31話 ふたりの子ども
十一月の第三日曜日。夜間開館の日。
来館者は普段より多かった。記者会見のあと、「クラゲが光る水族館」として地方紙に取り上げられたのが効いていた。閉館間際の二十時過ぎ、展示ホールには三十人ほどが残っていた。水槽の前にスマートフォンを構えて、LUNA照明の点灯を待っている。
美月はいつものベンチにいた。新しいノート。七十四日目。隣に健太がいた。「夜の水族館を見たことないから来た」と言っていたが、半分は美月の付き添いだろう。健太の母親が「遅くなるなら迎えに行くから連絡しなさい」と言ったらしい。前回の張り込みでは泣かれたのに、今回は迎えを申し出ている。あの家族の変化も、この事件がもたらしたものの一つだった。
二十時三十分。LUNA照明が点灯した。紫外線の青紫色が水面を照らす。来館者から小さな歓声が上がった。
三分。最初の一匹が光った。緑色の光。透明な傘の縁から始まって、全身に広がる。
「おお」と健太が言った。初めて見るLUNA点灯後の発光だった。「すげえ。マジで光ってる」
「毎日これを見てる」
「毎日見ても飽きないのか」
「毎日違う。ピークの時刻も、光り方も、少しずつ違う。同じ日は一日もない」
「でも全部緑じゃん」
「全部緑に見えるけど、一匹ずつ明るさが違う。位置も違う。上の方にいる個体が先に光るのは、紫外線ライトに近いから。下の方は遅い。その時間差がピークの形を作る」
健太が目を細めて水槽を見た。「言われてみれば、上の方が明るいな」。見方を教えれば、同じ光でも違って見える。美月はそのことが少しだけ嬉しかった。
七分でピーク。予測値との差なし。美月はノートに記録した。いつもの作業。
来館者がスマートフォンで写真を撮っている。フラッシュを焚く人がいて、佐藤が「フラッシュはご遠慮ください」と声をかけていた。光を撮るために光を足したら、本当の光が見えなくなる。美月はそう思ったが、口には出さなかった。
*
二十時四十五分。来館者が少しずつ帰り始めた。
美月がベンチでノートの備考欄を書いているとき、佐藤が展示ホールに入ってきた。後ろに、一人の少年がいた。
背が高かった。美月より頭一つ分以上高い。中学生か高校生。短い髪。制服ではなく、パーカーにジーンズ。手をポケットに入れていた。顔は——どこかで見たような気がした。見たことはないはずなのに、見覚えのある輪郭。
佐藤が美月の前で足を止めた。
「美月ちゃん。この子——」
少年が自分で言った。
「森川翔太です。父の——息子です」
展示ホールの空気が変わった。変わったのは美月の中だけかもしれない。周りの来館者は何も気づいていない。水槽の前でクラゲを見ている。
美月はノートを膝の上に置いた。
「白石美月です」
「知ってます。父から聞いてます」
翔太の声は低かった。十五歳。変声期を過ぎた声。森川の穏やかなトーンとは違う。もっと硬い。緊張している声だった。
健太が隣で固まっていた。美月は健太の方を見ずに、翔太に聞いた。
「来たかったの?」
「母さんが——元の母さんが、反対しました。でも来たかった」
「なんで」
「父が手紙に書いてたんです。この水族館のクラゲのことを。光るクラゲが、全部教えてくれたって」
翔太が水槽を見た。オワンクラゲが泳いでいる。ピークを過ぎた光が、ゆっくりと弱まっていく。
「見たかった。父がいた場所を」
美月は立ち上がった。
「座って。ここから見るのが一番きれいだから」
翔太が少し戸惑った顔をした。それから、ベンチに座った。美月は翔太の隣に座った。健太は反対側にいた。三人がベンチに並んで、水槽を見ていた。
しばらく、誰も話さなかった。
水槽の光が弱まっていく。LUNA照明の紫外線は一定だが、クラゲのGFPが飽和して、蛍光が少しずつ落ちる。三十分もすれば、光はほとんど消える。
「美月さん」
「美月でいいよ」
「美月さん。父のことを——恨んでますか」
美月は水槽を見たまま答えた。
「恨んでない」
「なんで」
「恨むと、データが偏るから」
翔太が美月を見た。美月の答えが意味不明だったのだろう。当然だ。普通の答えではない。
「ノートの話なんだけど」美月が続けた。「記録するとき、感情が入ると、データが歪む。嫌いな人が関わっていると思うと、その人に不利な解釈をしてしまう。好きな人が関わっていると、有利な解釈をしてしまう。だから、記録するときは感情を外す。恨みも、好意も」
「それで恨んでないの」
「正確に言うと、恨まないようにしてるんじゃなくて、恨む時間がなかった。記録してる間は、恨んでる暇がないんだよ」
