光ってないの?」

「まだ紫外線が当たってないから。クラゲは自分からは光らない——普段は」

「普段は?」

「水の中のカルシウムイオンが多いと、紫外線がなくても光ることがある。青い光。でも、今は水質が正常だから、紫外線待ち」

 真帆が水槽に顔を近づけた。ガラスに息がかかって、少しだけ曇った。

「透明だね。光ってないと、ほとんど見えない」

「うん。でも、いるよ。百五十匹」

「百五十匹! 多い」

「数えたの?」と友達が聞いた。

「お父さんが数えた。飼育記録に載ってる」

 二十時三十分。LUNA照明が点灯した。

 紫外線の青紫色が水面を照らす。真帆と友達が息を呑んだ。

 三分十秒。最初の一匹が光った。九月より三十秒遅い。冬の水温のためだ。

「光った!」

 真帆が声を上げた。小さな声だったが、静かな展示ホールにはよく通った。佐藤が入口の方で振り返って、少し笑った。

 次々に光り始める。傘の縁から全身に広がる緑色の光。水の中に星が生まれるように、一匹ずつ灯っていく。

「きれい……」

 真帆の友達が呟いた。スマートフォンを構えようとして、やめた。「フラッシュ駄目なんでしょ」と真帆が小声で言ったから。

 美月はストップウォッチを見ながら、ノートに記録していた。百一日目。ピーク、二十時四十一分。予測値より三十秒遅い。冬季遅延の傾向が継続。

「白石さん、今何書いてるの」

「光り始めた時間と、一番明るくなった時間。毎日記録してる」

「毎日って、ここに毎日来てるの」

「うん」

「すごい」

「すごくない。習慣だから」

 真帆が水槽とノートを交互に見た。

「私にもできるかな」

「何を」

「記録。クラゲじゃなくてもいいんだけど。何かを毎日観察して、書く。そういうの」

 美月はペンを止めた。少し考えた。

「できるよ。何でもいい。天気でも、通学路の花でも、飼ってる金魚でも。大事なのは毎日同じ条件で見ること。同じ時間に、同じ場所で、同じ方法で。そうすれば、変化が見える」

「変化が見えると、何がわかるの」

「本当のことが、少しずつ見えてくる」

 自由研究の発表で言った言葉と、同じだった。でも、あのときとは違う実感があった。あのときは教壇で三十人に向かって言った。今はベンチで一人に向かって言っている。一人に伝わる言葉の方が、三十人に向かう言葉より、正確に届く気がした。

 真帆がポケットからメモ帳を出した。小さな手帳。表紙にキャラクターのシールが貼ってある。美月のノートとは全然違う。でも、書くための道具だ。

「今日の日付、書いていい?」

「どうぞ」

 真帆が日付を書いた。十二月の第三日曜日。その隣に「クラゲ光った。きれいだった」と書いた。

 美月はそれを見て、少しだけ笑った。記録の最初は、いつもそんなものだ。「きれいだった」。「すごかった」。感想から始まる。データになるのは、もう少し後だ。でも、書き始めたことが大事だった。

 帰り際、真帆が言った。

「また来ていい?」

「いつでも。第三日曜日じゃなくても、昼間も見れるよ。光ってないけど」

「光ってなくてもいいの?」

「光ってなくても、クラゲはクラゲだから」

 真帆が笑って、友達と一緒に帰っていった。

 美月はベンチに残って、ノートの備考欄に書いた。


 「中村さん来館クラスメイト。LUNA点灯後の発光を観察。記録を始めたいと言っていた」


 冬のクラゲは、夏より少しだけ遅く光る。でも、光る。季節が変わっても、光は来る。待っていれば。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