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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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32話 新しいノート

 八十日目の記録を書き終えたとき、ノートの最後のページが終わった。

 見開きの右ページ。下から三行目まで文字が埋まっている。余白がもうない。次のページはない。裏表紙だ。

 美月はペンを止めて、ノートを閉じた。表紙を見た。「自由研究ノート——クラゲの光の観察記録」。七月一日に自分で書いた文字。もう四ヶ月前になる。表紙の角が丸くなっている。背表紙のテープが少し剥がれかけている。リュックの中で毎日揺られて、何百回もめくられた。

 このノートに書かれているのは、八十日分の発光記録、五枚のグラフ、三枚のタイムライン、証明計画、そして備考欄の膨大なメモ。停電の夜から始まって、張り込み、逮捕、釈放、記者会見、翔太の来館。全部がこの一冊の中に入っている。

 隣で父が水槽の夜間点検をしていた。金曜日の夜。月二回の夜間水質検査の日。

「お父さん」

「ん」

「ノート、終わった」

「終わった?」

「最後のページ。もう書くところがない」

 父が点検の手を止めて、美月の方を見た。

「新しいの、買ったんじゃなかったか」

「買った。でも、まだ開けてない」

 リュックの中に、新しいノートが入っている。佐藤に「好きなの買え」と言われて、文房具店で選んだ。同じメーカーの同じサイズ。罫線の幅も同じ。表紙の色だけ違う。最初のノートは青だった。新しいのは緑にした。クラゲの光の色。

 文房具店で三十分迷った。健太が横で「どれでもいいだろ」と言っていたが、どれでもよくはなかった。ノートの紙質でペンの滑りが変わる。罫線の幅が違えば、グラフの描きやすさが変わる。美月にとって、ノートは道具だった。道具は選ばなければならない。

「開けるのが、少し怖い」

「怖い?」

「このノートには全部入ってる。事件の前も、事件の最中も、事件の後も。全部。新しいノートを開いたら、これが——終わる気がして」

 父が点検道具を置いて、ベンチに座った。美月の隣。

「終わらないよ」

「わかってる。記録は続くんだから。でも——」

「でも?」

「このノートは、特別だから」

 父が古いノートを手に取った。表紙を撫でた。大きな手。水槽の掃除をする手。この手が、面会室でノートを受け取らずに美月の頭に触れた。

「特別だな。でも、特別なのはノートじゃない。お前が書いたから特別なんだ。新しいノートにお前が書けば、そっちも特別になる」

「……お父さん、たまにいいこと言うね」

「たまにじゃない。いつも言ってる。お前が聞いてないだけだ」

 美月は笑った。父も笑った。


   *


 新しいノートを開いた。

 一ページ目。何を書くか。

 最初のノートの一ページ目は、日付と「第三水槽 オワンクラゲの発光観察」と書いた。七月一日。あのときは何も考えていなかった。自由研究のためにデータを取る。それだけだった。

 今は違う。自由研究はもう終わった。発表もした。事件も解決した。父は帰ってきた。続ける理由は、もうない。

 ——本当に?

 美月はペンを持ったまま、水槽を見た。オワンクラゲが泳いでいる。LUNA照明のプログラムで、ちょうど発光が始まったところだった。最初の一匹が傘の縁を緑に光らせている。

 続ける理由はある。理由は変わった。

 最初は「知りたかった」から記録した。なぜクラゲが光るのか。なぜずれるのか。

 途中から「証明したかった」から記録した。父の無実を。森川の犯行を。

 今は——。

 美月はペンを下ろした。一ページ目の最初の行に書いた。


 「クラゲの光の観察記録 第二冊」


 その下に、日付。十一月十五日。金曜日。八十一日目。

 それから、一行空けて、書いた。


 「記録する理由:見届けたいから」


 見届ける。知りたいとか、証明したいとか、そういう目的のある言葉ではない。ただ、この水槽の光がどうなっていくのかを、最後まで見ていたい。来週も、来月も、来年も。クラゲがいる限り。

