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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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33話 佐藤の缶コーヒー

 佐藤が缶コーヒーを飲まなくなったのは、事件の翌日からだった。

 正確に言えば、飲まなくなったのではない。買うことはやめなかった。自販機のボタンは毎日押した。缶を手に持った。でも、口をつけなかった。開けないまま持ち歩いて、冷めた頃にゴミ箱に捨てた日もあった。

 理由は自分でもよくわからなかった。コーヒーがまずくなったわけではない。味覚が変わったわけでもない。ただ、飲む気になれなかった。一口目を飲んだときの、あの苦くて温かい感覚が、気持ちに合わなかった。

 十年間、毎日二本飲んでいたのに。

 佐藤は自販機の前に立って、そのことを考えていた。十二月。水族館の駐車場。朝の八時。出勤して最初にやることは、缶コーヒーを買うことだ。それだけは事件の前も後も変わらない。

 ブラックのボタンを押した。缶が落ちる音。取り出す。冷たい。十二月の缶コーヒーは冷たい。夏はすぐに温くなるが、冬は持っているだけで指が痛くなる。

 一口飲んだ。苦い。温かい。いつもの味。

 ——飲めるようになったのは、いつからだったか。

 美月がノートを佐藤に見せてくれた日だったかもしれない。いや、違う。あの日はまだ飲めなかった。ノートのコピーを取った日。森川から美月のノートを守るために、「飼育記録として保管したい」と嘘をついた日。あの日は缶コーヒーを開けた。開けたが、半分残した。

 完全に飲めるようになったのは、主任——雄一が帰ってきた日だ。警察署のロビーで、雄一が美月の頭に手を置いた瞬間。あのとき、佐藤は缶を握りつぶした。中身は飲み干していた。


   *


 佐藤が森川を疑い始めたのは、事件より前だった。

 具体的にいつかと聞かれたら、答えにくい。明確な瞬間があったわけではない。じわじわと、水が染み込むように疑念が溜まっていった。

 最初の違和感は、ポンプ室の鍵だった。森川は副館長として鍵を持っていたが、ポンプ室に用がある場面がほとんどなかった。経理の人間がポンプ室で何をするのか。佐藤が夜遅くまで残っていたとき、森川がポンプ室の方向から歩いてくるのを何度か見た。聞いても「確認作業」としか言わなかった。

 次に気になったのは、経費の処理だった。佐藤は経理畑ではないが、備品の発注は自分の担当だった。注文した覚えのない試薬が倉庫にあったり、発注数と納品数が合わなかったりすることが、半年ほど前から何度かあった。森川に聞くと「業者のサービス品だ」と言われた。納得はしなかったが、追及もしなかった。

 それから、夜のことがあった。残業で遅くなった日、駐車場に森川の車がなかった。退館したはずだ。なのに、三十分後にバックヤードの方から物音がした。確認しに行こうとしたら、森川が通路の向こうから歩いてきた。「忘れ物を取りに来た」。スーツではなく、作業着を着ていた。帰ったのに作業着に着替えて戻ってくる人間がいるか。佐藤はそのとき、はっきりと違和感を覚えた。

 覚えたのに、口にしなかった。

 追及しなかった。そこが、佐藤の後悔だった。

 十年一緒に働いてきた上司を、疑いたくなかった。森川は有能だった。経営が厳しい水族館を、数字の力で回していた。来館者数の分析、SNSの活用、コスト管理。佐藤にはできないことを、森川がやっていた。尊敬していた。だから、違和感を飲み込んだ。缶コーヒーの苦さと一緒に。

 事件が起きて、雄一が逮捕されて、佐藤は自分の判断の遅さを恨んだ。もっと早く追及していれば。もっと早く声を上げていれば。雄一は逮捕されなかったかもしれない。

 でも、佐藤にできたのは「念のため」だった。

 念のためにコピーを取る。念のためにノートを守る。念のために録音する。念のためにの積み重ねが、結果として証拠になった。それは偶然ではなかった。佐藤なりの覚悟だった。声を上げる勇気はなかった。でも、準備だけはしておいた。声を上げる人間が現れたときに、すぐに動けるように。