翔太が黙った。十秒。二十秒。
「……変わってますね」
「よく言われる」
健太が向こう側で小さく笑った。
翔太が水槽に目を戻した。クラゲの光はほとんど消えかけていた。最後の数匹が、傘の縁にかすかな緑色を残している。
「父は、ここでこの光を見てたんですか」
「見てたと思う。でも、見方が違ったかもしれない」
「見方?」
「私はこの光を記録してた。お父さん——あなたのお父さんは、この光を使おうとしてた。同じ光を見ていても、何を考えるかは人によって違う」
翔太が膝の上で手を握った。
「父は——悪い人ですか」
同じ問いだった。山田の妻が聞いた問いと同じ。美月は同じ答えを返さなかった。
「わからない。でも、あなたのお父さんは、水族館を守ろうとしてた。それは嘘じゃなかったと思う。守り方が間違っていただけで」
「間違っていただけ、ですか」
「だけ、は軽すぎたかもしれない。ごめん。正確に言うと、動機と方法は別のものだということ。動機が正しくても、方法が間違えば、全体が間違いになる。でも、動機が嘘だったことにはならない」
翔太の目が濡れていた。泣いてはいなかった。泣く手前で止まっていた。
「父が手紙で書いてたんです。昔の水族館が閉まったとき、受付にノートが落ちてたって。子どもが書いた『またくるね』って」
「聞いた。お父さんから」
「俺がそのノートを見たことがあるんです。小さいとき。父の部屋の引き出しに入ってた。何のノートか聞いたら、父は笑って『友達のだ』って言った」
美月は黙って聞いていた。
「友達のノート。父にとっては、あの子は友達だったんだなって、今はわかります。会ったこともない子の忘れ物を、十年持ってた。それが父のやったことの——始まりだったんですね」
「うん」
「俺は——父を恨んでます。七年間、ほとんど会いに来なかった。養育費も遅れた。母さんは泣いてた。でも、それでも——」
翔太が言葉を切った。水槽を見ていた。光はもう消えていた。クラゲは暗い水の中で、透明な傘を揺らして泳いでいるだけだった。
「それでも、父が好きだったこの場所を、見たかった」
美月はノートを開いた。七十四日目の備考欄はまだ空白だった。何を書くべきか、迷った。
翔太が立ち上がった。
「ありがとうございました。来てよかったです」
「またくるね」
言ってから、美月は自分が何を言ったのか気づいた。翔太も気づいた。二人とも黙った。
「——また来ます」
翔太が頭を下げて、展示ホールを出ていった。背が高い。パーカーの後ろ姿は、森川とは似ていなかった。でも、歩き方が少しだけ似ていた。背筋が伸びていて、歩幅が一定で、振り返らない。
佐藤が入口で待っていて、翔太に何か声をかけていた。聞こえなかった。佐藤が缶コーヒーを差し出しているのが見えた。翔太が首を振った。佐藤が自分で飲んだ。
健太が言った。
「お前、今の——」
「わかってる。言ってから気づいた」
「わざとじゃないのか」
「わざとじゃない。でも——嘘じゃない」
美月はノートの備考欄にペンを当てた。しばらく止まっていた。それから、書いた。
「森川副館長の息子(翔太、15歳)来館。水槽の前で会話。光は消えていた。でも、見に来た」
書き終えて、ノートを閉じた。
展示ホールは静かになっていた。来館者はほとんど帰っていた。LUNA照明のタイマーが切れて、通常の展示照明だけが水槽を照らしている。クラゲは光っていない。透明な傘が、暗い水の中を漂っている。
健太が立ち上がった。
「帰るか。母ちゃんに連絡しないと」
「うん」
「美月」
「なに」
「あいつ——翔太ってやつ、いい奴だった」
「なんでわかるの。ほとんど喋ってないじゃん」
「黙って聞いてたからわかる。人の話を黙って聞ける奴は、いい奴だ。俺にはできない」
美月は少し笑った。
「健太は黙ってなくていいよ。そのままで」
「褒めてんのかけなしてんのか」
「褒めてる」
二人で正面玄関に向かった。佐藤が鍵を持って待っていた。外は十一月の夜。息が少しだけ白かった。
「佐藤さん。翔太くん、帰りましたか」
「ああ。バスで来たらしい。バス停まで送った」
「何か言ってました?」
「一つだけ。『クラゲ、きれいでした』って」
美月は空を見上げた。星が見えた。水族館の裏手は街灯が少ないから、冬に近づくほど星がよく見える。
翔太はバスの中で、何を考えているだろう。父がいた場所を見た。父が見ていた光を見た。それで何かが変わるのかどうかは、美月にはわからない。
でも、来た。見た。それは事実だ。事実は消えない。