 本多弁護士に言われたことがある。「証拠として扱えるように記録しましょう」と。あれは正しかった。でも今は、証拠のために書いているのではない。

 父に言われたことがある。「お前のノートが一番正直なデータだ」と。あれも正しかった。でも今は、正直かどうかよりも、ただ書きたいから書いている。

 健太に言われたことがある。「記録するのは得意だけど、踏み込むのは苦手だよな」と。あれも正しかった。でも、踏み込んだ。踏み込んで、戻ってきた。今は、またベンチに座って記録している。踏み込むことと、記録することは、矛盾しない。


   *


 二十時三十分。LUNA照明が安定した。

 美月はストップウォッチを押した。八十一日目の計測。新しいノートの最初の記録。

 三分。最初の一匹。緑色。

 七分。ピーク。予測値との差なし。

 備考欄——特になし。

 「特になし」。この四文字の重さを、美月は知っている。世界が正しく動いている証拠。誰も嘘をついていない夜の記録。

 古いノートは、リュックのいちばん底にしまった。証拠品として本多弁護士に預ける分のコピーは佐藤が保管している。原本は美月の手元にある。いつでも開ける。でも、今日は開かない。開いたら、あの日々に引き戻される。停電の夜。張り込みの夜。逮捕の日。配管カバーに靴が当たった音。森川の目。全部が、あのノートの中に閉じ込められている。

 大切なものは、大切だからこそ、しまっておく時間が必要だ。いつか開く。開いたとき、あの日々を記録として読める自分でいたい。感情ではなく、事実として。

 新しいノートの一ページ目を見た。まだ余白だらけだ。何百ページもある。真っ白な罫線が、天井の非常灯の光を反射して淡く光っている。これが全部埋まるのに、どれくらいかかるだろう。最初のノートは八十日で終わった。同じペースなら、また八十日。来年の二月頃。

 その頃には、何が変わっているだろう。冬のクラゲは夏のクラゲと光り方が違うかもしれない。水温が下がれば、発光パターンも変わるはずだ。季節ごとのデータが蓄積されれば、年単位のパターンが見えてくる。

 楽しみだった。

 事件の前は、ずれの原因を突き止めることが目的だった。今は、「特になし」が続いていくことが楽しみだった。毎日同じであることの中に、少しだけ違いがある。その違いが、季節の変化なのか、機材の劣化なのか、それともまだ知らない要因なのか。わからないことが、まだたくさんある。

 わからないことがあるから、記録する。

 美月は新しいノートを閉じて、リュックにしまった。父がバックヤードから出てきた。

「終わったか」

「終わった。新しいノート、一ページ目」

「何書いた」

「見届けたいから、って」

 父が少し考えて、頷いた。

「いい理由だ」

「お父さんも同じでしょ。毎日水質を測る理由」

「俺のは仕事だ」

「仕事だけじゃないでしょ」

 父が答えなかった。答えなかったのは、図星だったからだ。美月にはわかった。この人はクラゲが好きなのだ。好きだから毎日見ている。好きだから話しかけている。「今日は調子いいな」って。

 帰り支度をした。通用口から出る。十一月の夜。星が出ている。自転車が二台、並んでいる。

「お父さん」

「ん」

「新しいノート、緑にした」

「なんで緑」

「クラゲの光の色」

 父がペダルに足をかけて、空を見上げた。

「じゃあ、三冊目は青にしろ」

「なんで青」

「エクオリンの光の色だ。紫外線なしの、あの青い光」

 美月は笑った。三冊目が来る頃には、百六十日分のデータがある。半年以上。季節が一周するかもしれない。

 ペダルを漕いだ。海沿いの道。潮の匂い。父の背中が、車道側を走っている。

 新しいノートが、リュックの中で軽く揺れていた。まだ何も書かれていないページが何百もある。その余白が、美月には光って見えた。

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