 その人間が、十二歳の女の子だった。

 佐藤はそのことを、たぶん一生忘れない。


   *


 雄一に頼まれたことがある。逮捕される前の、最後の面会で。

「佐藤。美月を頼む」

 それだけだった。それだけで十分だった。

 佐藤は雄一と十年働いた。雄一は口下手で不器用で、冗談が言えなくて、水質の数字だけは妥協しない男だった。クラゲに話しかける姿を何度も見た。「今日は調子いいな」「水温がちょっと高いぞ」「餌、多めにしておくからな」。気持ち悪いと思ったこともある。でも、そのまっすぐさが雄一だった。

 その雄一が手錠をかけられて連行された。佐藤はロビーで立っていた。何もできなかった。缶コーヒーを握りしめていた。飲んでいなかった。

 あの日から、佐藤は「念のため」の人間になった。美月が動くのを待って、美月が必要としたときに道具を渡す。コピー。車。鍵。連絡先。弁護士。全部、美月が求める前に準備しておいた。

 美月は一度も「助けて」と言わなかった。「佐藤さん、これ見せてもらえますか」「佐藤さん、車出してもらえますか」。具体的な依頼だけが来た。感情的な助けは求めなかった。十二歳の子どもが、感情を排して、事実だけで動いていた。

 佐藤がコーヒーを飲めなかったのは、その子どもの隣にいて、自分が何もできていないと感じていたからかもしれない。コーヒーの苦さは、いつも佐藤にとって「自分の時間」の味だった。休憩時間。一人の時間。缶を開けて一口飲む。それだけで、仕事の疲れが少しだけ抜ける。

 事件の間、「自分の時間」なんてものはなかった。あったのは、美月の時間だった。美月のノートの時間。美月の証拠の時間。佐藤はその時間に間借りしていただけだ。

 ——いや、違う。

 佐藤はコーヒーを一口飲んで、首を振った。

 間借りなんかじゃない。自分の判断で動いた。コピーを取ったのは自分だ。録音したのも自分だ。張り込みの夜、退館したふりをして戻ったのも自分だ。美月に頼まれたのではない。雄一に頼まれた。「美月を頼む」。その一言を、自分なりに実行しただけだ。


   *


 缶コーヒーが空になった。

 自販機の横のゴミ箱に捨てた。いつもの動作。握りつぶして、投げる。缶がゴミ箱の中で金属の音を立てる。

 十二月の朝。駐車場から水族館の建物を見上げた。外壁の塗装が少し剥げている。看板の文字が一つ消えかけている。裏手の搬入口は、新しいガラスが入った。事件の夜に割れたガラスの代わりに。

 中では雄一がもう点検を始めているはずだ。美月は学校だ。今日は金曜日だから、放課後に来るだろう。ノートを持って。新しい緑色のノートを。

 佐藤はもう一本、缶コーヒーを買った。今度はカフェオレ。美月用。放課後まで冷蔵庫に入れておく。十二月のカフェオレは冷たいままでいい。美月は「ブラックは苦手」と言っていた。

 通用口の鍵を開けて、中に入った。循環ポンプの音が聞こえる。水の音。空調の音。いつもの音。

 佐藤は作業着に着替えて、水槽の朝の点検を始めた。温度、塩分、pH、溶存酸素量。記録は自分でつける。雄一ほど几帳面ではないが、嘘は書かない。

 その程度のことしかできない。でも、その程度のことを、毎日続ける。缶コーヒーを飲みながら。

 雄一が「おはよう」と言った。バックヤードから出てきた。もう作業着に着替えている。朝が早い男だ。十年前からそうだった。

「カフェオレ、冷蔵庫に入れてあるぞ」

「美月用?」

「ああ」

「気が利くな」

「利かない。缶コーヒーを買うついでだ」

 雄一が水質検査の記録簿を開いた。朝の検査を始める。いつもの手順。いつもの正確さ。

 佐藤はその背中を見ながら、二本目の缶コーヒーを買いに自販機に向かった。今度は自分用。ブラック。

 十二月の朝は寒い。缶を握ると、指先だけが温まる。体全体は寒いままだ。でも、指先の温かさで十分だった。それだけあれば、仕事はできる。

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